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怪物の巣から生還せよ

苔背オオヤモリの舌が、俺を壁ごと舐め取ろうとした。


「うおおおおっ!?」


 ぬるりと光る舌が、暗い巣穴を一直線に走る。


 速い。


 長い。


 何より、太い。


 俺の身体なんて三匹まとめて乗せられる。


「大将、上!」


 ガーロの体当たりが横腹へ入った。


 俺たちは上下へ分かれる。


 舌の先が、さっきまでいた石壁へ叩きつけられた。


 べちゃあんっ!


 粘つく唾液が飛び、苔と小石が一緒に剥がれる。


「やっぱり俺たちを食う気だぞ!」


「大将、赤い外套を外せ!」


「これ、似合うって言われた大事な――」


「食われてから自慢するつもりか!」


「外す! 今すぐ外す!」


 赤い布を背から落とす。


 舌が空中で向きを変え、外套へ伸びた。


 やはり動く物を追う。


「右へ誘う!」


 俺は赤布の端をくわえ、壁を走った。


 傷んだ左触角の向こうで、ガーロが二度床を叩く。


 段差。


 俺は飛ぶ。


 舌が足元を薙ぐ。


 空気だけで六本脚が浮いた。


「この身体になって、まさかゴキブリらしく逃げることを格好いいと思う日が来るとはなぁぁ!」


「感想は後にしろ!」


 チュウタが横穴から飛び出した。


 太い前脚で舌の根元へ泥を投げる。


 べちっ。


 オオヤモリの金色の目が閉じる。


 その隙に俺たちは石の割れ目へ滑り込んだ。


 舌が割れ目の入口を何度も叩く。


 べたん、べたんっ!


 岩全体が震え、天井の砂が背中へ降る。


「どうする、大将」


 ガーロが息を整えながら聞く。


「テオを取って逃げる」


「その前脚の間には幼体が六匹いる」


「分かってる。親ごと倒すのは最後だ」


「最後にもするなよ!」


「言葉のあやだ!」


「あやで済む距離じゃない、牙見えてるぞ!」


 チュウタが怒鳴った。


「言い方だ! できる限りやらない!」


「最初からそう言え!」


 俺だって、最初はテオを攫った魔物だと思った。


 だが、オオヤモリは流れてきた子どもを食べていない。


 赤い上着の裾を押さえ、水へ戻らないようにしていた。


 六匹の幼体は親の腹の下に集まり、細く鳴いている。


 ここは狩り場ではない。


 子育ての巣だ。


「テオへ聞く」


 俺は割れ目の奥から叫んだ。


「おい、テオ! そいつに噛まれたか!」


 濡れた子どもが顔を上げる。


「だれ……?」


「赤い船の救助隊だ!」


「船……ぼくの?」


「そうだ! でかいヤモリは敵か、助けたのか!」


 テオは震えながら、前脚の下を見た。


「お水で、ぐるぐるして……この子が、服をくわえて……ここに乗せた」


「助けたんだな?」


「たぶん。こわいけど。すごく、こわいけど」


 オオヤモリが低く唸る。


 その声に、テオは首を縮めた。


「俺たちも怖い!」


「正直に言うんだ……」


「怖くても助ける! お前もそいつもだ!」


 テオが目を瞬いた。


 オオヤモリは言葉を理解した様子がない。


 それどころか、俺の声へ反応して割れ目の前へ顔を寄せる。


 巨大な鼻先。


 生臭い息。


 牙の一本一本が、俺の脚より長い。


「話し合いは無理そうだな」


 俺が小声で言う。


「俺たちが小さすぎる」


 チュウタが答える。


「いや、見た目で嫌われてる可能性もある」


「それをお前が言うと重い」


「自覚はある!」


「じゃあ黙って掘れ!」


「掘りながらでも言いたいことは言う!」


「そういうところが嫌われるんだよ!」


「お前が言うな!」


     ◇


 怪物の巣には、もう一つ問題があった。


 水が増えている。


 入口では足首ほどだった流れが、幼体の腹へ届き始めていた。


 テオの片足も水へ浸かる。


 地上でカイルたちが排水口を閉じても、古い雨水溝から来る水は止まらない。


 さらに、巣の奥で何かがごろごろ鳴っている。


 チュウタが土へ鼻を近づけた。


「向こうに空洞がある。水もある。それを薄い土壁が支えてる」


「崩れたら?」


「この穴全部、水になる」


「嬉しくない言い方だけ上手いな!」


 逃げ道は入口の一本だけ。


 俺たちなら通れる。


 オオヤモリも、這えば通れる。


 だが、テオの身体は途中の曲がり角を抜けられない。


 幼体のうち二匹は、崩れた瓶と石の間へ後脚を挟まれていた。


 親が巣を離れない理由は、そいつらだ。


「三つやる」


 俺は泥の上へ線を引いた。


「一、テオを人間用の主水路へ戻す。二、幼体の脚を抜く。三、巣の水を別の道へ逃がす」


「時間は?」


 ガーロが聞く。


 奥の土壁が、みしっ、と鳴る。


 細い亀裂から水が噴いた。


「あれが大きくなるまで!」


「大将、それは時間やない!」


 二号の声が入口側から来た。


 救助隊の残りは、オオヤモリが暴れて近づけない。


 ガーロが振動だけで情報を返す。


 三匹で中へ入る。


 他は出口で布、縄、灯りを準備する。


「勇者でもいれば、岩ごと斬って終わるのに」


 チュウタがぼやいた。


「いない者へ頼るな。俺たちは冒険者だぞ」


「お前、そう言いながら脚が震えてる」


「怖いものは怖い! 格好つけた直後に確認するな!」


 正面火力では、あの勇者へ届くはずもない。


 でも、ここで必要なのは大岩を斬る力じゃない。


 母親を傷つけず、幼体の脚だけを抜き、人間の子どもだけが通れる道を作る力だ。


 それなら、俺たちの得意分野である。


「チュウタ、親の右後ろから排水穴を掘れ。幼体へ近づかない道を選べ」


「土の匂いで分かる」


「ガーロは親を俺と反対へ引きつける。ただし攻撃するな」


「噛まれたら?」


「全力で逃げろ」


「作戦か、それは」


「ゴキブリ族の伝統戦術だ!」


「今作っただろ!」


「俺は幼体を助ける。テオ、お前には――」


「ぼくも、なにかする」


 震えた声が先に返ってきた。


 唇は青い。


 右肘から血が出ている。


 それでも、テオは親の腹の下を見ていた。


「小さい子、痛そう」


「動けるか?」


「うん。たぶん。ちょっと、足がぐにゃぐにゃするけど」


「それは動けると言わない!」


「でも、やる」


 強情だ。


 七歳のくせに、変なところで冒険者みたいな顔をする。


「分かった。上着を脱いで、親の目を隠せ。投げるな。ゆっくり顔の前へ広げろ」


「食べられない?」


「俺たちが食べられる前に終わらせる」


「安心できないよ!」


「俺も言ってから思った!」


 テオが少しだけ笑った。


 それで身体の震えが止まるわけではない。


 だが、泣くだけだった目に、次の動きが戻った。


     ◇


「始めるぞ!」


 ガーロが割れ目から飛び出した。


 甲殻を床へ擦り、ざざざっ、と大きな音を立てる。


 オオヤモリの頭が左へ向く。


 舌が伸びた。


 ガーロはぎりぎりまで引きつけ、壁へ駆け上がる。


「遅い!」


 舌が石を打つ。


「言うじゃないか!」


「本人には通じてないぞ!」


「大将へ言った!」


「俺かよ!」


 親が左を追った瞬間、テオが赤い上着を脱いだ。


 濡れて重い布を、両手で顔の横へ広げる。


「こ、こっち見ないで……お願いだから!」


 赤い色が視界を塞ぐ。


 俺は親の前脚を駆け上がった。


 苔は濡れて滑る。


 爪の間へ脚を入れ、一本ずつ掴む。


 人間の子どもより、俺のほうが遥かに小さい。


 だから、踏まれない隙間を選べる。


 腹の下へ滑り込んだ。


 六匹の幼体が鳴く。


「悪い、少し触るぞ!」


 瓶片に挟まれた一匹目の後脚へ、回収した銅線を巻く。


 線の先を外へ出す。


「チュウタ、一番!」


 親の右後ろで穴を掘っていたチュウタが、尻尾で線を引いた。


 瓶片が一寸動く。


 幼体が悲鳴を上げる。


 親が振り向いた。


 金色の目が俺を捉える。


「違う! 食ってない! 助けてる!」


 通じない。


 巨大な前脚が上がる。


 俺の真上へ影が落ちた。


「待って!」


 テオが赤い上着を親の鼻へかけた。


 前脚が空中で止まる。


 テオは逃げなかった。


「この虫、ちっちゃい子を助けてる! たぶん! 見た目はすごく虫だけど!」


「最後の一言はいらない!」


 だが、一秒できた。


「引け!」


 チュウタの尻尾が銅線を強く引く。


 きぃんっ!


 瓶片が外れた。


 一匹目の幼体が脚を引き抜き、親の腹の奥へ這う。


 二匹目は鉄輪の下だ。


 俺の力では持ち上がらない。


 ガーロが親の背を一周し、こちらへ滑り込んだ。


「二匹で押すぞ!」


「お前、囮役は!」


「テオに取られた!」


「七歳へ危険な役を渡すな!」


「なら早く終わらせろ!」


 俺とガーロで鉄輪の下へ背を入れる。


 甲殻が軋む。


 重い。


 人間なら指一本で転がせる輪だ。


 俺たちには落ちた城門みたいだ。


 六本脚を床へ突っ張る。


 動かない。


「くそっ、上がれ! 昨日までごみだったくせに偉そうに重いんじゃない!」


「物へ怒るな!」


「怒ると力が出る!」


「ならもっと怒れ!」


「お前も押せぇぇ!」


 チュウタの掘った穴から、水が流れ始めた。


 巣の水位が少し下がる。


 同時に、穴から抜けた土が鉄輪の片側を持ち上げた。


「今だ!」


 俺とガーロが押す。


 ごりっ。


 鉄輪が傾く。


 二匹目の幼体が脚を抜いた。


 親の喉から、さっきとは違う低音が出る。


 威嚇ではない。


 身体を震わせ、幼体を一匹ずつ鼻先で確かめている。


「六匹、全員動く!」


 俺は叫んだ。


「次はテオだ!」


     ◇


 テオは入口の曲がり角を通れない。


 だから、通れる形へ道を変える。


 チュウタが掘った排水穴を横へ広げる。


 岩を全部崩せば、上の水溜まりも落ちる。


 一番固い層だけ残し、その下の柔らかい土を掻き出す。


 俺たちは五層地図の糸を穴へ通した。


 上で叩く二号の拍から、主水路までの距離を測る。


「あと二尺!」


「右は?」


「古い管! 割ったら市場の魚水が来ます!」


「左は?」


「石壁!」


「真ん中だけ掘れ!」


 チュウタの爪が土を飛ばす。


 ざくっ、ざくっ、ざざざざっ!


 ネズミ族の掘削は、派手な魔法じゃない。


 だが、俺たちが一日かけても進めない距離を、数十息で道へ変える。


 最後の土壁が薄くなる。


 向こうから二号の声が聞こえた。


「チュウタ、ちょい上です!」


「上?」


「そっちは水の底!」


「先に言えぇぇ!」


 爪の向きを上げる。


 土壁が崩れ、新しい救助穴へ光が差した。


 出口側では、ガーロ隊が鉄板と瓶首で水を左右へ分けていた。


 詰まりの山から得た廃材が、細い救助路の屋根と排水管になっている。


 昨日のごみが、今日の命を通す道だ。


「テオ、這えるか!」


「やる!」


 チュウタが子どもの上着へ縄を結ぶ。


 人間の身体を俺たちだけで引くのは無理だ。


 テオ自身に這ってもらい、俺たちは足場と方向を作る。


 俺が鼻先を走る。


 ガーロは右手の下。


 チュウタは後ろから崩れる土を押さえる。


「右肘をつけろ! 左膝、前!」


「虫が、いっぱい……!」


「今は数えるな! 俺たちもお前の指の本数を気にしてない!」


「指は五本だよ!」


「知ってる! 六本脚より少ない!」


「なんで勝ち誇るの!?」


 会話できるなら、まだ動ける。


 テオが一尺進む。


 上の土が落ちる。


 チュウタが背中で支える。


「早くしろ! 俺の毛へ泥が入る!」


「今さらだろ!」


「この泥は新しい!」


「違いが分からん!」


 後ろで、奥の土壁が割れた。


 ぱきっ。


 続いて、水の塊が巣穴へ落ちる。


 ずどおおおんっ!


 苔背オオヤモリが六匹の幼体を身体の下へ集め、流れへ背を向けた。


 だが、これでは親子が逃げられない。


「ガーロ、テオを頼む!」


「大将!」


「親子の道を開ける!」


 俺は救助穴から逆に飛び出した。


 水が足元をさらう。


 壁へ張りつき、オオヤモリの鼻先まで走る。


 赤い船をくわえて見せた。


 それから船を入口へ流す。


「こっちだ! 分かれ! 頼むから今だけゴキブリの動きを信用しろ!」


 親の金色の目が、船を追う。


 俺を追う。


 幼体の一匹が先に動いた。


 救助穴ではなく、元の魔物穴へ走る。


 親も残りの幼体を鼻で押した。


「通じた!」


 俺たちは壁へ広がり、正しい出口まで床を叩く。


 とん、とん、とん。


 幼体六匹。


 親一匹。


 一匹ずつ数える。


 最後の尾が魔物穴へ消えた直後、巣の奥が濁流に呑まれた。


 俺も水へ叩かれる。


「大将ぉぉ!」


 ガーロが救助穴から前脚を伸ばした。


 届かない。


 チュウタの尻尾がその先へ飛ぶ。


 俺は濡れた毛へ六本脚でしがみついた。


「引けぇぇ!」


 二匹の力で、俺の身体が穴へ滑り込む。


 次の水塊が入口を塞いだ。


 俺たちは泥の中を転がりながら、主水路側へ飛び出した。


     ◇


 地上へ戻ったテオを、母親が泣きながら抱きしめた。


 カイルたちが開いた点検口から、夕方の光が落ちている。


「テオ! テオ、どこもなくなってない!? 指は、足は!」


「お母さん、指は五本だった!」


「何の話!?」


「黒い虫の隊長が、六本のほうが多いって!」


 母親の顔が固まった。


 点検口の周りにいた人々も、一斉に俺たちを見る。


 黒いゴキブリ二十匹。


 泥だらけのネズミ。


 赤い翅の一団。


 怪物の巣から子どもを連れ帰った英雄としては、見た目が致命的に悪い。


「ええと、説明はノーラから――」


 母親の大きな手が降りてきた。


 反射で六本脚が逃げようとする。


 だが、その手は俺たちを叩かなかった。


 石床へ、掌を上にして置く。


「ありがとう」


 声が震えていた。


「この子を、返してくれて……本当に、ありがとう」


 俺は人差し指の先へ前脚を置いた。


「俺たちだけじゃない。でかいヤモリも助けた」


「ヤモリ?」


「テオを水から拾ってくれた。子どもが六匹いる。巣は流れたけど、全員逃げた」


 母親は怯えた顔のまま、それでも頷いた。


「その子たちにも……ありがとうって、伝わる?」


「たぶん。次に会ったら、食われない距離から言ってみる」


「近づくつもりかよ!」


 チュウタが俺を小突く。


「様子を見るだけだ!」


「お前の様子見は、大体、口の中まで行く!」


「今回は鼻先で止める!」


「十分近い!」


 笑いが起きた。


 地上の人間からも、地下の仲間からも。


 テオは赤い船を俺の横へ置いた。


「これ、あげる」


「お前の船だろ?」


「また追いかけたら、お母さんにものすごく怒られる」


「それは怒られろ!」


「だから隊長が持ってて。今度は水に落とさないでね」


「俺より大きいんだが」


「運べないの?」


「運べる! 軍団全体でなら!」


 七歳へ負けたようで悔しくなり、反射で言い返した。


 二号がすぐに作戦札へ《クロ隊長専用・超大型旗艦》と書く。


「やめろ。町へ帰ったら絶対に乗せられる」


「船長、出航準備!」


「まだ乗ってない!」


 そのとき、テオの身体が母親の腕の中で大きく震えた。


「寒い」


 母親が額へ手を当てる。


「熱い……朝は元気だったのに」


 先生がテオの濡れた袖へ浄化光を当てた。


 傷口の周りに、薄い紫色が浮かぶ。


 俺の右触角へ、蜂蜜とも月桂樹とも違う匂いが刺さった。


 甘い。


 その奥が、鉄みたいに苦い。


 テオの母親が持っていた水筒からも、同じ匂いがする。


「ノーラ。この水、どこで汲んだ?」


「東広場の共同井戸だ」


 周りで見ていた人々の中から、咳が一つ聞こえた。


 もう一つ。


 市場の向こうでも、誰かが座り込んでいる。


 怪物の巣から一人を救い出したばかりだ。


 だが、街ではすでに、目に見えない何かが何十人もの身体へ入り始めていた。

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