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街に熱病が広がる

テオを寝かせた診療所で、二人目の患者が倒れた。


「水を……」


 市場の魚売りが水差しへ手を伸ばす。


 俺の右触角へ、あの匂いが刺さった。


 甘い。


 鉄臭い。


 喉の奥へ薄い苦味が残る、嫌な匂い。


「その水、飲むなぁぁ!」


 俺は診療台から飛び降り、水差しの縁へ走った。


 だが、五センチの俺より人間の手のほうが速い。


 巨大な指が取っ手を掴み、水差しが傾く。


「止めろ!」


 ガーロ隊が一斉に陶器へ飛びついた。


 重い。


 当然だ。


 人間一人ぶんの水は、俺たちなら小さな池である。


 二十匹で横から押しても、傾きが止まらない。


「うおおおっ! 水一杯くらい止まれよ! この身体、こういうときだけ小さすぎるだろ!」


「大将、愚痴より脚!」


「六本全部使ってる!」


 水差しの口から、紫がかった一滴が膨らむ。


 落ちれば、俺たち全員を巻き込む水塊になる。


 チュウタが診療台の脚を駆け上がった。


「どけぇぇ!」


 体当たり。


 人間の手から水差しが外れる。


 今度は反対へ倒れた。


「そっちは薬棚!」


「先に言え!」


 ルビーの風が水差しを押し戻す。


 ガーロ隊が取っ手へ縄をかける。


 最後に先生の骨腕が横から支え――肩から外れた。


「私の腕ぇぇ!」


 骨腕だけが水差しと一緒に床へ転がる。


 ごろん、がしゃんっ!


 水は飲まれなかった。


 薬棚も無事。


 先生の右腕だけが水浸しになった。


「誰か拾ってください!」


「患者が先だ!」


「正論で私の扱いを軽くしないでください!」


「腕、あとでちゃんと拾う! 今は本当に患者が先だ!」


「分かってます、拾わなくても喋れますし」


「頭蓋骨の余裕がすごいな!」


 俺たちは水差しへ黒い危険布をかけた。


 診療所の薬師マルタが、魚売りの額へ冷却布を置く。


「朝から七人。全員、急な寒気のあと高熱。紫の斑点、関節痛、喉の渇き」


 表口から担架が入ってきた。


 八人目。


 その後ろに、九人目。


 まだ夕鐘も鳴っていない。


「熱病が広がってる」


 ノーラが歯を食いしばった。


「違う」


 先生が床の腕を自分で拾いながら言う。


「広がっているように見えますが、人から人へ移ったとは限りません。テオの母親は同じ部屋にいて無症状。魚売りの家族も、飲んだ水が違えば元気です」


「なら、やっぱり井戸か」


 俺は黒布をかけた水差しを睨んだ。


 魔物を倒して終わりなら簡単だ。


 いや、簡単ではない。俺たちは昨日、巨大ヤモリに食われかけた。


 だが、敵が見えるなら逃げ方も罠も考えられる。


 水は街中へ流れる。


 誰が何杯飲んだかも分からない。


 一本の毒牙より、何百個の水差しのほうが怖い。


「まず飲ませない。次に、どこまで汚れているかを調べる。そのあと原因を下から捕まえる」


 二号が金属管を持ち上げた。


「作戦名、《水飲むな言うたら余計飲みたなるけど絶対飲むな》!」


「長い!」


「大事な注意は詳しく!」


「札へ入らない!」


 ノーラはもう走り出していた。


「東広場の井戸を封鎖する。鐘を鳴らせ!」


     ◇


 鐘を鳴らしたら、街中の人間が水を汲みに来た。


「なんでだぁぁ!」


 俺は東広場の井戸縁で叫んだ。


「水を使うなって鐘だぞ! 桶を持って集まるな!」


「三鐘は火事、四鐘は城門閉鎖、五鐘は水路事故です」


 ノーラが額を押さえる。


「市民は、水が止まる前に汲もうとする」


「意味が分かってて来たのか!」


「分かってても、体は水を汲みに動くんです」


「習慣に負けるな!」


「大将だって蜂蜜芋の匂いには負けるでしょう」


「今それを持ち出すな!」


 井戸の周りには、桶、壺、水差し、樽。


 人間の列が市場まで伸びている。


「今日の煮込みをどうしろってんだ!」


「うちには赤ん坊がいるのよ!」


「井戸水が原因だって証拠はあるのか!」


 怒鳴り声が重なる。


 怖いのだ。


 水がなければ、一日だって暮らせない。


 人間だった頃の俺も、蛇口から水が出ることを当たり前だと思っていた。


 今は水滴一つを巡って怪物と戦った身体だ。


 使うなと言うだけでは駄目だと、腹の底から分かる。


「代わりの水を出す!」


 俺の声は人垣へ届かない。


 ブラムが井戸縁へ登り、腹の底から同じ言葉を叫んだ。


「西区の三井戸は検査済みだ! ギルドが荷車で運ぶ! 一世帯一壺、病人と乳幼児を先にしろ!」


「足りるのか!」


「足りなくても運ぶ! 井戸へ近づいたやつは俺が放り投げる!」


 最後の一言だけ、妙に効果があった。


 人々が井戸から一歩下がる。


「ギルド長、説得が乱暴だな」


「お前が言うな。下から『飲むなぁぁ』しか聞こえなかったぞ」


「身体に合わせた声量だ!」


 銀狼の牙は荷車へ空樽を積む。


 カイルはまだ脇腹へ包帯を巻いているが、剣ではなく柄杓を持った。


「俺たちが西井戸から運ぶ。そっちは原因を見つけろ」


「水運びの依頼件数も勝負に入れる気か?」


「当然だ。樽一つで一件」


「数え方が汚い!」


「悔しかったら早く帰ってこい!」


「樽一つで一件なら、こっちは井戸一つで十件つけるぞ!」


「勝手に相場を変えるな!」


「文句あるならお前が先に運べ!」


 口喧嘩している間にも、フィアは病人の家を聞き取って地図へ印をつけていた。


 赤い印が東区へ増えていく。


 俺たちも調査を始める。


     ◇


 汚染範囲を調べるため、先生とマルタが簡易試験札を作った。


 薄い木片へ、浄化菌液と白い浄化材をほんの一粒ずつ塗る。


 普通の水なら白いまま。


 毒性魔素があれば紫へ変わる。


 ただし、最初の一枚は浄化材が多すぎた。


 東井戸の水へ入れた瞬間、札が水を吸って膨らむ。


 ぶくぶくっ。


「おお、反応した!」


 俺が身を乗り出す。


 札は紫を通り越し、丸い泡になって浮いた。


 そのまま井戸の上へ飛び出し、俺の顔へ張りつく。


「んむぅぅ!」


「大将が紫です!」


「見れば分かる! 剥がせ!」


 二号たちが泡を引く。


 伸びる。


 切れない。


 チュウタが俺の背を押さえ、ルビーが逆から風を吹く。


 ぽんっ!


 泡が外れ、今度は先生の頭蓋骨へかぶさった。


「なぜ私へ来るんです!?」


「丸いからじゃないか!」


「理不尽です!」


 一枚目、失敗。


 浄化材を四分の一へ減らす。


 二枚目は色が薄すぎる。


 三枚目で、白から薄紫、濃紫、黒紫の四段階が見えるようになった。


「試験札一枚で百二十か所を測れます」


 マルタが人間用の札を細く切る。


 俺たちには、一本でも橋ほど長い。


「人間が桶を持って回るより、管の内側から直接測ったほうが早い」


「黒い技師殿、飲用管は枝が多いです」


 セラが五層地図へ青糸を足した。


「東区の共同井戸は八つ。地上では離れていますが、地下の取水槽は三系統です」


「全部見る。ガーロ隊は東一系統、ルビー隊は地上の井戸口、俺とチュウタは二系統。二号は三系統。試験札を一寸ごとに水へ触れ、色と匂いを記録しろ」


「飲んだら?」


 二号が聞く。


「飲むな!」


「味も大事な情報では?」


「お前が熱を出したら誰が歌う!」


「大将」


「俺は歌わない!」


「そこまで嫌がらんでも」


 俺たちは三本の管へ分かれた。


 水面の上、指一本ほどの隙間を走る。


 背中は石へ擦れる。


 腹のすぐ下を、街へ飲まれる水が流れていく。


 怖い。


 毒へ強いゴキブリでも、何でも平気なわけではない。


 しかも左触角はまだ鈍い。


 右だけで匂いを取ると、流れの方向が片側へ寄って感じられる。


「左、壁まで半歩」


 チュウタが下から教える。


「今度は?」


「穴。お前の身体なら通れる」


「俺の身体なら、の範囲が最近ひどくないか?」


「ゴキブリなんだから喜べ」


「褒め方が雑だ!」


「今、褒める余裕あるんですか」


「余裕はない。だが文句を言う元気はある!」


「元気なら大丈夫です」


「その理屈、いつか大怪我のもとになるぞ!」


 それでも、俺は穴へ身体を滑り込ませた。


 薄い甲殻が両側の石へ触れる。


 一本目の脚を前へ。


 次の脚で水圧を受ける。


 人の指も道具も入らない給水管の継ぎ目を、俺は身体そのもので測れる。


 嫌われる姿でも、今は街の水を守る形だ。


 そう思うと、傷んだ触角まで少し誇らしかった。


「試験札、薄紫!」


 東二系統の入口で反応。


 次の分岐は濃紫。


 だが、料理屋へ向かう枝管は白へ戻る。


「変だな」


 俺は地図を見た。


「上流ほど濃いはずだ。途中だけ薄くなってる」


「新しい水が混ざってるんじゃないか」


 チュウタが鼻を動かす。


「油の匂いがする。料理屋の洗い水だ」


「飲み水へ洗い水が入ってる!?」


「逆だ。飲み水が割れ目から料理屋側へ漏れてる」


 汚染された水が一部逃げ、色が薄まっていた。


「漏れも直す。でも今は元を追う!」


 地図の印を上流へつなぐ。


 東一系統は薄紫。


 東二系統は濃紫。


 東三系統は白。


 同じ東区でも違う。


 人から人へ移る病なら、こんな形にはならない。


 取水路二番へ何かが入っている。


     ◇


 日が落ちるまでに、発熱者は四十三人へ増えた。


 重い症状は七人。


 幸い、まだ命を落とした者はいない。


 西区の水が届き始めると、新しい発症は目に見えて減った。


「水で間違いない」


 マルタは診療所の表へ、病人の家、使った井戸、発症時刻を並べた。


 テオ。


 魚売り。


 パン屋の娘。


 東広場の警備兵。


 名前が一つずつある。


 赤い点の数だけで見れば、四十三。


 だが、どの点にも帰りを待つ家族がいる。


 診療所の隅で、テオが毛布から顔を出した。


「隊長」


「寝てろ。お前はさっき下水一周の大冒険を終えたばかりだ」


「ぼくの船、使っていいよ」


「今は船で遊ぶ時間じゃない」


「違うよ。水を運べるでしょ。隊長より大きいから」


 また身体の大きさで負けた。


 悔しい。だが、その通りだった。


 赤い木の船は、人間には玩具でも、俺たちには大きな運搬舟だ。


 水そのものは漏れるが、小瓶や冷却布なら何十個も載せられる。


「借りるぞ。返すときは、毒のない水で洗って返す」


「あげたんだから返さなくていいってば」


「俺よりでかい贈り物を簡単に渡すな! 置き場所にも困るんだぞ!」


「大将、嬉しそうですね」


 二号が横から言う。


「困ってる顔だ!」


「触角が上がってます」


「これは調査への意欲だ!」


「意欲がある触角、初めて見ました」


「触角の表現力を舐めるな!」


 テオが笑い、すぐ咳き込んだ。


 俺たちの冗談もそこで止まる。


 マルタが背を支え、薄めた西井戸の水を少しずつ飲ませた。


 赤い船へ小瓶を並べる。


 ガーロ隊が船体へ六本の縄を結び、ネズミ隊が診療所と給水所の間を引く。


 一度目は瓶を積みすぎた。


 角を曲がった瞬間、船が傾く。


「右へ寄れ!」


「大将の右ですか、船の右ですか!」


「進行方向の右!」


「船が後ろ向きです!」


「ややこしい!」


「次からは船首と船尾で言います」


「船に詳しいのか、お前」


「詳しくないので今考えました」


「今考えたことを堂々と提案するな!」


 小瓶が一本、水へ落ちかける。


 ルビーが風で押し戻した。


 二度目は荷を半分にし、左右へ色の違う糸をつける。


 今度は曲がれた。


 赤い船が、冷却布と安全な水を載せて診療所を走る。


 病人の家族も、自分の不安を抱えたまま、次の家へ一瓶を渡した。


 水を止められた街は、奪い合いにはならなかった。


 足りないぶんを運び、分け、空いた瓶を返す流れができていく。


「全員へ西区の水と冷却布を回す。井戸水は触れるのも止める。傷がある者を先に診る」


 俺が言うと、マルタが眉を上げた。


「あなた、診療まで仕切る気?」


「違う。必要なことを言っただけだ」


「なら、薬のことは私へ任せなさい」


「……頼む」


 任せるべき相手がいる。


 俺は下へ行く。


 原因を止める。


 先生は病人の血と汚染水を比べた。


「毒は同じです。ただし、自然の腐敗毒ではありません。一定間隔で魔力の形が変わっています」


「一定間隔?」


 俺たちは取水路二番の床へ腹をつけた。


 水音の下に、弱い振動がある。


 ぬるっ。


 三十二拍。


 ぬるっ。


 また三十二拍。


「水が勝手に毒になってるんじゃない」


 ガーロが触角を前へ向けた。


「何かが泳いでいる」


 流れの奥に、人間用の鉄格子がある。


 目は細かい。


 普通の魚は通れない。


 だが、格子の下だけが内側から曲げられ、泥の穴が開いていた。


「最近削られた跡だ」


 ノーラが灯りを近づける。


 金属の表面へ、二本並んだ深い傷がある。


 牙の跡。


 その向こうで、水面が盛り上がった。


 俺たちの何十倍も長い黒い背が、音もなく横切る。


 右触角へ甘い鉄臭が叩きつけられた。


「来るぞ!」


 水の中から、二本の紫色の牙が開いた。


 毒牙ウナギが格子へ激突する。


 がぎぃんっ!


 鉄棒が一本、俺たちの目の前へ折れて飛んだ。


 病の原因は、井戸の底で生きていた。

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