誰も信じない侵攻報告
敵軍が来ると報告した俺は、市役所の会議机で印鑑に潰されかけていた。
どんっ!
「危なっ!」
六本脚を全開にして横へ跳ぶ。
さっきまで俺がいた場所へ、ベルガ市防衛局の大きな角印が下りた。
赤いインクが、俺の後脚一本へべっとり付いている。
「待て待て待て! 報告者ごと受理するな!」
「す、すまん。地図の黒い点かと思った」
「喋る黒い点がいるか!」
「この会議室にはいるな」
二号が真顔で答えた。
「お前はどっちの味方だ!」
「点かどうかは印鑑の後に決めます」
「順番がおかしい!」
ベルガ市役所、第二会議室。
長い机の上には、斥候が残した六地点の図、魔王軍の印を転写した青い布、黒石の破片、十二体の魔物から外した支配核が並んでいる。
証拠は山ほどある。
山ほどあるのだが、俺から見ると本当に山だ。
書類一枚が壁。
インク壺が黒い塔。
人間の咳払いが突風。
緊急会議というのは、体格の小さい者へ一切優しくない。
「もう一度確認する」
防衛局次官ロッガが、太い眉を寄せた。
「敵の斥候を見たのは、この……」
「クロニア遊撃隊だ」
俺は後脚の赤インクを紙へこすりつけながら答えた。
「地下守護隊とも呼ばれている」
「はいはい、存じている。水路の清掃と魔物駆除で功績を上げた小型種族の一団だろう」
「清掃だけじゃない!」
「大将、今そこへ食いつくと長なるで」
二号が触角で俺を止める。
分かっている。
分かっているが、敵軍が来るという時に『掃除が得意な虫』から説明し直すのは腹が立つ。
腹が立つと腹が机につく。
ゴキブリの怒りは見た目に出にくい。
不便だ。
「斥候は灰色の角を持つ魔族。首に黒石を埋めていた。北倉庫街で包囲したが、影の術で逃げた。残した偽腕から、この六地点の図が出た」
俺は前脚で順に示す。
「北門、穀倉、東井戸、門の基礎、冒険者ギルド、俺たちの専用小門。回収できていない黒石も六個。偶然で片づけるには、数が合いすぎる」
「しかし」
ロッガは窓の外を指した。
「北の街道は静かだ。見張り塔から軍勢は確認されていない」
「見えた時には来てるだろ!」
「だから確認している。市壁の全門を閉じ、避難鐘を鳴らせば、商隊は止まり、市場は混乱する。三年前の戦争が終わってから、侵攻の誤報は七度あった」
「八度目も誤報だとは限らない!」
「虫の感覚だけで何千人を動かせない」
会議室が静かになった。
触角がぴたりと止まる。
チュウタの爪が机の下で鳴った。
ガーロ隊の三号が一歩出る。
だが、その前にブラムの拳が机へ落ちた。
どごんっ!
黒石が跳ね、俺も跳ねた。
「俺も見た」
ブラムは低い声で言った。
「水路局も見た。北門の衛兵も見た。市場の荷運び人も包囲に加わった。虫一匹の寝言じゃない」
「ギルド長。あなたの判断力を疑ってはいない」
「なら、こいつらの判断力も疑うな。東水路で五十八人を救い、隠し育成場から三十一体を生かして出した連中だ」
「水路の危険と、都市への侵攻は規模が違う」
「小さな危険を見落とすやつほど、大きな危険に食われる」
ブラムの指が、黒石の表面を叩く。
かつん。
「こいつは小さい。だが、毒牙ウナギ一体で東区の水を止めた。敵は大軍だけで攻めるとは限らん」
オルセンも大本を開いた。
「刻印は間違いなく黒瘴補給群のものです。かの部隊は、正面戦より先に水と食料を腐らせました。軍旗が見えてから備えた町は、三年前に三つ落ちています」
言葉の重さに、役人たちの顔が強張る。
それでもロッガは首を縦へ振らなかった。
「門の警戒増員と六地点の調査は認める。ただし、全市避難と街道封鎖には、目視できる軍勢か王国軍からの命令が必要だ」
「その紙が届くまで敵に待ってもらうのか?」
「規則だ」
「敵へ見せてみろ。感動して帰るかもしれんぞ」
二号が小声で言う。
俺は吹き出しそうになった。
ロッガの眉がさらに太くなる。
「今のは俺じゃない」
「うちでもありません」
二号が澄ました顔をする。
「お前以外に関西訛りはいない!」
「褒めてます?」
「けなしてる!」
「地元では褒め言葉です」
「ここはベルガだ!」
◇
会議の途中でも、六地点の捜索は続いていた。
伝話板が一枚ずつ光る。
『北門班。石なし。代わりに基礎の目地へ黒い銅針を発見』
先生の声。
『穀倉班。石なし。床下へ腐敗茸の乾燥粉。火ではなく、穀物を湿らせる仕掛けです』
マルタの声。
『東井戸班。石なし。古い取水管へ三十二拍で開く逆止め弁を見つけた』
セラの声。
俺は図の上を走る。
三地点へ青い豆を置く。
黒石そのものはない。
だが、何もないわけでもない。
「石は起動用じゃない」
俺は足を止めた。
「何?」
ブラムが身を屈める。
「この六地点は爆発させる場所じゃない。道しるべだ。斥候は石を持って歩き、仕掛けへ命令を移していたんだ」
「移す?」
「北門の銅針は基礎の位置。穀倉の粉は食料。井戸の弁は水。敵が来た時、どこを壊せば町が困るか、先に印をつけた」
人間には見えない細さ。
ネズミには掘れる深さ。
ゴキブリには通れる隙間。
敵は俺たちと同じように、巨大な町の小さな弱点を見ている。
嬉しくない共通点だ。
『門基礎班! 黒い糸を発見! 北門の鎖巻き上げ機まで続いてる!』
チュウタの声が伝話板から響いた。
『引っ張るなよ!』
「言われる前に引っ張ってもうた!」
『おい!』
『でも切れてへん! 土で両側を固めた!』
「それならよし! 帰ったら怒る!」
『どっちや!』
会議室の役人が呆然とこちらを見る。
「緊急時に、よくそんな調子で話せるな」
ロッガが言った。
「怖いから喋るんだ」
俺は即答した。
「黙ると、悪い想像が勝手に増える。仲間の声が返れば、今できることへ脚を動かせる」
言ってから、自分の触角が震えていることに気づいた。
敵軍。
魔王軍の残り。
三年前に人間の国々を焼いた連中。
怖くないはずがない。
俺は壁の染みに驚き、猫の鼻息で飛ばされ、祭りの噴水で三度溺れた男だ。
勇敢という言葉とは、だいぶ距離がある。
でも、伝話板の向こうにはチュウタがいる。
ガーロがいる。
二号たちがいる。
帰還亭には先生とピコがいる。
地上にはブラムやセラや銀狼の牙がいる。
怖いものが増えたのではない。
怖がる理由が、名前を持っただけだ。
『ギルド床下班』
ガーロの声が板を震わせた。
『受付台の柱へ、黒い油を染み込ませた縄を発見。火がつけば依頼書棚まで燃える。縄は浄化菌布で包み、油壺へ隔離した』
「帰還時刻まで?」
『あと百二十拍』
「追加探索するな。戻れ」
『分かった』
返事は短い。
だから安心できる。
昔の俺なら、ついでに周囲も調べろと言ったかもしれない。
今は違う。
一つ見つけた興奮で、仲間の帰る時刻を奪わない。
『最後、小門班!』
ピコの高い声がする。
『旧格子の裏へ黒石の粉! でも、専用門の二重扉と陶器重りには触られてない! 入場記録にも知らない匂いなし!』
「門番が効いたんだ!」
『名前を聞く門、役に立ったよ!』
ばねで俺を飛ばした。
豆を二号に食われた。
三号を扉で挟んだ。
失敗だらけで作った小門が、敵の仕込みを止めた。
笑って作ったものは、戦う日にも笑えないほど役に立つ。
俺は六つ目の青い豆を図へ置いた。
「六地点、全部に仕掛けあり。侵攻報告としては十分だろ」
ロッガは顎を押さえた。
「破壊工作の証拠にはなる。だが、軍勢が今来る証拠には――」
「まだ足りないか!」
「足りない。私は市民を守るために、確かな情報が必要だと言っている」
腹が立つ。
だが、目を逸らしている顔ではなかった。
ロッガも怖いのだ。
自分の命令一つで、店を閉めさせ、荷馬車を止め、病人や子どもを避難させる。
間違えれば、明日食べる物を失う者もいる。
俺は触角を下げた。
「なら、確かな情報を持ってくる」
「偵察隊を出す許可はすでに――」
「市の許可は待たん」
ブラムが立ち上がった。
「冒険者ギルドは、依頼人の危険を調べるためにある」
「ブラム」
「市外偵察は普段から受けている。北街道、東の森、西の丘、全部へ出す。費用はギルド持ちだ」
俺はブラムを見上げた。
「いくらかかる?」
「聞くな」
「顔が痛そうだぞ」
「聞くなと言った!」
◇
冒険者ギルドの掲示板へ、赤縁の依頼書が十二枚並んだ。
北街道偵察。
東林上空確認。
西丘足跡調査。
郊外農家への警告。
馬車道の通行状況。
報酬は通常の二倍。
「三倍にしろ!」
屈強な冒険者が叫ぶ。
「二倍だ!」
ブラムが怒鳴り返す。
「戦争かもしれないんだぞ!」
「だから二倍だ!」
「命を安く見るな!」
「帰って報告するだけだ! 戦うなと書いてある!」
「なら二倍で行く!」
「最初から行け!」
酒場側から笑いが起きた。
笑いながらも、皆の動きは速い。
弓弦を張る者。
水袋を二つ持つ者。
帰路の色札を確認する者。
受付役ノーラは帰還予定時刻を一組ずつ大板へ書いた。
俺たちの規則が、いつの間にか人間側にも混じっている。
「未帰還が一組出たら、次の一組は捜索へ回す! 敵を見ても追うな! 数を数え、色を見て、生きて戻れ!」
ブラムの声に、冒険者たちが拳を上げる。
「了解!」
銀狼の牙も出発する。
カイルが盾を背負い、俺たちの机へ来た。
「北丘まで行く」
「傷は?」
「走れる」
「走れるかじゃない。帰れるかだ」
カイルは一瞬黙った。
「……帰れる距離まで行く」
「よし」
俺は赤い木の船へ、青い粉袋を積む。
「これを持っていけ。黒石が近いと薄く光る」
「虫から人間へ支給品か」
「返却時に汚したら請求する」
「細かいな」
「俺たちには一袋が倉庫一つ分なんだよ!」
カイルは笑い、指先を机へ置いた。
俺は前脚で一度叩く。
「全員で帰れ」
「そっちもな」
◇
夕方まで、軍勢は見つからなかった。
北街道、異常なし。
東林、古い魔物の足跡だけ。
西丘、風で消えた轍二本。
郊外農家、家畜に異常なし。
伝令が戻るたび、市役所の空気は少しずつ緩んだ。
「やはり斥候一体の工作だったのでは」
役人の一人が言う。
「十二体の魔物も、育成場から逃げただけかもしれない」
「一列に並んで散歩する趣味があったのか?」
俺は受付台で乾燥肉を齧りながら返す。
腹が減っていた。
怖くても腹は減る。
そこは生き物として信用できる。
ロッガは市役所とギルドを往復し、報告札を一枚ずつ確認していた。
「日没まで何もなければ、門の警戒を一段下げる」
「反対だ」
「兵も休ませなければならない」
「交代させろ」
「すでに交代表を作っている」
「なら先に言え!」
「お前が先に怒った」
こいつ、話すと意外に腹が立つ。
二号が俺の肉を一欠片取った。
「喧嘩できる相手は、まだ話を聞いとる相手や」
「勝手に食う相手は?」
「仲間や」
「便利な言葉にするな!」
「じゃあ何て呼びます?」
「窃盗犯」
「仲間の方が可愛いですやん」
「盗んだ自覚はあるんだな!」
その時だった。
ギルド前につながれた馬が、一斉に北を向いた。
耳を伏せる。
鼻を鳴らす。
一本、また一本と綱を引き始める。
鳥の群れが北の空から飛んできた。
町の上を越え、南へ逃げていく。
多すぎる。
夕空が羽で黒くなる。
俺の触角へ、地面の奥から低い震えが届いた。
どど。
どどど。
まだ遠い。
だが、一体や十二体ではない。
「静かに!」
俺は叫んだ。
酒杯が止まる。
椅子が止まる。
全員が息を止める。
床へ腹をつける。
六本脚を広げる。
右から重い四足。
左から硬い多脚。
その間に、人型の足。
同じ速さ。
同じ方向。
ベルガへ向かっている。
「来る」
喉が乾いた。
「どれくらいだ」
ブラムが聞く。
「分からない」
「百か」
「分からない!」
「千か!」
「地面全部が鳴ってるんだ!」
北門の方角で、赤い光が上がった。
一本。
偵察隊の敵発見信号。
二本目。
大規模。
三本目が、途中で揺れた。
帰還援護を求める信号。
「銀狼の牙だ!」
ノーラが叫ぶ。
俺たちは受付台から飛び降りた。
「迎えに行く!」
ロッガが入口へ立った。
「北門を閉じる。外へ出れば戻れないかもしれない」
「帰還予定時刻まで、あと二百拍ある!」
「門を開けていれば市民が危険だ!」
「だから小門を使う!」
俺は青い専用線へ飛び込んだ。
人間用の門が閉じても、俺たちの通れる隙間はある。
敵が見落とす道。
市の偉い人も、ついさっきまで戦力に数えなかった道。
それを作ったのは俺たちだ。
ロッガが背後で怒鳴る。
「待て!」
「待たない!」
「違う! 北門外へ救援隊を出す! 地下守護隊を先導に指定する!」
俺は振り返った。
ロッガは防衛局の角印を、今度は命令書の正しい場所へ叩きつけた。
「侵攻警報を発令! 全門封鎖! 市民を避難区画へ! 冒険者ギルドへ正式に偵察隊救助を要請する!」
ブラムが笑った。
「確かな情報は足りたか?」
「多すぎる!」
北の空へ、四本目の赤い光が上がる。
その下。
夕日に染まった丘の向こうから、黒い旗が一本、また一本と現れた。
魔狼。
装甲甲虫。
骨の兵。
毒の霧を背負う魔族。
地平線が、敵になってこちらへ歩いてくる。
そして俺の腹の下。
ベルガの地下水路からも、知らない足音が返ってきた。
三十二拍。
四方から。
もう潜り込まれている。
「二号!」
「聞こえとる!」
「ガーロ!」
「全隊、帰還亭へ集める!」
「チュウタ!」
「地下の枝道、閉じる準備できてる!」
地上の大軍。
地下の潜入隊。
どちらもベルガを狙っている。
誰も信じなかった侵攻報告は、最悪の形で正解になった。
でも、最悪というのは、何もしていなかった時に使う言葉だ。
俺たちは水路を知っている。
地図を作った。
小門を作った。
帰る時刻を決めた。
信じてくれた仲間もいる。
「銀狼の牙を拾う! その後、地下へ潜るぞ!」
「両方やるんか!?」
「脚が六本あるんだ! 二つくらいやってやる!」
格好をつけてから気づいた。
「ただし、俺を運ぶ係も一匹つけろ! もう脚がつりそうだ!」
「締まらんなぁ!」
笑い声と警鐘が重なる。
俺たちは閉じていく北門の下へ、全速力で飛び込んだ。
黒瘴軍が、来る。
いや。
もう、来ていた。




