ギルド公認・地下清掃隊
ギルド長ブラムが机へ置いた契約書に、俺は潰された。
ばさぁんっ!
「大将ぉぉ!」
「契約前に殉職しました!」
「勝手に殺すな! 紙が重い! あとインク臭い!」
人間には羊皮紙一枚。
五センチの俺には、天井つきの白い広場である。
六本脚で持ち上げようとしても、紙の端は俺の背中へぴったり張りついた。昨夜は毒牙ウナギの腹へ入り、今朝は街の飲み水を守り、昼前には書類に食われる。
冒険者とは、こんなに死因の多い生き物だったのか。
「待ってろ、今助ける!」
ガーロ隊が紙の四隅へ潜り込む。
「せーの!」
持ち上がったのは、紙ではなく机のほうだった。
「お前たち、力の使い方がおかしい!」
「大将が挟まってる場所が分かりません!」
「真ん中だ! インクで『甲』って書いてある下!」
「大将が甲で、ギルドが乙なんですね」
「逆だ! いや、どっちでもいいから早く出せ!」
チュウタが紙の端を噛み、ルビーが下へ風を入れ、二号がなぜか景気づけの歌を始めた。
「地下を守るぜ、契約だー! 隊長ぺちゃんこ、契約だー!」
「歌詞を直せ!」
ようやく紙の下から這い出す。
俺の背中には、黒い文字が一行、左右反対に写っていた。
先生が読んだ。
「《ベルガ地下水路総合保全常設依頼》」
「俺が契約書になったみたいに読むな」
ギルドの会議室には、ブラム、受付役ノーラ、水路技師セラ、薬師マルタ、銀狼の牙。机の下には俺たちクロニア遊撃隊が集まっている。
窓の外では、東区の井戸が三度目の水質検査を終えたところだった。
熱病になった五十八人は全員快方へ向かっている。
死者はゼロ。
毒牙ウナギも黒い石を外され、保護水槽で大人しく魚肉を食べている。
勝った。
胸を張っていい成果だ。
なのに、俺の左触角はまだ先端が痺れ、二晩まともに寝ておらず、背中には契約書の文字までついた。
華々しい勝利の翌朝とは、もっとこう、歓声とご馳走があるものじゃないのか。
「で」
俺は人間の小指ほど太いペン先を見上げた。
「常設依頼って、つまり何をどこまでやる?」
ブラムが紙を押さえる。
「魔物討伐、水路内の救助、亀裂と詰まりの発見、軽微な補修、浄化菌床の管理、ぷるぴか隊の運用。まとめてクロニア遊撃隊へ頼みたい」
「全部じゃないか!」
「お前らがこの十日で全部やったんだ」
「十日でやったからって、一年中やれると思うな!」
俺が叫ぶと、会議室が静かになった。
断りたいわけではない。
ベルガの地下は、今や俺たちのほうが詳しい。人の指一本も入らない管へ入り、匂いと振動で異変を見つけ、壁でも天井でも走れる。
水路を守る仕事は、俺たちだからできる。
それは誇らしい。
でも、できることと、何でも背負うことは違う。
「昨日、ガーロは毒を受けた。俺の触角もまだ治ってない。先生は解毒薬づくりで骨を三回組み間違えた」
「四回です」
「増やすな。チュウタ隊は泥波のあと半日しか寝てない。ルビー隊は薬を運び続けて翼が乾いてない。ここで『今後も全部よろしく』と書くなら、次の危険で誰かが帰れなくなる」
ブラムの顔から笑いが消えた。
「何が要る」
「休む日。交代する人数。危険な場所へ入る前の封鎖権。無理なものを無理だと言える決まり。それから、俺たちだけで直せない大きな亀裂を見つけたら、人間の修理班が来ること」
「報酬は?」
「もちろん要る!」
そこは即答した。
仲間の命を語った直後でも、塩と乾燥肉は必要だ。
むしろ、生きて帰った仲間へ食わせるものがなければ、何のための交渉だ。
二号が金属管を掲げる。
「香辛料追加!」
「お前は黙ってろ!」
「大将、重要項目です!」
「重要だが今じゃない!」
「じゃあいつなら重要になるんですか」
「契約が終わったあとだ!」
「終わったら忘れそうです」
「忘れない! 俺の記憶力を舐めるな!」
カイルが机の向こうで鼻を鳴らした。
「随分と注文が多いな、黒い隊長」
「銀狼の牙は休みなしで地下へ潜るのか?」
「潜るわけないだろ。昨日まで肋骨が痛かった」
「じゃあ同じだ!」
「虫が休暇を要求する光景には慣れてない」
「俺だって剣士が水桶を五十一個運んで腰を痛める光景には慣れてない!」
「五十三個だ!」
「二個盛るな!」
「盛ってない!」
フィアがカイルの後頭部を杖で叩いた。
「競争はあと。クロの言うことは正しいわ。地下で倒れられたら、私たちは助けに入れない」
セラも頷く。
「水路局から修理班を二組出します。小型の印を見つけたら、地上側の同じ番号へ連絡する方式にしましょう」
ノーラが契約書の余白へ書き足していく。
「一班は最大六時間。緊急時も次班へ必ず引き継ぐ。黒、赤、青の三色札で危険度を表示。黒札は即時封鎖。封鎖解除はクロニア遊撃隊、水路局、ギルドの三者確認」
「俺たちの黒札を、人間が勝手に剥がさないことも入れてくれ」
「理由を書けば?」
「黒札を見たら入るな、で十分だろ」
「人間は理由がないと入ります」
テオの赤い船を追って落ちた事故を思い出す。
否定できない。
「じゃあ《毒》《崩落》《大型魔物》《不明》の四種類。絵もつける」
「《不明》の絵は?」
「大きな疑問符」
「疑問符が読めない人には?」
「二号の顔」
「なんでや!」
「何をするか分からない顔だからだ!」
笑いが起きた。
重かった空気が少し軽くなる。
だが、決めることは軽くしない。
通常巡回は三日に一度。
ぷるぴか隊の浄化具合と数を確認し、浄化菌床は乾きと色を記録する。亀裂は小さなものだけ応急処置し、石組みを変える工事は水路局が行う。
魔物討伐は通常報酬と別。
毒、腐食、感染性の危険がある場合は追加報酬。
回収物は汚染を検査し、持ち主不明のものだけ正式な手続きでクロニアへ譲渡できる。
病人や行方不明者の救助は、金がなくても最優先。ただし後から市とギルドが費用を負担する。
そして、一班ごとに必ず休息時間を設ける。
「ここまで書けばどうだ」
ブラムが新しい契約書を差し出した。
今度は巻いた状態で、俺たちの前へそっと置く。
「報酬は週ごとに塩、乾燥肉、布、薬、針金から選択。貨幣でも受け取れる。緊急依頼と討伐素材は別査定。ベルガ滞在中の乾燥所と食料庫も用意する」
「香辛料は?」
二号が小声で聞いた。
「月に一瓶」
「ギルド長ぉぉ!」
二号がブラムの靴へ抱きついた。
「一生ついていきます!」
「契約は一年更新だ!」
俺は二号の後脚を引っ張った。
「食い物で忠誠を売るな!」
「大将も塩には即答してたでしょう!」
「あれは全員の生活だ!」
「香辛料も生活です!」
強い反論だった。
月一瓶が契約へ正式に加わった。
◇
問題は、署名だった。
ペンが持てない。
俺の脚へインクをつけて歩けば線は引けるが、契約書の半分が足跡になる。
「それはそれで格好いいですよ」
ピコが目を輝かせる。
「百匹で黒い渦を描きましょう!」
「契約より呪いの儀式に見える!」
先生が小さな木片を削り、俺の前脚で押せる印を作った。
中央に触角二本。
周囲を六本脚が囲み、その外側へネズミの尻尾、赤い翼、骨の杖。
「クロニア遊撃隊の印です」
「いつの間に」
「第百六話の登録時から案はありました。ピコの第一案が爆発する甲虫だったので、保留していたのです」
「印が爆発してどうする!」
「押すと火花が出ます!」
「契約書を燃やす気か!」
普通の印でよかった。
俺は前脚で印を押す。
ぐにっ。
力が足りない。
ガーロとチュウタが背中から押す。
さらに二号、三号、四号が乗る。
「重い! 署名で圧死する!」
「あと少しです!」
「せーの!」
ぽんっ。
俺たちは印の柄から前へ転がった。
紙の上に、黒い紋章がくっきり残る。
ブラムがその隣へ署名した。
「これで今日から、お前たちはギルド公認《ベルガ地下清掃隊》だ」
「おおおおっ!」
机の上下から歓声が上がった。
掃除屋。
響きだけなら地味だ。
剣で竜を倒す冒険者のほうが、子どもには人気が出るだろう。
でも、水は誰もが飲む。
道は誰もが歩く。
その下で詰まりを取り、毒を見つけ、見えない場所を直す者がいる。
俺たちは街の底を守る。
黒い身体が一番役に立つ場所で。
「記念の初巡回へ行くぞ!」
「その前に休息規定です」
先生が言った。
「さっき契約したばかりでしょう」
「今の勢いで行きたい!」
「大将の残り休息時間は三時間です」
「細かい!」
「規則を作った者から破るのですか?」
全員が俺を見る。
ここで破ったら、次から誰も休まなくなる。
「……寝る」
「よろしい」
二号が毛布代わりの布切れを広げた。
「作戦名、《大将を三時間黙らせろ》!」
「寝言は対象外にしろよ!」
◇
三時間後。
公認地下清掃隊の初巡回は、派手さの欠片もない仕事から始まった。
第一安全所から東取水路まで、浄化菌床の色を見る。
ぷるぴか隊二十四体を四体ずつ六組に分け、番号輪と大きさを確認する。
「一号、異常なし。二号、少し太った」
「俺も異常なし!」
二号が胸を張る。
「お前じゃない!」
「番号制は紛らわしいと言ったでしょう!」
「今さら名前を変えるな!」
ぷるぴか二号は、汚泥を食べすぎて樽の栓ほど膨れていた。
先生が浄化菌液を薄め、食べる量を調整する。
三つ目の菌床は乾燥。
ルビー隊が水滴を運ぶ。
四つ目の壁に指一本ぶんの亀裂。
セラの修理班へ青い伝達札を渡す。
何も起きない。
何も襲ってこない。
それが、こんなに嬉しい仕事だとは思わなかった。
「討伐がないと報酬が減るな」
チュウタが言う。
「おい、平和を残念そうに言うな」
「飯の話だ。通常分だけでも十分だけどな」
「今週はウナちゃんの捕獲報酬がある」
「あいつ、呼び名が可愛すぎないか?」
「誰が決めたんだ?」
全員が二号を見た。
「本人も気に入ってます!」
「返事できないだろ!」
そのとき、床の下から、かすかな震えが届いた。
かん。
かん、かん。
修理班の合図ではない。
ぷるぴか隊の動きでもない。
「全員、止まれ」
俺は腹を石へつけた。
左触角はまだ鈍い。
右触角と六本脚で、振動の位置を拾う。
壁の向こう。
低い。
何かが石へ当たっている。
ガーロ隊が盾を構え、チュウタが掘削爪を出す。
「黒札か?」
「待て。規則通り、まず確認だ」
細い点検亀裂へ三号と四号が入る。
すぐに戻ってきた。
「作業員です! 人間が一人、古い水門の向こうで動けなくなってます!」
「怪我は?」
「足を板に挟まれてます。でも水位が上がってる!」
俺は黒札ではなく、赤い救助札を立てた。
契約で決めた通り、地上側の同じ番号へ連絡を走らせる。
「水門は勝手に開けない。上流を止めるまで、俺たちが中で息をつなぐ!」
人間用の扉は、俺たちには動かせない。
だが、隙間なら通れる。
俺とガーロ隊が水門の下へ身体を滑らせた。
冷たい水が腹を叩く。
気門へ入らないよう、胸を高く上げる。
向こう側で、若い作業員が壁へしがみついていた。
「来るな! 虫――」
「救助だ! 叫ぶ息があるなら、ゆっくり吸え!」
返事が止まる。
俺たちは挟まった板へ縄をかけた。
ガーロ隊が板を持ち上げる。
水位は俺の背を越えた。
「大将、先に上へ!」
「嫌だね。契約第一条だ!」
「そんな条文ありましたか!」
「今、追加した! 全員で帰る!」
チュウタが水門の下から掘削爪を差し込み、板の端を削る。
ぱきんっ!
作業員の足が抜けた。
同時に、上流の水が止まる。
セラの修理班が外から水門を開いた。
人間の腕が伸び、作業員を引き上げる。
ついでに俺たちまで桶ですくわれた。
「うわっ、乱暴に助けるな!」
「沈むよりいいでしょう!」
セラが笑っていた。
助けられた作業員は、濡れたまま俺たちへ頭を下げる。
「虫って言って、悪かった」
「間違ってない。俺はゴキブリだ」
「そうじゃなくて……名前も知らずに呼んだ」
「俺はクロ。こっちはガーロ隊。板を削ったのがチュウタだ」
作業員は一匹ずつ見た。
「ありがとう、クロ。ガーロ隊。チュウタ」
五センチの名前が、人間の口から水路へ響いた。
俺の触角が、勝手に上がる。
「大将、嬉しそうですね」
「救助成功への満足だ!」
「背中に契約書を写したまま格好つけてもな」
チュウタが笑う。
「まだ消えてないのか!?」
「《甲》だけくっきり残ってるぞ」
「今日一日それで巡回してたのか!」
全員が笑った。
救助記録第一号。
怪我人一名、生還。
地下清掃隊、全員帰還。
公認になって最初の仕事は、魔物を倒すことではなかった。
壊れた板を外し、一人の名前を聞き、全員でずぶ濡れになった。
それでいい。
こういう仕事を積み重ねるための契約だ。
◇
ただし、早くも新しい問題が見つかった。
「休む場所が足りません」
先生が第一安全所を見回す。
人間の修理班十二人。
銀狼の牙五人。
俺たち四十七匹。
ネズミ隊十三匹。
赤翅隊八匹。
ぷるぴか隊の当番四体。
全員が同じ乾いた小部屋へ入った結果、長椅子の下まで脚と靴と尻尾で埋まっていた。
「俺の乾燥茸、誰か踏んだ!」
「私の靴の上で食うな!」
「風を送るぞー!」
「人間のパンくずが降ってきた!」
「ぷるぴか三号がスープへ入った!」
「飲むなぁぁ!」
休憩なのに、毒牙ウナギ戦より騒がしい。
俺はひっくり返った木皿の上へ登り、宣言した。
「次の仕事だ!」
「もう働くんですか?」
「違う。ちゃんと休むために作る!」
小さな者も大きな者も、濡れず、踏まれず、同じ場所で飯を食える。
ベルガ地下水路、最初の共同休憩所を。




