滅んだ魔王軍の印
魔王軍の記録書は、開いた瞬間に俺たち七匹を生き埋めにした。
ずどんっ!
「重い重い重い!」
「紙が山になった!」
「二号、口を閉じろ! 埃を吸うぞ!」
「大将の後脚が口に入ってます!」
「それは俺のせいじゃない!」
王都記録院の老人が机へ広げた一冊は、人間には古い大本だった。
俺たちには、羊皮紙でできた城壁である。
折り癖のついた頁が勝手に戻り、文字を読もうと乗っていた俺、二号、三号、四号、ガーロ、先生の頭、記録板を持つジロをまとめて挟んだ。
「皆さん、どこです!?」
老人が慌てる。
「《魔王軍兵站記録》の《兵》と《站》の間だ!」
「分かりません!」
「俺たちにも分からん! 紙を上げろ!」
「せめて先に埃を払ってから埋めてくれ!」
二号がくしゃみをする。
「へっくしょい!」
その風圧で頁がさらに数ミリ沈んだ。
「お前が埋めたぞ!」
「風圧、計算外でした!」
「計算してから埋まれ!」
チュウタが頁の端へ潜る。
「せーの!」
持ち上がらない。
ガーロ隊十匹が加わる。
ルビーが下へ風を入れる。
ばさっ!
頁が今度は勢いよく跳ね、俺たちは机の上へ転がった。
「古文書で死にかけるなんて聞いてないぞ!」
「知識には重みがありますから」
先生の頭蓋骨が横向きに転がりながら言う。
「物理的すぎる!」
紺色外套の老人は、王都記録院の鑑定官オルセンと名乗った。
昨夜、完成したばかりの小門を最初に訪れた客。
ギルドから送られた黒い魔石の写しを見て、夜通し馬車を走らせてきたらしい。
帰還亭の人間用机には、蝙蝠の音袋から出た石片。
ウナちゃんから外した三根石。
第二育成区で回収した十八個。
すべて鉛箱へ分けてある。
その蓋へ写した刻印が、三本爪に囲まれた黒い滴だった。
「魔王軍は三年前に滅びたんじゃないのか」
俺が聞くと、オルセンは大本を押さえたまま頷いた。
「魔王本軍は滅びました。魔王城も落ち、主要な将は討たれた。それは間違いありません」
「なら、なんで昨日作ったみたいな石に、その軍の印がある」
「それを調べるために来たのです」
答えになっていない。
俺の右触角が机を叩く。
「分からないなら、分からないと言ってくれ。怖い話をゆっくり言われると、余計怖い!」
オルセンは一瞬目を丸くした。
「……申し訳ない。記録院では、まず由来から説明する癖が」
「由来は後でいい。今、街の下に敵がいるか。それを知りたい」
「可能性は高い」
短い答えが、帰還亭の空気を止めた。
さっきまで紙の下で蹴り合っていた二号も黙る。
可能性。
断定ではない。
だが、黒い石は新しい。
養殖場の餌も温かかった。
誰かが今も動かしていた。
魔王が死んでも、命令を続ける者がいる。
「なあ、聞いていいか」
二号が触角を上げた。
「何だ」
「腹減った時に怖い話するの、一番効きます?」
「今それを実験するな!」
「大将の空気が重かったんで、軽くしてみました」
狙ってやったのか、素で聞いたのか分からない。
でも、肩の力は少し抜けた。
「証拠を一つずつ見よう」
俺は息を吐いた。
「怖がるのは、分かってからでも遅くない」
「もう怖いですけどね」
三号が小さく言った。
「俺もだ。でも一匹で怖がるな。全員で調べるぞ」
◇
黒い石そのものは、鉛箱から出さない。
命令波を遮ったまま、箱の小窓へ浄化ガラスをはめ、表面だけを見る。
人間用の拡大鏡では、刻印が黒い染みへしか見えなかった。
オルセンが眉を寄せる。
「写しでは確かに見えたのですが、実物は潰れている」
「潰れてない」
俺はガラスへ触角を近づけた。
黒い表面へ、ごく浅い溝がある。
人間の目には一本。
俺たちには、爪、滴、その下を横切る細線まで見える。
「上から別の印を塗って隠してる」
「削れますか?」
オルセンが聞く。
「削ったら証拠も命令層も壊す。写し取る」
薄い浄化布をガラス越しに石へ当てる。
普通の炭粉では、表面の黒へ紛れる。
白い浄化材では魔力まで吸いすぎる。
「色が逆ならいい」
ピコが白い粉へ青い瓶片を削って混ぜた。
一度目。
粉が粗すぎ、布に大きな青い斑点しか残らない。
「空です!」
「失敗だ!」
「夜空です!」
「言い換えて成功にするな!」
二度目は、ルビーの風で細かい粒だけを飛ばして選ぶ。
今度は軽すぎ、俺の触角から顔まで青くなった。
「大将、青ゴキブリです!」
「新種みたいに言うな! 誰か風を止めろ!」
「私のせい?」
ルビーが笑う。
「半分はピコ、半分はお前だ!」
三度目。
細かくした青粉へ、スライム粘液をほんの一筋だけ混ぜる。
布へ薄く塗り、石の表面を一往復。
溝だけに青が残った。
布を広げる。
三本爪。
中央の滴。
その下に、折れた輪を貫く針。
オルセンの喉が鳴った。
「完全形です」
古い大本の頁へ、同じ印があった。
今度は勝手に閉じないよう、四隅を陶器片の重りで押さえる。
二号が重りを一つ動かそうとした。
「何してる」
「下に菓子くずが」
「古文書より菓子を選ぶな!」
「知識では腹は膨れへん!」
「今だけは我慢しろ!」
印の横には、古い文字が並んでいた。
『黒瘴補給群・第三育成工房』
『疫魔獣の培養、支配核の移植、飲用路への配置を担当』
帰還亭の空気が冷える。
俺たちが見つけた《第二育成区》。
東系統、配置済み。
毒牙ウナギ。
全部、三年前の軍隊が使っていた方法と一致する。
「第三育成工房」
ジロが記録板へ書く。
「養殖場の紙は第二育成区。工房の中に複数区画があるのか、別の工房かは不明です」
「不明が増えたな」
「記録が増えれば、不明の形も決まります」
「お前は前向きなのか冷たいのか分からない」
「両方です」
ジロの無表情が、少しだけ頼もしかった。
◇
オルセンは三年前の軍用地図を出した。
黒瘴補給群が確認された場所は九つ。
王都北の廃坑。
西方の毒沼。
古戦場の地下墓地。
そしてベルガ郊外の旧排水砦。
「ベルガにもいたのか」
「魔王城が落ちる二日前、旧排水砦を放棄して退いた記録があります」
「誰が確認した?」
「王国軍です。内部は焼かれ、培養槽も破壊されていた。生存者も、使用可能な支配核もないと」
俺の前脚が地図のベルガへ乗る。
「じゃあ確認が間違ってたか、誰かが後から戻った」
「あるいは、地下に別の出口があった」
チュウタが地図の下へ潜り、紙越しに土の線をなぞる。
「旧排水砦は、今の西水路より低い。東の養殖場まで古い管が残っててもおかしくないぞ」
「人間の捜索は?」
「地上と大きな地下道だけです」
オルセンが答えた。
「当時は戦争直後で、崩落した小型管まで調べる余裕がなかった」
人間が入れない道。
見向きもされない下水。
俺たちには世界そのものでも、人間の地図では細線にすらならない場所。
そこへ敵は残った。
腹が立つ。
小さい場所を無視した人間だけにではない。
無視されると知って、毒を流したやつにだ。
「隠れる場所の選び方が気に入らない」
俺は地図を掻いた。
「誰も見ないから何をしてもいいと思ってる。下水なら、虫なら、魔物なら、壊しても分からないと思ってる」
「大将」
ガーロが呼ぶ。
気づけば、前脚で紙へ穴を開けかけていた。
「……悪い」
「地図に怒っても敵は痛くないぞ」
「分かってる。分かってるけど、何か掻かないと腹の中が収まらない!」
チュウタが古い木片を差し出した。
「これを掻け。捨て板だ」
「用意がいいな!」
「大将は怒ると床を削るからな」
俺は木片を三回、思いきり引っ掻いた。
ぎぎぎっ。
少しだけ落ち着いた。
二号が横から同じ木片を掻く。
「お前は何に怒ってる」
「菓子くずを食べ損ねました」
「一緒にするな!」
笑いが戻る。
怒りを消したわけではない。
一匹で抱えず、次に使う形へ変えただけだ。
「旧排水砦を調べる。ただし、今すぐ飛び込まない。まず市外の管と、地上の魔物の動きを見る」
「ようやく大将が飛び込む前に偵察を」
先生が感心する。
「俺だって学ぶ!」
「何度目で?」
「回数を聞くな!」
◇
「ところで」
ルビーが大本の別頁を指した。
「この光ってる剣の女、見たことあるよ」
色あせた挿絵。
白銀の剣。
金色の長い髪。
人間の少女が、黒い城壁を一太刀で割っている。
俺も知っている。
ラナ村で会った、勇者リリアだ。
でかい魔物を正面から叩き斬り、俺たちの作戦へ光を流した。
「リリアだろ」
「知り合いなのですか!?」
オルセンの声が裏返った。
「一緒に村を守った」
「あの勇者リリア・アルセインと?」
「そんな驚くことか。強いのは知ってる」
「強い、では足りません!」
オルセンが大本をめくる。
今度は全員が先に机から降りた。
ばさぁんっ!
空いた頁が閉じる。
「学習したな、俺たち」
「古文書へ二回潰される隊ではありません」
三号が胸を張る。
頁には、三年前の魔王城攻略図があった。
十五歳のリリアが、正門の黒結界を聖剣で断つ。
仲間の治療をしながら前線を進む。
魔王の広域術を自分の結界で受け止める。
最後は城の上半分ごと魔王の核を斬った。
「城の上半分?」
俺は挿絵を見上げた。
「誇張だろ」
「記録院の地形測量です。戦後、上半分が本当にありませんでした」
「あいつ、そんなに強いのか!?」
知っていた。
大型魔物を前にした動きで、普通ではないと分かっていた。
でも、城を半分消すのは聞いてない。
俺たちは配管一本を回すのに十六匹で叫び、挟まり、滑り、二時間かけたんだぞ。
勇者は規模が違いすぎる!
「大将、勝てます?」
二号が聞く。
「なんで戦う前提だ!」
「依頼件数競争とか」
「それなら勝てる!」
「一日で魔王討伐一件に負けません?」
「一件は一件だ!」
「その理屈やと、俺が水滴一個運んだ依頼も一件になりますよ」
「なるだろ!」
「昨日だけで四十七件達成してます」
「威張るところじゃない!」
カイルが横から口を挟む。
「その数え方なら俺たちも異議を申し立てるぞ」
「お前は水桶を一個一件で数えただろ!」
「五十三件だ!」
「まだ言うか!」
オルセンが咳払いした。
「勇者リリアは魔王軍の主要施設を七つ破壊しました。しかし、黒瘴補給群の旧排水砦へ着いた時には、すでに空だった」
笑いが止まる。
「あいつでも、地下の敵は捕まえられなかったのか」
「勇者が弱かったのではありません。敵が戦わず逃げた。小型管へ痕跡を消して」
正面でリリアに勝てる者はいない。
だから敵は、彼女の剣が届かない場所へ潜った。
俺の身体なら入れる場所へ。
「面白いじゃないか」
怖い。
魔王軍。
三年前の残党。
黒い石が少なくとも十八個、外へ出ているかもしれない。
怖いのに、触角が前を向いた。
勇者が大きすぎて届かなかった隙間を、ゴキブリが追う。
嫌われるほど小さく、薄く、しぶとい身体が、また役に立つ。
「リリアが逃したなら、俺たちが見つける」
格好よく言った。
オルセンは感動するどころか、青い俺の顔を見つめた。
「先に、その粉を落としたほうがよろしいかと」
「まだ青いのか!?」
「顔半分だけ」
ルビーが吹き出した。
格好よさは、今日も長続きしなかった。
◇
夕方までに、調査方針を三つ決めた。
一つ、回収した黒石十八個の向きと命令波を、鉛箱のまま別々に測る。
二つ、市外へ続く旧排水管を五層地図へ追加する。
三つ、地上の冒険者へ、魔物の数だけでなく歩き方と間隔を記録してもらう。
「魔物の歩き方?」
カイルが聞く。
「黒い石は動きを揃える。一匹ずつ暴れてるなら自然の群れ。全員が同じ拍なら、誰かが命令してる」
二号が金属管を掲げた。
「三十二拍、覚えやすい歌にします!」
「偵察中に歌うなよ」
「頭の中だけです!」
「お前の頭から外へ漏れない保証がない!」
「保証書、いります?」
「さっきも同じこと言ってたぞ!」
「気に入ったので使い回してます!」
「使い回すな!」
銀狼の牙は西門外へ。
ルビー隊は上空偵察。
俺たちは黒石の向きを測る。
鉛箱を円形へ並べ、一つずつ小窓を北、東、南、西へ向けた。
最初の五個は反応なし。
六個目が北東で震えた。
十一個目も北東。
十七個目も。
かた、かた、かた。
三つの箱が、同じ方向へ小さく動く。
「呼ばれてる」
先生が言った。
「遠くに、命令を送る元がある」
そのとき、伝話板が激しく震えた。
『西門外より、銀狼の牙!』
セナの声が荒い。
『魔物を十二体確認。狼型、甲虫型、沼蜥蜴型。種族はばらばらなのに――』
床へ、遠い足音が届いた。
どん。
三十二拍。
どん。
また三十二拍。
『全員、一列で歩いてる』
魔王軍は、昔の本の中だけにはいなかった。




