下水に消えた子ども
人間の子どもが、空から降ってきた。
「うわぁぁぁぁ!」
ぎゃりんっ!
錆びた格子が縦穴から外れ、赤い木の船を追っていた小さな身体が、靴から先に暗闇へ落ちてくる。
小さい、と言っても人間基準だ。
俺たちから見れば、泣き叫ぶ塔である。
「下から退けぇぇ!」
俺たちは六方向へ散った。
子どもの靴底が、さっきまで俺のいた石床へ叩きつけられる。
ずがんっ!
腹まで跳ね上がる衝撃。
膝が折れ、両手が水へつく。
助かった――と思う暇もなかった。
詰まりを抜いて流れを取り戻したばかりの副水路が、子どもの身体を横からさらった。
「た、助け――!」
ばしゃっ!
声が水へ沈む。
赤い船と子どもが、暗い支線へ一緒に流されていく。
「待て!」
俺は壁を蹴った。
「大将、待つのはそっちです!」
二号の声が後ろへ消える。
「今は待てない!」
正直に言えば、怖い。
昨日焼かれた左触角は、まだ水の匂いも壁との距離もぼやける。
目の前には濁流。
その中へ飛び込めば、五センチの身体なんて木屑より軽い。
だから何だ。
子どもが沈んだ。
行く理由は、それで足りる。
「ルビー、風! ガーロ、右壁! チュウタは下流を塞げ!」
赤翅隊の風が俺の背を押す。
俺は水面すれすれの壁を走った。
右の触角へ、赤い塗料の甘い油臭。
左からは何も来ない。
距離を誤り、濡れた石へ肩を打つ。
「くそっ、今だけ治れ!」
「触角へ無茶言うな!」
ガーロが俺の左へ並ぶ。
前脚で壁を二回叩いた。
左に段差。
三回。
飛べ。
俺たちは同時に亀裂を越えた。
子どもの指が水面へ出る。
すぐ沈む。
「いた!」
ルビーの風が水を横へ押す。
ほんの一瞬だけ、子どもの顔が現れた。
俺はその袖へ飛びつく。
濡れた毛織物は崖のように立ち上がり、流れに引かれて揺れている。
六本脚の爪を一本ずつ食い込ませた。
「聞こえるか! 顔を上げろ!」
「む、虫……?」
「今は種類を気にするな! 息をしろ!」
「しゃべっ――ごぼっ!」
「驚くのは助かったあとにしてくれ!」
俺の声なんて、水音の中ではかすかな甲殻の震えだ。
子どもへ届いたか分からない。
それでも、袖を登って頬の近くまで行く。
片方の耳へ向かって叫んだ。
「右手を壁へ伸ばせ! そこに縄が来る!」
上流から二号たちが青糸を流す。
細い。
人間の体重なんて支えられない。
だが、糸の先には詰まりから回収した麻布が結ばれている。
セラが急いで作った、小さな網だ。
子どもの手が網へ触れた。
「掴め!」
指が閉じる。
チュウタ隊が下流側から縄を引いた。
流れの中で、子どもの身体が止まる。
「やった!」
俺が叫んだ瞬間、麻布の端から、ぶちぶちっ、と糸が切れた。
「やってないぃぃ!」
古い布だった。
洗っても、繊維の弱りまでは戻らない。
網が裂ける。
子どもの指が滑る。
流れがもう一度、身体をさらった。
「いやだぁぁ!」
今度の叫びは、暗闇の奥へ吸い込まれた。
赤い船だけが横穴の渦へ回り、こちらへ戻ってくる。
子どもは戻らなかった。
◇
下水へ落ちた子どもの名は、テオ。
七歳。
母親と市場へ来て、雨樋の流れへ赤い木の船を浮かべた。
船を追って路地へ入り、古い格子の上へ乗った。
地上へ走ったノーラが、泣き崩れる母親から聞き出した。
「赤い上着、灰色のズボン、右の靴へ黄色い紐。朝、蜂蜜飴を一つ食べた。石鹸は月桂樹。右肘に昨日の擦り傷」
ノーラは戻るなり、息も整えず木札へ情報を書いた。
「ここまで要るか?」
作業員の一人が聞く。
「全部要る」
俺とチュウタが同時に答えた。
言ってから、二人で目を合わせる。
こういうときだけ、息がぴったり合う。
下水には、人間の匂いが溢れている。
汗。
石鹸。
料理屋の油。
市場の果物。
血。
一人を見つけるには、「人間の子ども」では足りない。
月桂樹の石鹸と蜂蜜飴と、新しい擦り傷を持つテオを追う。
「俺が匂いを取る」
チュウタは、裂けた麻布へ鼻を近づけた。
一度。
二度。
濁った空気を深く吸う。
「月桂樹。蜂蜜。濡れた羊毛。それと少し血。追える」
「泣き声は俺たちが取る」
二号が床へ腹をつける。
ガーロ隊も横一列へ並んだ。
耳では水音に負ける。
だが、人の叫びは管と石を震わせる。
六本脚と薄い腹なら、遠い振動を拾える。
「救助隊は二十名」
ジロが立体地図へ糸を置いた。
「もっと多くていいだろ」
「多すぎれば連携が崩れます。数と速さは両立しません」
「分かってる。分かってるけど言いたくなる」
「気持ちは分かります」
「残りは縦穴、第一安全所、地上格子を守る。全員が追えば、次に落ちた者を拾えません」
「俺も行く」
ノーラが言った。
「人間用の主路は途中で終わる」
「あの子の母親へ、待っていろと言った。私だけ待つつもりはない」
「なら、第三作業所まで。そこから先は狭い」
「分かった」
返事は短い。
だが、ノーラは何度も木札の「テオ」という名を指でなぞっていた。
俺は赤い木の船へ青糸を結び、地図の上へ置いた。
「こいつを目印にする。テオが見つけたとき、返すぞ」
二号が金属管を持ち上げる。
「作戦名、《赤い船を船長へ返せ》!」
「今日はそれでいい」
「えっ、採用?」
「早く行くぞ!」
「採用された余韻が短い!」
「余韻に浸ってる暇、今日はない」
「分かってます、走りながら喜びます」
「器用だな、お前!」
俺たちは濡れた壁を走り出した。
出発してすぐ、頭上の点検口が三度鳴った。
ごん、ごん、ごん。
人間側と決めた緊急合図だ。
ノーラが蓋の下へ走る。
「誰だ!」
「カイルだ! 地上の排水口を順に塞ぐ。子どもを見つけたら、赤い布を結べ!」
銀狼の牙は、まだ蝙蝠洞窟の傷が治りきっていない。
それでも、カイルたちは地上の路地を走り、下水へ流れ込む水を一つずつ減らしていた。
「虫が嫌いなお前が、下水口へ顔を近づけて大丈夫か!」
俺が下から叫ぶ。
「うるさい! 今、どこにいるか見えない虫より、見えない子どものほうが怖いんだよ!」
「俺たちは名前を呼んでから近づくぞ!」
「知ってる! だから早く見つけろ、クロ!」
「悪態はあとで倍にして返すからな!」
「いつでも受けて立つ!」
口は悪い。
だが、頼もしい。
頭上でも誰かが同じ一人を探している。その振動が石を通って六本脚へ届く。
俺は赤い船を背負い直した。
「見つけたら、点検口を五回叩く!」
「四回にしろ! 五回は排水門全開の合図だ!」
「そういう大事なことは先に言え!」
「規則札に書いた!」
「人間の高さにある札を俺が読めるかぁぁ!」
「俺たちの目線、地面から一寸です!」
「二号が今それ言うタイミング、絶妙に腹立つ!」
「褒め言葉として受け取ります!」
「褒めてない!」
「じゃあ何ですか」
「文句だ! でも今は文句を言ってる場合でもない!」
こんなときまで、身体の大きさが規則に喧嘩を売ってくる。
ノーラが素早く木札へ書き足した。
「救助合図は四回。あとで低い位置にも札をつける」
「今すぐは無理か?」
「今は探すのが先だ。文句ならあとで聞く」
「あとで必ず言います」
「正論すぎて悔しい!」
「今度こそ忘れるなよ!」
俺たちは四回だけ床を叩き、先へ急いだ。
◇
最初の分岐で、匂いは三つに分かれた。
「右に蜂蜜」
チュウタが鼻を向ける。
「正面に月桂樹」
俺の右触角が拾う。
「左から子どもの声です!」
二号が叫ぶ。
「全部違うじゃないか!」
「三人で仲良く外したな!」
「仲良くはしてません、それぞれ真剣でした」
「真剣に外すな!」
ガーロの言葉が痛い。
右の蜂蜜は、菓子屋の排水だった。
正面の月桂樹は共同浴場。
左の声は、石管が運んできた地上の遊び声。
都会の地下は、匂いも音も嘘をつく。
「落ちた場所の直後、流れは南東だった」
ジロが伝話板越しに言う。
「しかし三分前、排水門二番が開き、南支線の水位が上がった。身体が浮いていれば第二横管。沈んでいれば床下溝」
「浮いてるほうへ行く!」
俺は言った。
「根拠は?」
「浮いていてほしい!」
「願望です」
「分かってる!」
喉の奥が焼ける。
さっき、一度は袖まで届いた。
網が切れなければ。
新しい布を使っていれば。
もっと早く結べていれば。
後悔が六本脚へまとわりつく。
走っているのに、同じ場所で足掻いている気がした。
「大将」
ガーロが俺の左へぶつかった。
「止まれ」
「止まれない」
「だから止まれ!」
前へ出した脚を、ガーロの身体が押さえた。
直後、俺の鼻先を黒い水が落ちる。
天井からの排水だ。
あと半歩進んでいれば、真下へ叩き落とされていた。
「見えていない側を任せろと言った」
「……悪い」
「謝る時間は、見つけたあとに使え」
俺は前脚で床を二回叩いた。
了解。
一匹で焦るより、二十匹で探す。
「第二横管と床下溝、両方へ分かれる。俺は横管。ガーロは床下。チュウタは分岐の土を嗅げ。テオの匂いが濃いほうへ全員を呼べ」
「それなら願望じゃない」
ジロが言う。
「最初からそれを言ってくれ!」
左右へ分かれた。
俺たちは第二横管を走る。
管の天井は低い。
背中が石へ擦れる。
人間には絶対入れない。
子どもも通れない。
だからこそ、管の隙間から主水路を覗き、先回りできる。
右触角へ、濡れた羊毛の匂いが来た。
「いた跡だ!」
石の角へ赤い繊維が引っかかっている。
その下に、黄色い靴紐。
テオの右靴から切れた物だ。
「こっちへ流された!」
俺が叫ぶより先に、別の管からチュウタが顔を出した。
「血の匂いが増えた。まだ新しい!」
「いい知らせみたいに言うな!」
「古い血よりはいい!」
「それはそうだが!」
黄色い紐を地図札へ結ぶ。
テオは少なくともここを通った。
下流には、人間図面にない三本の穴がある。
左は鍛冶場の熱で温かい。
中央は古い雨水溝。
右は、立体地図を作ったときにも奥まで入れなかった魔物穴だ。
二号たちが床へ伏せた。
全員で声を止める。
水。
遠い車輪。
石の軋み。
その間に、細い震えがあった。
とん。
少し空いて、二度。
とん、とん。
「人の指が石を叩いてる」
俺の腹へ届く。
「どこだ?」
二号が触角を左右へ振る。
音は中央からも右からも来る。
丸い管の中で反響している。
俺は黄色い靴紐を床へ置いた。
傷んだ左触角では、遠い匂いを分けられない。
なら、近くへ行く。
「三本とも見る。身体全部じゃない。触角だけ出せる亀裂を使う」
「大将、触角を焼かれた翌日に触角頼みですか」
「一本残ってる!」
「大事にしてくださいよ!」
「お前の触角は無事なのか」
「無事です、大将のぶんまで働きます」
「頼りにしてる」
「今、ちゃんと感謝の言葉でした?」
「そうだ、変か?」
「珍しいので驚いただけです」
「だからお前らも出せ!」
ゴキブリ隊が壁の亀裂へ散る。
何十本もの触角が、三本の穴へ少しずつ入る。
人間の目には、たぶん最悪の光景だ。
今の俺には、誰か一人を見落とさないための巨大な感覚器官に見える。
「左、熱だけ!」
「中央、古い泥!」
「右、月桂樹!」
三号の声が弾けた。
「蜂蜜もあります!」
「右だ!」
◇
魔物穴は、途中から急に広くなった。
ぬるい空気。
湿った苔。
魚とも獣とも違う、生臭い匂い。
チュウタの毛が逆立つ。
「でかい生き物がいる」
「一匹?」
「一匹……いや、小さいのが六匹」
水路の奥から、喉を鳴らす低い音が来た。
ぐるるるる。
床が震える。
俺たちは灯りを布で覆った。
暗闇へ触角を伸ばす。
壁に見えた緑色の盛り上がりが、ゆっくり呼吸していた。
苔に覆われた巨大な背中。
太い四本脚。
石柱ほどの尾。
苔背オオヤモリだ。
人間なら大型犬ほど。
俺には、巣穴いっぱいの山にしか見えない。
その前脚の間で、赤い上着が動いた。
「テオ!」
子どもは生きていた。
片方の靴を失い、濡れた身体を丸めている。
右肘から血が出ていた。
俺たちの声に顔を上げる。
「たすけ……」
巨大なヤモリの目が開いた。
金色の瞳が、俺たち二十匹を一度に映す。
その腹の下では、六匹の幼体がきゅうきゅう鳴いていた。
怪物はテオを食べていない。
流されないよう、赤い上着の裾を前脚で押さえていた。
だが、俺たちを助けに来た仲間と理解してくれる保証もない。
苔背オオヤモリが口を開く。
びっしり並んだ細い牙の奥で、長い舌が跳ねた。
俺とテオの間を、その舌が一息に薙いだ。




