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病の根に黒い石

毒牙ウナギの腹で、黒い角が動いた。


 どくん。


 隔離槽の水が紫へ変わる。


 次の三十二拍を待たず、ウナギの全身が弓なりに反った。


「暴れるぞ!」


 銅線の網が張りつめる。


 ぎりぎりぎりっ!


 土門へ黒い尾が叩きつけられ、乾いた土が頭上から降る。


 俺たちは隔離槽の壁へ飛びついた。


 捕まえたはずの巨大な身体が、網ごと槽をひっくり返そうとしている。


「落ち着け! もう追いかけてない! 赤い船も食わせた! いや、食わせてはいないけど、牙へ刺しただろ!」


「大将、話して通じる相手なら昨日終わってます!」


 二号の金属管が尾に弾かれた。


 かぁんっ!


 先生の頭蓋骨へ飛んでいく。


「また私ですかぁぁ!」


 ごつん。


 管と頭蓋骨が一緒に転がった。


 笑えない。


 ウナギの牙から紫の毒が溢れ、巻いた中和布を黒く染めている。


 このままでは、採った毒が尽きる前に本人が毒で壊れる。


「黒い物が毒袋を押してる!」


 マルタが鑑定鏡を腹へ向けた。


「毒を作らせてるの。眠っても、傷ついても、ずっと!」


「外せるか!」


「外から切れば毒袋も裂く。中の位置を見ないと無理よ!」


 全員の視線が、俺へ集まった。


 嫌な予感がする。


 近頃、この視線のあとには大抵、人間の腕さえ入らない、ネズミも通れない、薄いゴキブリだけが行ける穴が待っている。


「念のため聞く。中って、どこの中だ?」


 マルタがウナギの口を指した。


「喉から毒袋の裏へ行ける」


「やっぱり体内かぁぁ!」


 ゴキブリへ生まれ変わっただけでも予定外だ。


 巨大魚の喉へ入り、毒袋の裏から黒い異物を外すなんて、予定外のさらに地下三階だぞ。


「完全狭所適応です」


 二号が言う。


「適応先を選ばせろ!」


「船長からお医者さんへ昇格ですね」


「無資格だ!」


「では、体内清掃員」


「もっと嫌になった!」


「肩書は増える一方ですね」


「増えても給料は増えない!」


「経験だけは増えてます」


「経験、換金できないんだよ!」


 ウナギの身体が再び跳ねる。


 毒が増える。


 俺の愚痴へ時間を使っている場合ではない。


「入る。ただし一匹ではやらない」


 俺は全員を見た。


「先生は魔力の位置。マルタは毒袋。ガーロは毒の変化。チュウタは身体を押さえる。二号は三十二拍を数えろ。中と外で同じ瞬間に動く」


「大将は?」


「口の中で後悔してくる!」


「作業してください!」


     ◇


 毒牙ウナギの口は、洞窟だった。


 二本の紫牙の間へ、濡れた板を渡す。


 顎が閉じないよう、チュウタが外から銅棒を噛ませた。


「絶対に外すなよ!」


「分かってる!」


「くしゃみもするな!」


「こんなときに出るか!」


 チュウタの鼻がひくっと動く。


「今、動いたぞ!」


「気のせいだ!」


「俺の命を気のせいへ預けるなぁぁ!」


 俺、三号、四号の三匹で板を渡る。


 赤い船へ積んでいた小型灯。


 鉛を薄く叩いた半球。


 銅の留め具。


 浄化菌液の小滴。


 道具は全部、背へ分けて持った。


 牙の根元では、紫の液が汗のように滲んでいる。


 一滴が膨らみ、俺の身体より大きくなる。


「右へ!」


 俺たちは舌の溝へ飛ぶ。


 毒滴が板へ落ちた。


 じゅわっ!


 濡れ板の表面が紫に染まり、細い煙が上がる。


「一滴でこれかよ……」


 ガーロが受けた毒を思い出す。


 腹の下が冷える。


 逃げたい。


 この身体は毒へ強い。暗闇にも狭所にも強い。


 でも、怖さが消えるわけではない。


 むしろ触角が危険を細かく拾うぶん、嫌な予感が全部はっきりする。


「大将」


 三号が後ろから言った。


「先へ行きますよ」


「分かってる。今、勇気を集めてた」


「落ちてました?」


「少し見つけた!」


 三匹で喉へ入る。


 壁が脈打つ。


 ぬるい。


 湿っている。


 生き物の内側の匂いが、傷んだ左触角にまで染み込む。


 こんなときに限って感覚が戻ってくるな。


「治るなら外で治れ! 今じゃない!」


「触角へ怒ってます?」


「文句を言わないと進めない!」


 足場は柔らかい。


 六本脚を広げすぎれば粘膜を傷つける。


 狭めれば、身体ごと奥へ滑る。


 人間の手なら傷つけずに入れない。


 俺たちの軽さと薄さなら、壁の動きに合わせて進める。


 右、左、止まる。


 ウナギの呼吸へ六本脚の順番を合わせた。


 人間だった頃には嫌悪しかなかった這う動きが、今は生き物を傷つけない歩き方になる。


 喉の横へ、自然にはない細い傷を見つけた。


 黒い糸で縫われた跡。


 皮膚は塞がっているが、糸だけが中へ残されている。


「誰かが切って、縫った」


 俺は伝話糸を二度引く。


 外で先生が答える。


「傷の奥から加工魔力があります。黒い異物まで、あとクロさんの身体三つぶんです」


「人間の指一本より短いのに、ものすごく遠い!」


 縫い跡に沿って進む。


 やがて、毒袋の裏へ出た。


 紫色の柔らかな袋。


 その表面へ、艶のない黒い石が食い込んでいる。


 石から三本の細い根が伸びていた。


 一本は毒袋。


 一本は背骨側。


 一本は喉。


 三つを同じ拍で脈打たせている。


「見つけた。黒い石だ」


 三号が灯りを近づける。


 石の表面に、三層の溝。


 蝙蝠の音袋から出た石片と同じ形だ。


「同じやつが、身体の中へ埋められてる」


 怒りで触角が勝手に前へ伸びた。


 ウナギが自分で街を毒そうとしたわけじゃない。


 誰かが身体を切り、毒を作らせ、飲み水の下へ入れた。


 怪物だから倒せばいい。


 そう思っていたら、石を残したまま別の生き物へ同じことが起きる。


「外すぞ」


「順番は?」


 四号が聞く。


「先生!」


 伝話糸へ声を乗せる。


「三本とも切ったら止まるか!」


「同時には駄目です!」


 外から先生の振動が返る。


「背骨側を先に切れば暴走。毒袋側を先に切れば全量放出。喉側を切れば噛みつきます!」


「全部駄目じゃないか!」


「石の命令波を先に止めてください!」


「どうやって!」


「蝙蝠の石片を止めたときと同じです。鉛で覆う!」


 持ってきた半球は、石より少し小さい。


「小さいぞ!」


 三号と四号が並べる。


「二つ重ねて全身輪みたいにすれば?」


「隙間が残る!」


「浄化菌液で埋めます!」


「菌で命令波が止まるか?」


「分かりません!」


「堂々と言うな!」


 試作する時間はない。


 黒い石の拍が早くなった。


 三十二。


 二十八。


 二十四。


 ウナギの身体が外で暴れる。


 内側の壁が俺たちを押し潰そうと縮む。


「大将、急いで!」


「分かってる!」


 半球二つを上下から被せる。


 隙間へ浄化菌液を塗った銅線を巻く。


 だが、石から伸びた三本の根が邪魔で閉じない。


「根を通す切り欠きが要る!」


 四号が前脚の刃で鉛を削る。


 一つ。


 二つ。


 三つ。


 切り欠きへ根を通し、半球を重ねる。


 黒い石の表面が隠れた。


 どくん。


 命令波が鉛の内側で鳴る。


 まだ止まらない。


 継ぎ目から冷たい振動が漏れる。


「締めろ!」


 三匹で銅線を引く。


 六本脚ずつ。


 十八本の脚を毒袋の周りへ置き、柔らかな壁を傷つけないよう力をそろえる。


 《群走指揮》が薄い光になって伝わった。


 俺の焦りだけではない。


 三号の慎重さ。


 四号の細工。


 外で拍を数える二号。


 全員の動きが一つの輪を締める。


 きりっ。


 鉛の継ぎ目が閉じた。


 黒い振動が消える。


 ウナギの身体が止まった。


「止まった……?」


 外からチュウタの声。


「止まったぞ! 死んでない! 息してる!」


 毒袋の紫が薄くなる。


 三本の根も力を失い、細い糸のように垂れた。


「今なら外せる!」


 先生の指示に合わせ、背骨、喉、毒袋の順で根を外す。


 切らない。


 石の側から一本ずつ剥がす。


 最後の根が外れた。


 鉛で包んだ黒い石が、俺たち三匹の前へ落ちる。


 ごとっ。


 俺には岩みたいに重い。


「持って帰るぞ」


 三号が前脚をかける。


「これを?」


「見つけた証拠です」


「帰り道、喉の上り坂だぞ!」


「大将、冒険者は素材を残さないんでしょう?」


「こういうときだけ俺の台詞を使うなぁぁ!」


 三匹で鉛包みを押した。


     ◇


 毒牙ウナギは、石を外してから一度も牙を振らなかった。


 紫だった牙は薄い灰色へ戻る。


 隔離槽の底で身体を丸め、静かに呼吸している。


 ガーロが網越しへ水を流すと、鼻先だけを上げた。


「こいつも被害者だったか」


「街を毒したのは事実だ」


 ノーラが言う。


「だが、自分で選んだわけではないことも記録する。治療後は飲用水と切り離した水槽へ移す」


「処分しないのか?」


「私一人では決めない。少なくとも、証拠を調べる前に殺す理由はない」


 俺は頷いた。


 ガーロも、ウナギの前へ浄化済みの小魚を一匹置く。


「食うか?」


 ウナギは匂いを嗅ぎ、ゆっくり飲み込んだ。


 二号が感動したように触角を上げる。


「名前、つけます?」


「つけない」


「毒抜きウナちゃん」


「聞く前に決めるな!」


 ノーラの記録板には、《保護観察個体・毒牙ウナギ一号》と書かれた。


 二号がその横へ小さく《ウナちゃん》と足す。


「ぷるぴか隊と同じ流れになってるぞ!」


「呼びやすさは現場の命です」


「便利な理屈を覚えたな!」


「大将から学びました」


「悪い部分だけ吸収するな!」


     ◇


 鉛包みをギルドの低い鑑定台へ載せた。


 ブラム、先生、マルタ、セラ、ノーラが囲む。


 俺たちはさらにその上へ乗る。


「覆いを開けるぞ」


 ブラムが確認する。


「全員、鉛板の外へ」


 薄い覆いをほんの少し開く。


 冷たい振動。


 先生の鑑定光へ、三層の内部構造が浮かんだ。


 一層目は毒の生成。


 二層目は一定拍の行動強制。


 三層目は、周囲の水へ毒性魔素を広げる増幅。


「蝙蝠から出た石片と同系統です」


 先生が言う。


「ただし、こちらは生きた身体へ固定するための根があります。用途に合わせて作り直されている」


「自然発生では?」


 ブラムが聞く。


「あり得ません」


 セラが黒い縫い糸を置いた。


「傷を開き、石を埋め、三本の根を毒袋と神経へつないだ者がいます。糸には匂い消しの薬が使われています」


 裏山の投入口に残っていた手袋と同じだ。


 匂いを消し、痕跡を隠す。


 偶然、魔物が街へ迷い込んだのではない。


 誰かが選んで入れた。


「いつだ?」


「傷の治りから二か月以内」


 ノーラの表情が固まった。


「東水路の魔物が増え始めたのは三週間前だ」


「準備してから放したんだ」


 俺の前脚が鑑定台を強く叩いた。


「蝙蝠へ石を食わせたやつと、同じかもしれない。少なくとも同じ作り方を知ってる」


 正確な刻印はまだない。


 誰が作ったかも分からない。


 だが、点は二つになった。


 裏山の蝙蝠。


 ベルガの飲用水。


 どちらも、魔物の性質を命令へ変え、群れや街へ被害を広げる。


 敵は姿を見せず、自然な事故の顔をさせている。


「次は、入れた場所を探す」


 ブラムが鉛箱を閉じた。


「その前に街を治す」


 マルタが俺の赤い外套を指でつまみ、診療所側へ向ける。


「あなたたち、薬運びがまだ五人ぶん残ってる」


「分かってる。命令しないでくれ、今いいところだった!」


「五十一人が待ってる」


「行きます!」


     ◇


 その夜までに、発熱者は五十八人になった。


 全員へ解毒薬が届いた。


 重症だった七人も熱が下がり始め、命を落とした者はいなかった。


 東二系統の毒水は、白い浄化材を交換籠へ詰め、湿った浄化菌床を三段重ねて処理した。


 ぷるぴか隊は飲用管へ直接入れない。


 代わりに外側の漏れた油泥だけを食べ、修理する亀裂を見えるようにする。


 チュウタ隊が漏水穴を塞ぐ。


 セラとノーラが水を一段ずつ流し、試験札を白のまま通す。


 一回目は薄紫。


 まだ駄目。


 浄化材を交換する。


 二回目は札の端だけ紫。


 菌床を一段増やす。


 三回目。


 札は白いままだった。


「通水していい」


 ノーラが言う。


「まだ飲ませない。朝まで三回検査する」


「慎重だな」


「一度失った信用は、試験一枚では戻らない」


「なら、三枚でも十枚でもやる」


 俺たちは朝まで水路を走った。


 井戸八つ。


 取水槽三つ。


 枝管二十一本。


 白い試験札が並ぶ。


 夜明け、東広場の井戸から汲んだ水を、最初にノーラ自身が飲んだ。


「苦くない」


「待て! 試験札だけでよかっただろ!」


「水路監督官が飲めない水を、市民へ飲めとは言えない」


「格好いいことをして俺を怒れなくするな!」


 次にブラム。


 マルタ。


 回復した魚売り。


 最後に、テオが小さな匙で飲んだ。


「普通の水」


 広場から歓声が上がった。


 俺たちは井戸縁の下で、赤い船へ安全な水滴を一つ落とす。


 百匹ぶんの乾杯だ。


「街の水を取り戻したぞ!」


「船にも乾杯!」


 二号が牙穴を銅板で直した赤い船を叩く。


「船名、《毒牙を噛ませたら逆に捕まえた号》!」


「長い!」


 テオが井戸の上から覗き込んだ。


「赤い船のままでいいよ!」


「持ち主の意見が一番強かった!」


 笑い声の中、ブラムが巨大な依頼札を井戸縁へ置いた。


 俺たち全員より大きい。


「ベルガ市とギルドから、次の仕事だ」


「まだ寝てないぞ」


「だから今渡す。逃げる前にな」


「逃げない! 少し休むだけだ!」


 札には、こう書かれていた。


 《地下水路の討伐、清掃、点検、浄化菌管理を、クロニア遊撃隊へ常設依頼として委託したい》


 俺たちは一度、水路へ入っただけの客ではなくなろうとしていた。


 街の地下を任される、本物の掃除屋になるのだ。

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