培養槽を逆流させろ
作戦開始から十秒で、俺は培養液の管に詰まった。
「押すなぁぁ!」
「後ろも詰まってる!」
「大将の尻が入口を塞いでます!」
「俺の尻はそんなにでかくない!」
「肉汁で滑りが悪いんや!」
「二号、お前は隔離観察中だろ!」
「白へ戻ったから参加許可が出ました!」
「触角の先がまだ薄緑だ!」
「これは個性です!」
帰還亭の床下。
魔物養殖場へ緑の培養液を送る元管は、人間の腕ほど太い。
俺たちには十分すぎる大通りのはずだった。
だが、入口の軸穴だけが狭い。
前脚を伸ばし、触角を寝かせ、翅を背へ押しつけ、腹を薄くする。
あと少し。
「息を吐け、大将」
後ろのチュウタが言う。
「ゴキブリの腹を人間みたいに扱うな!」
「じゃあどう扱えばええんですか」
「知らん! 俺も今日初めて詰まった!」
「朝飯、食いすぎたか?」
「昨日からまともに食ってない!」
「なら、なんで詰まる」
「知らん!」
ガーロが俺の背を触った。
「契約書のインクが固まってる」
「まだ残ってたのか!?」
背中へ写った《甲》の字。
そこへ昨日の肉汁と床の粉がつき、薄い塊になっていた。
二号が浄化布で擦る。
「やめろ、くすぐったい!」
「緊急清掃です!」
「地下清掃隊の最初の大仕事が俺の背中か!」
ごしごし、するっ。
固まりが取れた瞬間、身体が穴へ抜けた。
勢いのまま、緑の液へ頭から落ちる。
「うわぁぁ!」
ガーロが縄を引いた。
後脚が液面へ触れる寸前、俺の身体が宙づりになる。
「止まったぞ!」
「頭が下だ! 格好悪い!」
「生きてれば後で直せる!」
ガーロの言う通りだ。
でも、最初の一歩くらい格好よく決めたかった。
◇
作戦は三つ同時に進める。
外では、ブラムと水路局が第二育成区の人間用扉を封鎖する。
帰還亭側では、先生、マルタ、セラが沈殿槽へ抜いた液を浄化する。
管の中は、俺、ガーロ隊八匹、チュウタ隊四匹、二号、三号、四号。
ルビー隊は通気管を飛び、三か所をつなぐ。
「討伐班は待機だ!」
俺は伝話板へ叫んだ。
「槽が割れても、最初から斬るな! 黒い石の光を遮り、液から離せ! 戻れる魔物か確かめる!」
『分かってる』
カイルの声が板から返る。
『だが、牙が俺の鼻先まで来たら斬るぞ』
「鼻を近づけるな!」
『俺から近づくか!』
「前へ出たがるだろ!」
『お前にだけは言われたくない!』
フィアの杖が板の向こうで何かを叩いた。
たぶんカイルだ。
『こちらは任せて。あなたたちは管をお願い』
「頼む」
任せられる声があると、狭い管の暗闇が少し広くなる。
俺たちは液面の上を通る細い縁へ並んだ。
右は石壁。
左は緑の流れ。
背中のすぐ上を、回転軸が一定間隔で動いている。
ごりん。
三十二拍。
ごりん。
黒い石へ命令を送る拍と同じだ。
「軸に触れるな。脚を一本ずつ置け」
「六本あるのに一本ずつか」
二号が愚痴る。
「二本まとめて置いたら滑っただろ!」
「まだ滑ってません!」
「お前は滑る前から止める!」
直後、二号の中脚がぬるりと外れた。
「あっ」
三号と四号が左右から触角を掴む。
二号は緑の液へ顔を近づけたまま止まった。
「空気の味見も禁止だ」
「まだ何も言うてへん!」
「顔に書いてある!」
縄を一本、全員の胴へ回す。
速さは落ちる。
でも、一匹の失敗を十六匹で止められる。
管の奥へ進むほど、熱くなった。
培養液の泡が増える。
右触角へ甘い腐敗臭。
左触角へも、弱いが同じ匂いが届く。
感覚が戻っている。
左右から匂いが来るだけで、世界に奥行きが生まれた。
「大将、嬉しそうだな」
ガーロが言う。
「今、どう見ても苦しそうだろ!」
「触角だけ上がってる」
「治ってきたんだ。腐食カニに削られてから、ずっと壁が片側にあるみたいだった」
「なら、帰ったら祝いだ」
「作戦の途中で帰った話をするな。腹が減る」
「食う話へ戻す大将も大将や」
二号だけには言われたくなかった。
◇
最初の分岐へ着いた。
太い元管から、十二本の細管がガラス槽へ伸びている。
枝管の口には、小さな逆止め板。
外から液が戻らないよう、一方向にしか開かない。
「これを全部逆へ向けるのか?」
チュウタが板を押す。
動かない。
「十二本を一つずつやってたら間に合わない。元の流れを止めて、沈殿槽側の弁だけ開く」
「流れは勝手に逆へ行かんぞ」
二号が液面を見る。
「使われてない沈殿槽は、ここより低い。弁が開けば落差で吸うはずだ」
「はず?」
「試してないからな!」
「自信満々に言え!」
「分からないことを自信満々に言う隊長を信じるな!」
全員が一瞬黙った。
「正直でよろしい」
ガーロが笑った。
俺も笑う。
怖くないわけではない。
一本目の弁が開かなければ、槽は割れる。
流れが逆にならなければ、緑の液を俺たちが浴びる。
でも、分からないことは皆で見ればいい。
試して、違えば戻す。
「まず小さな試験抜き穴を開ける。チュウタ」
「任せろ」
管の底に、針穴ほどの横道を掘る。
緑の一滴が染み出す。
横道へ落ちた。
最初は止まる。
次の一滴が押す。
細い流れになり、沈殿槽側へ消えた。
「落差あり!」
三号が色糸を振る。
通気管のルビーが合図を運ぶ。
伝話板からセラの声。
『旧沈殿槽で緑の液を確認。量はごく少量。浄化菌が黒く反応しています』
「道はつながってる!」
あとは太い弁を開く。
◇
元弁の内側は、巨大な歯車だった。
八枚の鉄歯が、管の中心で噛み合っている。
外の人間用取っ手は錆びて動かない。
内側の歯の隙間には、黒い粘りが詰められていた。
「誰かが固めたんだ」
俺は粘りへ浄化布を当てる。
布が黒く染まる。
「自然の錆じゃない。弁を閉じたままにする接着剤だ」
「削るぞ」
チュウタ隊が四方向へ分かれた。
爪で黒い粘りを掻き出す。
固い。
表面が削れても、内側からまた染み出す。
二号が金属管で叩いた。
「歌で割れへんか?」
「やってみろ」
「珍しく即許可!」
「静かに歌え」
「歌への注文が矛盾してる!」
二号は鉄歯へ管を当て、低い音を出した。
うううん。
粘りの表面が細かく震える。
音を高くする。
うぃぃん。
黒い膜へ白い筋が入った。
「そこだ! 同じ高さ!」
三号と四号も別の鉄歯を叩く。
ガーロ隊が歯の根元へ浄化菌液を塗る。
チュウタ隊が白くなった筋へ爪を入れる。
一枚。
二枚。
黒い粘りが殻のように剥がれていく。
「あと三か所!」
そのとき、管全体が揺れた。
がしゃあんっ!
伝話板が叫ぶ。
『槽が一つ割れた!』
カイルの怒声。
『幼体ウナギが出るぞ! 盾を寄せろ! 斬るな、液から押し出せ!』
ダンの盾が床へ立つ音。
ルッツとルビーの風。
フィアの浄化術。
『一匹、緑の液から出た! 牙が灰色へ戻ってる!』
「やっぱり液も命令を強めてる!」
救える。
だからこそ、急ぐ。
「二号、音を続けろ! チュウタ、右二枚! ガーロは左! 俺は中央!」
俺は歯車の中心へ入った。
八枚の歯が重なる軸。
身体を横にし、隙間へ前脚を差す。
黒い粘りが脚へ絡む。
引く。
抜けない。
「くそっ!」
歯車が三十二拍目で震えた。
ごりっ。
鉄歯が半寸だけ動く。
前脚が挟まれた。
「大将!」
「作業を止めるな! 脚はまだついてる!」
「一本くらいと言ったら殴るぞ!」
ガーロが怒鳴る。
「言ってない!」
「言いそうな顔だ!」
ガーロ隊二匹が俺の胴へ縄を追加する。
チュウタが鉄歯の下へ爪を入れる。
二号の音が一段高くなる。
黒い粘りへ、ひびが走った。
「引けぇぇ!」
十六匹が縄を引く。
俺の前脚が抜けた。
同時に、最後の黒い殻が剥がれる。
歯車が自由になった。
「回すぞ!」
人間用なら、一人で握る取っ手だ。
俺たちは八枚の歯へ分かれる。
ガーロ隊が押す。
チュウタ隊が下から持ち上げる。
二号たちが音を合わせる。
俺は中心軸の小さな留め金へ六本脚をかけた。
「一、二、三!」
動かない。
「もう一回!」
ぎりっ。
ほんの少し回る。
緑の液面が傾いた。
「もう一回!」
「脚が抜ける!」
「抜けたら拾う!」
「拾う前提にするな!」
全員で笑いながら、叫びながら押す。
ぎぎぎぎっ。
歯車が四分の一回転した。
弁が開く。
最初は、小さな渦だった。
次の瞬間。
緑の川全体が、反対へ走った。
「来るぞぉぉ!」
俺たちは管の上縁へ飛びつく。
培養液が下を轟音で逆流する。
ごおおおおっ!
枝管から液が引かれる。
十二本の流れが元管へ集まり、旧沈殿槽へ吸い込まれていく。
俺の六本脚へ、流れの震えが突き上げた。
この身体でなければ入れなかった。
この仲間がいなければ回せなかった。
「開いたぞ!」
伝話板の向こうから歓声が返る。
◇
第二育成区では、十二のガラス槽から緑の液が下がっていった。
割れた槽の幼体ウナギは、濡れた布の囲いで保護されている。
腐食カニは鉄格子へ鋏を叩きつけていたが、液が腹より下になると動きを止めた。
吸血ヒルも、菌糸魔獣も、黒い石の赤い光へ逆らうように身体を丸める。
「今だ! 鉛布をかけろ!」
先生の指示で、人間班が壁の石箱へ鉛布をかけた。
光が消える。
魔物たちの一斉行動が止まった。
だが、緑の液は旧沈殿槽へ大量に流れている。
『浄化が追いつきません!』
セラの声。
『菌床一段目、黒変! 二段目まで来ます!』
第二の仕事だ。
俺たちは管から帰還亭側へ走った。
逆流の風が背を押す。
「速い! 六本脚でも追いつかれる!」
「転ぶなよ!」
二号が言った直後、自分で転んだ。
「お前ぇぇ!」
胴縄につながった全員が引かれ、一斉に滑る。
十六匹の黒い塊が、管の中を坂下りした。
「止まれぇぇ!」
「どうやって!」
「脚を使え!」
「多すぎて絡まってます!」
出口の軸穴が迫る。
このままでは、十六匹まとめて詰まる。
「チュウタ、下を掘れ!」
「管だぞ!」
「出口横の漆喰!」
チュウタが爪を立てる。
土が崩れ、横穴が広がる。
俺たちは軸穴と横穴へ二列に分かれ、帰還亭の床下へ飛び出した。
ごろごろごろっ。
ガーロ隊を巻き込み、二号を踏み、最後にチュウタの尻尾へぶつかって止まる。
「全員いるか!」
「十六!」
三号が即答した。
「怪我は!」
「大将の前脚に挟み跡!」
「二号の自尊心!」
「それは前から傷だらけや!」
「元気だな。次へ行くぞ!」
◇
旧沈殿槽は、緑の泡でいっぱいだった。
第一菌床は真っ黒。
第二も紫へ変わっている。
先生とマルタが第三の菌床へ白い浄化材を混ぜる。
「量が多すぎます!」
「全部を一度に浄化するな!」
俺は槽の縁へ登った。
「分ける! ぷるぴか隊を呼べ!」
ぷるぴか隊二十四体が、番号輪を揺らして並ぶ。
「待ってください。これは普通の汚泥ではありません」
先生が止める。
「そのまま食べさせたら、こいつらまで操られる」
「食べさせない。運ばせる」
帰還亭で作った昇降皿。
水路で回収した瓶首。
腐食カニの脱皮殻。
使えるものを全部運ぶ。
ぷるぴか隊の身体へ、浄化菌液を吸わせた外套をかける。汚れを直接食べず、表面の布だけへ緑の液を染み込ませる。
布が紫になったら脱ぐ。
ルビー隊が乾かす。
白い浄化材で毒を吸う。
新しい布へ交換。
「一号から六号、第一列! 七号から十二号、第二列!」
「俺は?」
二号が並ぶ。
「お前はゴキブリ列だ!」
「番号差別!」
「種族の話だ!」
人間班は大きな布を交換する。
ネズミ隊は汚染済み浄化材を鉛箱へ運ぶ。
赤翅隊は乾燥と送風。
先生とマルタは色を測る。
俺たちゴキブリ隊は槽壁の細い溝へ入り、漏れを粘液素材で塞ぐ。
一度、ぷるぴか十四号が外套を食べかけた。
「待て待て待て!」
二号が抱きつく。
二匹まとめて緑の槽へ落ちかける。
「だからお前はそっちへ行くな!」
「十四号を止めたんです!」
「それは偉い! でも止まり方を考えろ!」
ガーロ隊が縄で引き戻す。
失敗はする。
声が飛ぶ。
隣が止める。
次は外套の端へ苦い薬を塗り、ぷるぴか隊が食べないようにした。
一時間。
二時間。
緑は薄くなる。
紫へ。
青へ。
最後に、試験布が白いまま上がった。
「浄化完了!」
歓声が沈殿槽を揺らした。
◇
第二育成区の魔物は、三十一体が生きたまま保護された。
幼体ウナギ七。
腐食カニ十二。
吸血ヒル六。
菌糸魔獣二。
汚泥スライム四。
黒い石が埋め込まれていた個体は五体。先生とマルタが鉛覆いで命令波を止め、一つずつ外す。
液が抜け、石の光が消えると、魔物たちは俺たちを襲わなかった。
怯え、縮こまり、餌にも近づかない。
「こいつらも、ここへ閉じ込められてたんだな」
カイルが剣を鞘へ戻す。
「鼻先へ来たか?」
「来た。幼体ウナギが一匹、俺の靴へ隠れた」
「斬らなかったな」
「規則だからな」
「怖かったか?」
「うるさい」
怖くても、名前のない命をすぐ敵にしなかった。
それで十分だ。
ブラムが施設の人間用扉を開け、ギルドの調査班を入れる。
空になった槽。
黒石の箱。
手術台。
《第二育成区》の紙片。
証拠は全部残った。
「派手に壊してたら、何も分からなくなってたな」
ブラムが言う。
「壊すのはいつでもできる」
「お前が言うと説得力が妙だな」
「どういう意味だ!」
「管へ詰まった隊長が、施設を壊さず止めた。十分な成果だ」
「詰まった話は報告書から消せ!」
ノーラがすでに書いている。
「《隊長、背面付着物により軸穴で一時停止》」
「丁寧に書くな!」
「事故記録は次回の安全へ必要です」
「正しいのが一番つらい!」
「大将専用の欄、作りましょか」
「専用欄を作るほど頻発してないだろ!」
「今週だけで三回目です」
「数えるな!」
皆が笑う。
養殖場を止めた勝利の真ん中で、俺の失敗も正式記録になった。
まあ、いい。
次のやつが同じ穴へ入る前に背中を洗うなら、俺が詰まった意味もある。
◇
地上へ戻ると、朝日が東広場の井戸へ差していた。
封鎖縄が外される。
セラが最後の試験布を水へ入れた。
白い。
二度目も白。
三度目も白。
「飲用水、安全です!」
広場から大きな歓声が上がった。
桶へ透明な水が落ちる。
テオが母親に支えられ、診療所の毛布を肩へ掛けたまま見に来ていた。
「隊長!」
「寝てろと言っただろ!」
「もう熱ないもん!」
「走るな!」
テオは井戸縁へ赤い船を浮かべた。
きれいな水の上を、二本の牙跡が残る船が進む。
沈まない。
紫にもならない。
ただ朝の光を乗せて、ゆっくり回る。
「明日、水祭りをやるぞ!」
誰かが叫んだ。
「井戸が戻った祝いだ!」
「地下清掃隊も呼べ!」
「黒い掃除屋に一杯目を!」
人間たちの声が降ってくる。
俺たちは互いの顔を見た。
泥。
浄化菌。
黒い粘り。
俺の背中には、まだ薄く《甲》が残っている。
「祭りの前に風呂だな」
チュウタが言った。
「六本脚を全部洗うのか」
二号が嫌そうに数える。
「お前は触角の緑も落とせ!」
「個性が!」
「毒だ!」
街を救った地下清掃隊は、歓声の中、まず帰還亭の脚洗い場へ向かった。
英雄にも、祭りへ出る前の身だしなみは必要らしい。




