魔物の養殖場
帰還亭の床板を一枚外したら、焼いた肉が飛び出してきた。
ぼんっ!
「熱ぅぅぅ!」
「大将が餌になった!」
「食うな! 助けろ!」
俺の背中へ、脂の染みた肉片が乗っている。
人間なら小さな切れ端。
俺には布団ほどでかく、しかも熱い。
ガーロとチュウタが左右から引っ張り、どうにか剥がした。黒い甲殻へ肉汁が光る。
右触角には、香ばしい匂いと、生臭さと、怪しい薬草臭が一度に押し寄せた。
「地下から夕食のおかわりとは、気が利いてるな」
チュウタが肉をつつく。
「食うな。何が入ってるか分からない」
「匂いはうまそうだぞ」
「その台詞を百回以上聞いてきた気がする!」
「話数って何だ?」
「こっちの愚痴だ!」
「大将、たまに変な言葉を使いますよね」
「気にするな、前世の癖だ」
「前世でも肉に飛びついてたんですか」
「そこだけ引き継ぐな!」
床板の下には、黒い鉄の筒が通っていた。
六十四拍ごとに内部の板が動き、切った肉や魚の骨を下へ落としている。
こん。
筒が震える。
次の餌が来る。
「塞げ!」
俺たちは板を戻した。
どんっ!
今度は床の下で肉が潰れた。
二号が板の隙間を覗く。
「もったいない」
「敵の餌だぞ!」
「敵が食う前に食えば俺たちの勝ちでは?」
「腹を壊して負ける!」
帰還亭の人間たちは、まだ寝ている。
起こして大勢で床を剥がす案はやめた。
下の施設に誰かいるなら、こちらが気づいたと教えることになる。
まず見る。
戻る。
それから潰す。
地下清掃隊になって最初に決めた規則を、こんなに早く自分へ言い聞かせるとは思わなかった。
「偵察は少数。俺、ガーロ、チュウタ、二号。先生はここで黒い石の反応を見る。ルビー隊は連絡。三号と四号は帰還亭の見張り」
「大将の触角はまだ片方が鈍い」
ガーロが言う。
「だから一人で行かない」
「それならいい」
反対されないことが、少し嬉しかった。
任せることを覚えたつもりでも、俺はすぐ先へ走りたくなる。
でも、四匹なら四方向を見られる。
俺の左が鈍くても、仲間がいる側まで世界が消えるわけじゃない。
「作戦名、《床下食堂の料理人に挨拶》!」
二号が小声で宣言した。
「挨拶しない。見つからない。食わない」
「禁止が三つも!」
「お前には三十個でも足りない!」
「三十個も禁止事項があったら何もできません」
「お前は放っておくと大体余計なことをするだろ」
「否定できません」
「素直で助かる!」
◇
餌筒へ直接入れば、中の板に挟まれる。
チュウタが筒の横を掘り、石の継ぎ目から下へ向かう。
土は途中で途切れた。
その先は、黒い漆喰で固められている。
「新しい」
チュウタが爪についた粉を嗅ぐ。
「ベルガの古い壁じゃない。二月も経ってない」
「ウナちゃんの石と同じ頃か」
俺は右触角を漆喰へ近づけた。
ほとんど匂いがない。
だが、完全な無臭は自然にはない。
湿気も、石も、土も、古くなれば何かを残す。
何も感じない場所は、何もないのではなく、消されている。
「これだ。黒い糸と同じ薬剤が混ぜてある」
「壊すか?」
「小さくな」
チュウタが針先ほどの穴を開ける。
向こうから温かい空気が吹いた。
肉。
血。
腐った薬草。
何種類もの魔物。
右触角へ匂いの塊が殴りつける。
「うぐっ」
俺は後ろへ転がった。
「大将!」
「大丈夫だ。臭いだけで頭を蹴られたみたいになった」
「何匹いる?」
「数えられない。多すぎる」
穴を少し広げる。
薄い身体を横へ倒す。
頭。
胸。
腹。
後脚が引っかかる。
「太ったか?」
チュウタが後ろから押す。
「昨日から肉汁しか食ってない!」
「背中にまだついてるぞ」
「それか!」
ガーロが甲殻を布で拭いた。
もう一度。
今度は、するりと抜ける。
こういうときだけ、薄い身体へ感謝する。
格好いい潜入の直前に脂で詰まるのは、できればやめてほしい。
◇
壁の向こうは、巨大な棚の裏だった。
俺たちは床と棚の隙間へ伏せる。
目の前を、緑色の液が流れている。
細い溝。
人間の指幅しかないが、俺たちには川だ。
液面へ泡が浮かび、一つ弾けるたび、甘い腐敗臭が広がる。
「飲むなよ」
「まだ何もしてません」
二号が口元を拭いた。
「今、舐めただろ!」
「空気を味見しただけです!」
「意味が分からない!」
二号の触角の先が、うっすら緑に染まっていた。
先生から預かった白い試験布を当てる。
白から紫。
紫から黒。
さらに布の端が小さく動き、俺の脚へ巻きつこうとした。
「うわっ!」
ガーロが布を切り離す。
床へ落ちた試験布は、虫のように三歩這ってから止まった。
「飲んだら腹を壊すどころじゃないな」
チュウタが緑の川から離れる。
「身体を勝手に動かされる」
「味見してへんからな!」
二号が必死に言う。
「帰ったら先生に診てもらえ」
「信用がない!」
「日頃の積み重ねだ!」
棚の端まで走る。
そこで、部屋の全体が見えた。
広い。
帰還亭の四倍はある。
石の床へ、大きなガラス槽が十二。
鉄格子の囲いが十八。
天井から餌筒と緑の液を送る管が下がり、壁には黒い石を並べた箱がある。
ガラス槽の一つに、細長い魚影が泳いでいた。
灰色の牙。
まだ俺たちの十倍ほどだが、形は毒牙ウナギと同じ。
隣の槽には、拳ほどの腐食カニが何十匹も重なっている。
さらに奥には、白い吸血ヒル。
菌糸を背負った四脚獣。
黒い泥から頭だけ出す汚泥スライム。
「自然の巣じゃない」
ガーロの声が低くなる。
「ああ」
餌は種類ごとに分けられている。
槽には番号札。
大きさも成長の段階も揃っている。
魔物が偶然集まったのではない。
誰かが集め、餌を与え、育てている。
「養殖場だ」
俺の言葉が、口の中で苦くなった。
魚を育てる施設なら知っている。
安全な水と餌を用意し、大きくして食べる。
ここで育てているのは、街の水を毒にし、壁を腐らせ、人の血を吸う魔物だ。
何のためか、考えるまでもない。
「全部、ベルガへ放つつもりか」
チュウタの尻尾が床へ落ちる。
「もしくは、もう放ってる。俺たちが捕まえた腐食カニも、ウナちゃんも、ここから出たのかもしれない」
二号がふざけるのをやめた。
静かな二号は、騒いでいるときより心配になる。
俺は前脚で背を叩いた。
「見るだけだ。今ここで全部相手にしない」
「逃がしたら?」
「逃がさないために、仕組みを全部持ち帰る」
◇
俺たちは四方向へ十歩ずつ分かれた。
長く離れない。
床を二回叩けば停止。
三回なら即時撤退。
俺は壁の黒い石箱へ向かった。
箱の下には、細い作業台がある。
針。
黒い糸。
小さな鉛の殻。
根を三方向へ伸ばす黒い石。
ウナちゃんの身体から外したものと同じだ。
ただし、石にはまだ根がない。
横の透明瓶へ浸され、ゆっくり脈打っている。
どくん。
箱の中の石が一斉に光る。
俺の胸の奥へ、嫌な圧がかかった。
動け。
噛め。
水へ入れ。
意味のない命令が、感覚だけで押し込まれる。
「俺の脚だ」
床を掴む。
「勝手に使うな」
右前脚が一歩、緑の川へ向かおうとする。
左中脚で蹴り戻した。
黒い石の光が消える。
ほんの一瞬。
まだ身体へ入ってもいない石で、これだ。
埋め込まれた魔物が逆らえるはずがない。
「数は」
石箱の穴を数える。
六列、六段。
三十六。
残っている石は十八。
空きが十八。
「十八匹、外へ出た可能性がある」
声にした瞬間、背中が冷えた。
捕まえたのは、黒い蝙蝠の一個と、ウナちゃんの一個。
ほかはどこだ。
街の地下か。
井戸か。
それとも、もう地上へ出ているのか。
ガーロが腐食カニの囲いから戻る。
「甲殻の内側へ切った跡がある。まだ石は入ってない」
チュウタは床の管を指す。
「緑の液は全部の槽へつながってる。太い元管が一本、奥の大槽から来てるぞ」
二号は紙片を引きずってきた。
「字があります」
人間用の紙なので、床へ置けば俺たち四匹が乗れるほど大きい。
薬剤の染みで大半は読めない。
残った行だけ、先生に習った異世界文字を拾う。
『第二育成区』
『投与後、三十二拍で反応』
『東系統、配置済』
『次回搬出――』
日付の部分は破れていた。
「第二?」
二号が紙を見つめる。
「ここが第二なら、第一もある」
そして、第三がない保証もない。
俺は紙の端を切り、読める部分だけ丸めた。
「持ち帰る。石は触るな。設備も今は壊さない」
チュウタが歯を食いしばる。
「今すぐ槽を割れば、こいつらを止められる」
「割ったら全部出る」
「なら一匹ずつ倒す」
「何十匹いると思ってる。しかも、こいつらは命令されてるだけかもしれない」
ウナちゃんは石を外したら大人しくなった。
腐食カニも、巨大ヤモリも、殺さずに止められた。
ここにいる幼い魔物まで、敵だと決めてしまいたくない。
「液と石を止める。そうすれば戦わずに済む」
「方法はあるのか」
「今から探す」
格好よく言ったが、何も思いついていない。
隊長とは、分からないときほど触角を高く見せる生き物である。
「大将、右触角が震えてます」
二号に見抜かれた。
「これは考えてる動きだ!」
「左も震えてます」
「回復してきたんだよ!」
本当に、先端へ少し感覚が戻っていた。
今だけは喜んでおく。
◇
撤退しようとしたとき、六十四拍目が来た。
こん。
天井の餌筒が開く。
肉と骨が、十二の槽へ落ちる。
どしゃっ。
普通なら、魔物は餌へ群がるはずだった。
だが、動かない。
すべての槽で、魚もカニもヒルも同じ方向を向いた。
俺たちがいる棚へ。
「気づかれた?」
「匂いか?」
「いや」
壁の黒い石が赤く光っている。
三十二拍。
強制行動の間隔。
槽の魔物が一斉に前へ出た。
がんっ!
ガラスと鉄格子が同時に揺れる。
「撤退!」
俺たちは棚の裏へ走った。
二号が持つ紙片が引っかかる。
「置いてけ!」
「証拠です!」
ガーロが紙を丸ごと盾の後ろへ押し込む。
チュウタが穴へ飛び込む。
その後ろへ二号、ガーロ。
俺が最後。
背後で、二度目の衝撃。
がしゃあんっ!
ガラスに亀裂が走る。
緑の液が一本、床へ漏れた。
流れが俺の後脚へ迫る。
「大将!」
穴の向こうからガーロが前脚を伸ばす。
俺も伸ばす。
届かない。
緑の液が脚先へ触れる寸前、左触角が風の動きを拾った。
餌筒。
中に空気が流れている。
「二号、食事の合図を鳴らせ!」
「今ですか!?」
「早く!」
二号が穴の向こうで金属管を叩く。
帰還亭の夕食開始に使った合図。
かん、かかん、かん!
餌筒を通り、軽い振動が施設中へ響く。
魔物たちの頭が一斉に上を向いた。
俺から注意が外れる。
その一瞬に、ガーロの前脚を掴んだ。
「引けぇ!」
身体が穴へ滑り込む。
緑の液が後ろを通り過ぎた。
チュウタが漆喰を戻し、外から泥を詰める。
俺たちは息もせず、狭い穴を登った。
後ろから、何十もの身体が壁へぶつかる音が追ってくる。
どん。
どん。
どん。
でも、壁は破られない。
帰還亭の床下へ戻った瞬間、全員でひっくり返った。
「偵察だけの予定だったよな」
チュウタが息を切らす。
「見て、戻った。予定通りだ」
「最後に大将が溶けかけた」
「溶けてない!」
「肉汁は落ちましたね」
「そこは助かった!」
二号の緑色の触角を、待っていた先生が白い布で包む。
「味見しましたね?」
「空気だけです」
「三時間、隔離観察です」
「横暴や!」
「契約の安全規定です」
「昨日作った規則がもう俺を苦しめる!」
二号の叫びで、帰還亭の人間たちが起きた。
俺はブラム、ノーラ、セラへ、持ち帰った紙と見たものをすべて伝える。
十二の槽。
十八の囲い。
黒い石は十八個残り、十八個が持ち出されている可能性。
全設備をつなぐ緑の培養液。
そして、《第二育成区》の文字。
「街の真下で、魔物を作ってやがったのか」
ブラムの拳が机へ落ちる。
「兵を入れる」
「待て」
俺は地図へ登った。
「大人数で扉を開けたら、槽の魔物が全部動く。正面から倒せても、毒と腐食液が水路へ流れる」
「なら、どうする」
施設の形を、五層地図へ描く。
餌筒。
十二の槽。
十八の囲い。
緑の液を運ぶ枝管。
枝管はすべて、部屋の奥にある太い元管へ集まっていた。
液が魔物を育て、黒い石を活性化させている。
なら、敵は魔物の数ではない。
流れだ。
「管へ入る」
俺は元管を前脚で叩いた。
「中から弁を開き、緑の液を使われていない沈殿槽へ抜く。培養槽そのものを空にする」
セラが図面を重ねる。
「流れを逆にするのですか? この弁は人間の腕でも回りません」
「外からはな」
太い弁の中心には、指先ほどの軸穴がある。
人間には小さすぎる。
俺には、走って入れる。
チュウタが歯を見せた。
「中なら、俺たちの仕事場だ」
ガーロ隊が盾を鳴らす。
ルビー隊が翼を広げる。
二号は隔離箱の中から金属管を掲げた。
「俺も行くで!」
「お前は触角が白へ戻ってからだ!」
「もう半分戻りました!」
「まだ半分緑だ!」
こん。
床の下で、六十四拍目の給餌装置が動く。
続いて、がしゃん、と何かが割れた。
施設のガラス槽は、もう長くもたない。
俺は帰還亭の入口へ赤札と黒札を同時に立てた。
「地下清掃隊、緊急依頼だ」
何十匹もの魔物と戦う必要はない。
俺たちが相手にするのは、一本の管。
魔物の養殖場を、内側から干上がらせる。




