きれいな水の祝祭
英雄として祭りへ招かれた俺は、開幕三秒で噴水に撃ち落とされた。
ぶしゃああっ!
「うわぁぁぁ! 水の柱が横から来た!」
「大将が飛んだ!」
「飛んでない! 流されてる!」
東広場の噴水から吹き上がった一筋が、井戸縁を歩いていた俺の腹へ直撃した。
人間の子どもなら、手を伸ばして喜ぶ細い水。
五センチのゴキブリには、城壁を横倒しにした濁流である。
六本脚が石から剥がれた。
視界が透明な泡で埋まる。
気門を閉じる。
身体が水玉の中でぐるん、ぐるん、ぐるん!
「祭りって祝う側を最初に洗う決まりなのかぁぁ!」
赤い木の船が水面を横切った。
テオがつないだ糸を、ガーロ隊が岸から引く。
船底の銅板へ俺の脚が当たる。
しがみつく。
ざばっ!
「救助成功!」
テオが両手を上げた。
「お前、楽しんでるだろ!」
「隊長、船より小さいから助けやすい!」
「大きさを褒め言葉みたいに言うな!」
広場中から笑いが上がった。
昨日まで熱に倒れていた者も、井戸を封鎖されて怒鳴っていた者も、今日は色布を振っている。
水祭り。
ベルガでは、乾季の終わりに井戸と水路へ感謝する古い祝いらしい。
本来は十日後だった。
だが東区の井戸が戻り、発熱者五十八人が全員助かったため、急きょ今日へ早められた。
祝い事を前倒しできる元気がある。
悪くない。
俺だけ開幕から全身ずぶ濡れだが。
「いいなあ、大将だけ水浴び」
二号が井戸縁で羨ましそうにしている。
「代われ!」
「祭りの主役を奪うわけには」
「主役なら水を受けろ!」
「それとこれとは別問題です」
「都合よすぎるだろ!」
俺は濡れた身体で飛びついた。
二号が逃げる。
井戸縁を黒い二匹が全力疾走する。
「おい、始まりの挨拶!」
ブラムが下から怒鳴った。
「今、主役交代の儀式中だ!」
「ただの追いかけっこだろうが!」
◇
俺たちが祭りへ出るため、人間側は広場の石畳へ青い道を描いてくれた。
幅は人間の手のひら一つぶん。
地下組専用の通行帯だ。
青線の内側へ足を置かない。
荷車を止めない。
渡るときは左右を見て、声をかける。
「道がでかい……」
俺は青線の中央へ立った。
左右の人垣が、崖のようにそびえている。
数百人の靴音が石を震わせる。
腹の下から、一歩ごとに圧が来る。
どすん。
どすん。
怖い。
いくら安全線があっても、人間の足は俺の身体を一瞬で潰せる。
ゴキブリになってから、靴底はずっと災害だった。
逃げるべき影。
隠れるべき音。
それが今日は、青線の外で止まっている。
「クロ隊長だ!」
人間の子どもが叫んだ。
「黒い掃除屋!」
「ウナギを捕まえたやつだ!」
「下水の子どもも助けたぞ!」
声が波になった。
触角が勝手に立つ。
嬉しい。
いや、ちょっと待て。
嬉しいけど、こんなに見られると腹を下へ隠したくなる。
人間だった頃、ゴキブリが明るい場所へ出たら、悲鳴か新聞紙が飛んできた。
今は拍手が飛んでくる。
どんな顔をすればいい。
ゴキブリの顔は、そもそも笑えているのか?
「大将、右前脚と右後脚が同時に出てます」
ガーロが横から小声で言った。
「六本もあれば二本くらい間違える!」
「普段は間違えんだろ」
「見られすぎて、どれから動かすか分からなくなったんだ!」
二号が胸を張る。
「歌いましょう!」
「余計目立つ!」
「目立ってなんぼの祭りです」
「今は隠れたい気分なんだよ!」
「すでに百人くらい大将を指さしてます!」
「数えるな!」
チュウタが俺の背を尻尾で軽く叩いた。
「普通に歩け。昨日、毒の管を走っただろ。人間の拍手より簡単だ」
「比較がおかしい。……でも、そうだな」
六本脚を一本ずつ置く。
濡れた石。
石鹸の匂い。
焼いたパンと肉の匂い。
青線の向こうで、テオが赤い船を掲げている。
俺たちは隠れていない。
夜でもない。
昼の広場を、名前を呼ばれて歩いている。
胸の奥が、変な具合に熱くなった。
「地下清掃隊、前へ!」
俺は叫んだ。
今度は脚を間違えなかった。
◇
最初の催しは、《きれいな水の一杯目》だった。
東広場井戸から汲んだ水を、救助された住民と地下清掃隊が一緒に飲む。
人間用の木杯が五十八。
地下組には、青い瓶の蓋を使った小杯が百個並べられた。
「一杯目はクロ隊長へ!」
市の水路長が宣言した。
俺の前へ、人間用の柄杓が傾く。
「待て待て待て! その一杯を受けたら俺が二杯目になる!」
さっき噴水へ流されたばかりだ。
水路長が止まる。
「どれくらい注げば?」
「一滴の半分!」
「半分?」
「人間は水一滴を甘く見すぎだ!」
マルタが細い薬管を持ってきた。
柄杓から薬管へ。
薬管から小瓶へ。
小瓶から細布へ染み込ませ、布先から小杯へ落とす。
ぽたり。
透明な一滴が、俺の胸ほどある杯を満たした。
「多い!」
「これでも一滴です!」
「半分と言っただろ!」
二号が横から顔を突っ込む。
「飲みきれへんなら手伝いますよ」
「主役の一杯を狙うな!」
「全員で飲めば全員主役!」
「うまいこと言っても駄目だ!」
結局、小杯一つを俺、二号、三号、四号、ガーロ、チュウタ、ルビーで囲んだ。
七匹で縁へ口をつける。
「せーの!」
冷たい水が喉へ入った。
甘い鉄臭はない。
紫の苦味もない。
石と朝風の匂いがする、ただの水だ。
ただの水が、うまい。
俺は一滴のため巨大蜘蛛から逃げた。
水を巡って守護虫と戦い、白い粉の管へ入り、今度は街の井戸まで救った。
あの頃の俺に言っても信じないだろう。
ゴキブリになったぞ。最悪だぞ。水滴で溺れるぞ。
でも、その水滴を一緒に飲む仲間が、こんなに増える。
「大将、泣いてます?」
二号が覗き込む。
「水が目に入っただけだ!」
「ゴキブリの目に涙は」
「先生、今は説明するな!」
俺は残った水を一気に飲んだ。
むせた。
「多いって言っただろぉぉ!」
「感動してた大将、どこ行ったんですか」
「むせたら消える程度の感動だった!」
感動が三秒で終わった。
◇
祭りの食事は、さらに大問題だった。
人間用の屋台が二十。
焼き肉、豆煮込み、揚げ芋、香草パン、果物水、蜂蜜菓子。
匂いだけで触角が勝手に別方向を向く。
「右は肉、左は蜂蜜……六本脚を二隊に分けたい」
「身体が裂けるぞ」
チュウタも口元を濡らしている。
「大将、指揮を!」
「食事に指揮が要るのか?」
ガーロ隊の前には、人間が善意で置いた肉片がある。
俺たちなら三日かけても食いきれない。
さらに隣では、パン屋が丸パンを一個置こうとしている。
「待て! 地下組へ食わせたい人間は、全部あの赤い皿へ置け!」
量をまとめ、先生とマルタが毒や傷みを確認する。
そのあと種族と人数に合わせて小分けする。
人間の善意一つで、俺たちの食料庫は簡単に埋まる。
嬉しい。
ものすごく嬉しい。
でも今日だけで一冬ぶん食わせようとするな!
「小さな英雄へ、たくさん食わせてやりたいんだよ」
魚売りが笑う。
熱病で倒れ、診療所で毒水を飲みかけた男だ。
今日は顔色がいい。
「気持ちは受け取る。でも腐らせたら水路へ戻る。保存できる量だけだ」
「残りは?」
「人間が食え!」
「英雄の命令だ! 食うぞ!」
なぜか歓声が上がった。
屋台の客が増える。
二号が金属管を打ち鳴らす。
「作戦名、《地下組へやる予定やったから実質一緒に食ってる宴》!」
「長い! でも今日は許す!」
赤い船が配膳台になった。
テオが糸を引き、人間用の皿から小さく切った料理を運ぶ。
一周目は揚げ芋を載せすぎ、船が片側へ傾いた。
「沈む!」
「隊長、押さえて!」
「俺より芋を減らせ!」
二周目は量を半分。
船は石畳の浅い水路を進んだ。
小皿へ揚げ芋が届く。
外はぱりぱり。
中は熱い。
「熱っ! でもうまい! 腹立つほど熱くてうまい!」
俺が六本脚で口元を扇ぐと、ルビーが鼻で笑った。
「風が要るなら頼みな」
「自分で冷ませる!」
「はいはい、飛べない意地っ張り」
「壁を走れない空自慢!」
ルビーの風が芋をさらった。
二号の皿へ落ちる。
「いただきます!」
「返せぇぇ!」
祝いの食卓は、結局いつもの奪い合いになった。
◇
昼過ぎ、《水渡り競走》が始まった。
浅い樋へきれいな水を流し、小舟で端まで競う。
人間の子どもたちが木の葉船を浮かべる。
テオは赤い船。
俺たち地下組も一艇出すことになった。
問題は、二号が帆へ作戦名を書きすぎたことだ。
「重い!」
「読みやすさには重さが必要なんです!」
「読む前に沈む重さは要らない!」
船は出発前から右へ傾いている。
「文字に重さなんかあるか!」
「布を三枚重ねました!」
「あるじゃないか!」
俺、二号、チュウタ、ルビーが乗る。
ガーロは岸から安全縄を持つ。
開始鐘。
木の葉船が一斉に流れた。
「ルビー、追い風!」
「任せな!」
赤翅が開く。
風が帆へ入る。
船体が前ではなく横へ飛んだ。
「帆がでかすぎる!」
「作戦名を読める大きさにしたんや!」
「走りながら読むやつはいない!」
船は樋の壁へ激突。
ぐわんっ!
俺たちは折り重なった。
最下位。
テオの赤い船は先頭を進む。
「この船、もともと俺たちが改造したんだぞ!」
「負け惜しみが細かい!」
チュウタが笑う。
ここで終われるか。
帆を切る。
船の左右へ二枚だけ残す。
「ルビー、後ろからじゃない。水面へ斜めに風を当てろ!」
「飛沫を作るの?」
「違う。船の下へ空気を入れる!」
風が水面を撫でる。
船底が少し浮いた。
抵抗が減る。
「今だ! 六本脚で漕げ!」
「俺は四本だ!」
「使えるだけ使え!」
俺と二号は左右へ脚を出す。
チュウタは尻尾で舵を取る。
ルビーは細い追い風を刻む。
黒い小舟が、一艇、二艇、三艇と追い抜いた。
「地下清掃隊が来たぞ!」
岸の子どもたちが叫ぶ。
先頭の赤い船へ並ぶ。
テオが糸を引き、船首を前へ向ける。
「負けないよ!」
「病み上がりに負けるか!」
「大人げないぞ、大将!」
「俺の身体は子どもの靴より小さい!」
「年齢の話だ!」
最後の水門が開く。
流れが二つに割れた。
人間の子どもは右へ寄せた。
俺の触角には、左側の水圧がほんの少し強く感じられる。
「左だ!」
船を傾ける。
細い速流へ乗る。
赤い船と同時にゴール布へぶつかった。
「どっち!?」
広場が沸く。
判定役のノーラが両手を上げた。
「同着!」
「勝った!」
「同着だ!」
「最下位からなら勝ちだ!」
「勝手な規則を作るな!」
テオが赤い船をこちらへ寄せた。
「じゃあ、両方一番!」
「それでいい」
今度は素直に頷いた。
◇
日が傾く頃、広場の中央へ大きな布が下ろされた。
市民が一人ずつ、青い絵の具で手形を押している。
五十八人の元患者。
水路局の作業員。
市場の店主。
子どもたち。
布の中央だけが空いていた。
「地下清掃隊の印を」
ノーラが小さな印台を置く。
俺たちは百三十四本の前脚を青い絵の具へつけた。
「待て。数、多くないか?」
「ぷるぴか隊の輪跡も入れます!」
二号が言う。
「手がないぞ!」
「身体ごと転がせば」
「青い団子になる!」
ぷるぴか隊は番号輪だけを押すことにした。
ゴキブリの小さな脚跡。
ネズミの前脚。
赤翅の先。
先生の指骨。
人間の手形の間を、細い青が埋めていく。
俺は最後に、クロニア遊撃隊の印を中央へ押した。
布が広場の塔へ掲げられる。
『きれいな水は、上と下で守る』
水路長が読み上げた。
拍手が降る。
俺は今度こそ、六本脚を間違えず前へ出た。
「俺たちだけじゃ守れなかった!」
声を張る。
「水を運んだ銀狼の牙。病人を診たマルタ。管を直したセラと作業員。地図を作った仲間。水を使うのを我慢した街の皆。全員の仕事だ! だから――」
いいことを言おうとした。
その瞬間、噴水が二度目の水を上げた。
ぶしゃあっ!
「またかぁぁぁ!」
俺だけが布の下から消えた。
広場が爆笑に包まれる。
二号の歌が始まった。
「上と下で守る水ー、大将だけは流れる水ー!」
「歌う前に助けろぉぉ!」
◇
祭りの帰り道。
広場の青線は安全だった。
だが、地下水路へ戻る東点検口の前は、人間の荷車で混んでいた。
祝祭の樽、片づける机、余った食材。
俺たちの入口は、人間用の鉄扉一つしかない。
開くたび大きな風が起きる。
閉じるたび床が震える。
俺たちは壁際で二十分待った。
「昼は主役、帰りは荷車待ちか」
チュウタが欠伸する。
「祭りが終われば、いつもの大きさだ」
少しだけ悔しい。
称賛が欲しいわけではない。
いや、嘘だ。もらえば嬉しい。
でも本当に欲しいのは、祭りの日だけ安全に歩ける青線ではない。
明日も明後日も、踏まれず仕事へ行き、帰ってこられる道だ。
テオが鉄扉の横へしゃがんだ。
「ここ、隊長たちの扉を作ればいいのに」
「俺たちの?」
人間用扉の脇には、古い通気格子がある。
下から二本目だけ、錆びて外れかけていた。
俺たちなら通れる。
だが今は鍵も庇もなく、雨水が直接流れ込む。
セラが格子を測った。
「小門にできます。二重扉、雨受け、青線をここまで延ばせば」
ブラムが頷く。
「祭りの記念品は、食い物よりそっちがいいか?」
二号とチュウタが同時に叫んだ。
「食い物も!」
「両方だ!」
俺も叫んでいた。
遠慮はしない。
道も飯も、働いたぶんだけ堂々ともらう。
明日、ベルガで最初の地下種族専用門を作ることになった。




