逃げた黒い斥候
黒い斥候を追って飛び立った俺は、五秒でルビーの脚から落ちた。
「うわぁぁぁ!」
「ちゃんと掴まりな!」
「掴まってた! お前が急に曲がった!」
「敵も急に曲がったの!」
「空中で敵へ文句を言えるかぁぁ!」
「言えてるやん、今」
地上から二号の呑気な声が届く。
「お前は見てないで手伝え!」
「見るのも仕事です!」
「見るだけの仕事を今作るな!」
地面が回る。
草の先が巨大な槍みたいに迫る。
飛べない翅を開く。
風を受けて落下方向を変える。
俺の身体は浮かない。
浮かないが、諦めの悪い木の葉くらいにはなれる。
赤い糸が横から飛んできた。
ガーロ隊の三号と四号が、地上で糸を引いている。
「大将、右!」
「見えてる!」
前脚二本で糸を掴む。
ぐんっ!
身体が振り子になり、草の穂へぶつかった。
ばささっ!
花粉が顔じゅうへ張りつく。
「今度は黄色ゴキブリだ!」
二号が下から叫ぶ。
「色の報告は後にしろ! 斥候はどこだ!」
「北の丘を下りた!」
黒い外套は、まともに走っていなかった。
一歩踏むたび、身体が霧へほどける。
次の瞬間には十歩先で人型へ戻る。
足音はない。
匂いも消されている。
地面に残る影だけが、昼の光と逆方向へ伸びていた。
「影を追え!」
俺は糸から飛び降りる。
「また落ちた!」
「今度は自分からだ!」
「成長ですね、勝手に落ちる技術が」
「褒めるところが違う!」
六本脚が土へ着く。
痛い。
でも止まらない。
高速疾走。
草の根を縫い、石の下を抜け、黒い影の端へ食らいつく。
「逃がすかぁぁ!」
影がこちらを振り向いた。
顔は黒布。
額から短い二本角。
細い身体は人間の子どもほどだが、指は長く、爪だけが白い。
「……虫?」
初めて聞いた声は、心底呆れていた。
「その虫に十二体取られた気分はどうだ!」
「なぜ追いつける」
「脚が六本あるからだ!」
答えになっているようで、たぶんなっていない。
でも今はいい。
斥候の目が俺へ向いた。
逃げ足を一瞬止めた。
「ルビー、上!」
赤い影が急降下する。
風の塊が、斥候の背へ叩きつけられた。
ぶおんっ!
黒い外套が膨らみ、人型が前へよろめく。
ガーロ隊の網が左右から飛ぶ。
「捕らえろ!」
網が閉じた。
手応え。
黒い身体が中でもがく。
「やった!」
二号が叫ぶ。
次の瞬間、網の中身が潰れた。
ぺしゃっ。
残ったのは、黒い布と泥だけ。
「中身が服になった!」
「脱いだんだ! 下を見ろ!」
地面の影が細い穴へ流れ込んでいる。
俺たちは追った。
◇
穴は、ベルガ北壁へ向かう古い雨水管につながっていた。
人間の腕より細い。
銀狼の牙は入れない。
ルビー隊も翼を開けない。
「ここからは地下組だ!」
俺、二号、三号、四号、ガーロ隊六匹、チュウタとネズミ隊四匹が管へ滑り込む。
先生の頭は入口で止まった。
「私は!?」
「頭が太い!」
「一番言われたくない理由です!」
「伝話板で来い!」
先生の身体が外から細い骨指だけを差し入れ、板へ魔力を流す。
声が管壁へ響いた。
『魔族の霧化は連続使用できません。再構成には魔力と影が必要です』
「明るい場所へ追い込めばいいのか!」
『管の中は暗いです』
「見れば分かる!」
真っ暗だ。
目はほとんど役に立たない。
でも俺には触角と六本脚がある。
管壁の湿り。
前方へ逃げる空気。
黒い布に塗られていた匂い消し薬。
何も匂わない筋だけが、逆にくっきり分かる。
「前方二十歩。次の分岐を右!」
「何がある?」
ガーロが聞く。
「匂いがない!」
「それで分かるのか」
「地下で何も匂わないなんて不自然すぎる!」
二号が息を吸う。
「確かに、右だけ無味無臭」
「空気を味わうな!」
「今日は毒ちゃいます!」
「今日もやるな!」
分岐を右へ。
細い足跡の振動が近い。
斥候は霧から身体へ戻っている。
爪が金属管を擦る。
しゃっ。
しゃっ。
速い。
でも、三十二拍の隊列より不規則だ。
焦っている。
「追いつくぞ!」
俺たちは管の床、左右の壁、天井へ分かれた。
一列では狭い。
四面を道にすれば、十六匹でも並べる。
ゴキブリ隊が先行。
ネズミ隊が後ろから土の分岐を塞ぐ。
ガーロ隊は小さな鉛網を運ぶ。
二号たちは管そのものへ、追跡拍を打つ。
「逃げ道、左!」
三号の合図。
「塞いだ!」
チュウタの土が横穴を埋める。
「上へ登る!」
四号の合図。
「上は俺たちが先だ!」
俺とガーロ隊が天井を走る。
人間だった頃なら、天井を走る自分を見て気絶したと思う。
今は、もっと速く走れない自分に腹が立つ。
ゴキブリになった。
嫌だった。
鏡がなくても、自分の脚を見ただけでぞっとした。
でも、この身体だから、敵が安全だと思った管を追える。
六本脚の全部が、今は俺の味方だ。
「見えた!」
前方で、黒い人型が振り返る。
布を捨てた身体は灰色。
背中へ、三本爪と黒い滴の刺青。
斥候が白い爪を管壁へ突き立てた。
「近寄るな、害虫」
「遅い! その名前は昨日卒業した!」
「何?」
「今は守護隊だ!」
自分で言って、少し恥ずかしい。
でも撤回しない。
「二号、今だ!」
「作戦名、《害虫言うたやつを全員で包んで反省させる》!」
「反省は後だ、まず捕まえろ!」
三つの鉛網が前後と上から閉じる。
斥候が霧へ変わろうとする。
だが先生の言った通り、連続では使えない。
身体の右半分だけが黒く透け、左は残る。
鉛網が腕と角へ絡んだ。
「捕まえた!」
俺は斥候の背へ飛び乗る。
灰色の皮膚は冷たい。
首の根元で、何かが硬く脈打っている。
黒い石。
「お前も埋め込まれてるのか!」
斥候の目が歪む。
「私が、魔獣と同じだと?」
「違うなら、その石を外せ!」
「これは忠誠だ!」
黒い石が赤く光った。
嫌な振動が腹を突き抜ける。
命令ではない。
熱。
「全員、離れろ!」
斥候の身体から、黒い火が吹いた。
ぼふっ!
管の中で炎が横へ走る。
逃げ場がない。
ガーロ隊が鉛網を盾にする。
チュウタが管底を割り、土の小穴を開ける。
「下へ!」
全員が穴へ飛び込んだ。
炎が背中の上を舐める。
熱い。
気門を閉じる。
前脚で二号を押し、後脚で三号を引く。
最後のガーロが穴へ入った瞬間、黒炎が通り過ぎた。
鉛網の端が赤く焼ける。
「点呼!」
「十六!」
「火傷は!」
「ガーロ隊五号の左後脚、軽い!」
「二号の触角が縮れてます!」
「これは新しい個性です!」
「お前は全部個性で済ませるな!」
「じゃあ何て言えば」
「火傷は火傷でいい!」
「せやったら三号のも報告しますね、たぶん恐怖で心が縮れてます」
「三号の心配だけ症状が抽象的だぞ!」
冗談が出る。
大丈夫だ。
全員生きている。
だが斥候の足音は、また遠ざかっていた。
◇
黒炎で雨水管が破れ、斥候は地上へ出た。
場所は北壁の内側。
倉庫街の裏だった。
俺たちが穴から飛び出すと、巨大な靴が目の前へ落ちる。
どすんっ!
「うわっ!」
「クロ、左へ!」
聞き覚えのある声。
靴は俺を踏まず、斥候の進路を塞いだ。
カイルだ。
銀狼の牙が地上側を先回りしていた。
「なんで分かった!」
「お前らが作った五層地図だ! 雨水管の出口は三つしかない!」
専用小門から伝令が走り、帰還亭の地図で出口を予測した。
市民の青線は片づけられ、荷車が道を塞ぐ。
水路局の作業員は倉庫の排水口へ格子を下ろす。
ブラムが正面。
ルビー隊が上空。
俺たちが地下。
昨日まで下水を別世界だと思っていた人間たちが、今は同じ逃げ道を見ている。
「終わりだ!」
カイルの剣が斥候の足元へ突き立つ。
殺すためではない。
影を石畳へ縫い止める。
ルッツの風が黒霧を一か所へ押し戻す。
ダンの盾が左右を塞ぐ。
俺たちは鉛網をもう一度広げた。
「今度こそ――」
斥候が笑った。
初めて、はっきりと。
「終わり? 何も始まっていない」
首の黒石へ、自分の爪を突き刺した。
「やめろ!」
赤い亀裂が走る。
石が割れた。
ぱきんっ。
小さな音。
次に、斥候の影が地面いっぱいへ広がった。
黒い魔法陣。
倉庫街の石畳へ、六つの黒い点が浮かぶ。
北門。
穀物庫。
東井戸。
城門基礎。
冒険者ギルド。
そして、地下守護隊専用門。
「残り六個!」
ジロの声が伝話板から飛ぶ。
第二育成区から持ち出され、まだ見つかっていない黒石の数と同じだ。
敵は街の六か所へ、すでに何かを置いた。
「どこだ!」
俺は斥候へ飛びつく。
前脚が灰色の腕を掴む。
「言え! 六個をどこへ隠した!」
「探せ、地を這う者」
斥候の声が近い。
震えている。
こいつも怖いのか。
それでも笑う。
「見つけた頃には、門の外が黒く染まる」
「何が来る」
「軍だ」
黒い魔法陣から風が噴き上がる。
俺の脚が腕から剥がれる。
「黒瘴軍は、もう動いた」
斥候の身体が、六つの影へ分かれた。
鉛網が閉じる。
一つを捕らえる。
だが中身は左腕だけ。
残り五つの影が排水溝、壁の亀裂、荷車の下へ散る。
「ルビー!」
「追ってる!」
風が二つを壁へ叩きつける。
黒い染みになって消える。
カイルが一つを斬る。
空の外套へ戻る。
最後の二つは北門の影へ重なった。
俺たちが着いたとき、そこには黒い爪跡しか残っていなかった。
斥候は逃げた。
◇
「くそっ!」
俺は石畳を掻いた。
一度。
二度。
三度。
前脚の先が痛む。
あと少しだった。
背中へ乗った。
腕も掴んだ。
人間側も地下側も、全部の出口を塞いだ。
それでも逃がした。
「悔しい! ものすごく悔しい! あいつの『虫?』って顔も、『探せ』って言い方も、全部腹立つ! 次に会ったら最初に作戦名を聞かせてやる!」
「それは拷問ですか?」
二号が聞く。
「お前が言うな!」
チュウタが捨て板を持ってきた。
「掻くならこっちにしろ。石畳は市のものだ」
「俺の怒り方が正式に管理されてる!」
「修繕費を払いたいのか?」
「板をくれ!」
「はい、大将専用怒り板」
「専用にするな、共用にしろ!」
「みんな自分の感情くらい自分で処理してます」
「一番腹立つ正論だ!」
俺は板を思いきり引っ掻いた。
ぎぎぎぎっ!
木粉が舞う。
少しもすっきりしない。
でも、隣には仲間がいる。
逃がした事実を一匹で飲み込まなくていい。
ガーロが捕らえた左腕を調べる。
「生きた腕じゃない。泥と魔力で作った替え身だ」
先生が爪の内側から、小さな金属片を外す。
「何か刻まれています」
洗うと、六つの印と細い管の図が出た。
斥候が見せた地点と同じ。
さらに、黒い石へ命令を送るための拍が記されている。
「逃がしたけど、手ぶらじゃない」
セラが言う。
「この図があれば、六個を探せます」
俺は板を掻くのをやめた。
「探す。今日中に全部」
「一匹で?」
ガーロが低く聞く。
「……全員で」
「よし」
答えを待っていた顔だった。
◇
ベルガの鐘が鳴った。
一つ、二つ、三つ。
水路事故ではない。
城門警戒の鐘。
ブラムが倉庫街の木箱へ登る。
「聞け!」
冒険者。
水路局。
市場の人々。
北門の衛兵。
地下守護隊。
全員が顔を上げた。
「敵軍接近の証言が出た。事実確認までは騒ぐな。だが、何も起きないつもりで寝るな!」
命令が飛ぶ。
北門外の偵察。
六地点の封鎖と黒石捜索。
井戸の再検査。
食料庫の点検。
市民の避難路確認。
俺たちは地下担当だ。
「五層地図を六枚に分けろ! チュウタ隊は城門基礎、ガーロ隊は東井戸、二号たちはギルド床下! ルビー隊は地上との連絡! ただし――」
皆が俺を見る。
「一班だけで黒石を触るな。見つけたら鉛札。帰還時刻を決める。遅れたら迎えに行く。敵が軍だろうが魔王軍だろうが、うちの規則は変えない!」
「全員で帰る!」
声が重なった。
人間の拳。
ネズミの前脚。
赤い翼。
ゴキブリの六本脚。
昨日まで、ベルガの地下は俺たちの仕事場だった。
今日からは違う。
地上も地下も、同じ街だ。
同じ仲間が住んでいる。
斥候は逃げた。
敵軍も動いた。
怖い。
正直、触角の先まで逃げたい。
でも逃げ足なら、俺たちは世界一だ。
逃げる速さで仲間のところへ駆けつけて、敵の足元を全部ひっくり返してやる。
「地下守護隊、出るぞ!」
専用小門が開く。
俺たちは、守った水路から始まる次の戦場へ走り出した。




