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腐食カニの鋏

腐食カニの鋏は、俺たち五十名分の道を一回で食べた。


 ばぎんっ!


 石壁が噛み砕かれる。


 青い帰還糸。


 湿らせた浄化菌線。


 足場の石。


 全部まとめて、巨大な鋏の間へ消えた。


「道を食うなぁぁ!」


 俺たちは天井へ駆け上がった。


 ぷるぴか清掃隊二十四匹は、菌線が切れたせいで四方向へ逃げ始める。


「一号から六号、右!」


「七号、どこ行くんです!」


「十七号はまた隙間だ!」


 灰色の小さな身体が、汚れを追って散っていく。


 番号輪の色石だけが、暗闇の中を忙しく動く。


 目の前には巨大カニ。


 足元には逃げるスライム。


 帰還路は食われた。


「新しい掃除道具、初日で全滅の危機!」


「全滅するのは道具やなくて、こっちもです!」


 腐食カニが二本目の鋏を振る。


 空気が裂ける。


 ごうっ!


 避けた俺の触角の先が、ほんの少し鋏へ触れた。


 じゅっ。


 焦げたような臭い。


 触角の先が白く変色した。


「痛っ――!」


 切られていない。


 表面へついた透明な液で、甲殻が溶けた。


「鋏に腐食液がある!」


 先生が叫ぶ。


「挟まれなくても近づくな!」


「先に知りたかったぁぁ!」


 触角の先が熱い。


 匂いも距離も、片側だけぼやける。


 ゴキブリの触角は、人間の目と鼻と耳を一つにしたようなものだ。


 その半分を焼かれた。


 怖い。


 腹の下が冷える。


 前へ出ろと命令したいのに、六本脚は後ろへ走りたがっている。


「大将、下がれ!」


 ガーロが俺の前へ出た。


 甲殻を強化し、鋏の横へ粘着網を投げる。


 網が腐食液へ触れた。


 しゅうっ、と煙を上げて切れる。


「網も駄目だ!」


 ガーロ隊が散る。


 ルビー隊の風がカニの顔へ汚泥を飛ばす。


 八本の脚が止まった。


「今よ!」


 チュウタが土の塊を鋏の間へ投げる。


 腐食カニが反射的に挟んだ。


 ばごんっ!


 土塊が砕け、蒸気が上がる。


「効いてない!」


「分かってる! 逃げる時間だ!」


 俺たちは逃げた。


 格好悪い。


 D級へ上がったばかりだぞ。


 清掃隊を作って、街の衛生を救うぞと盛り上がった直後だぞ。


 それが今は、巨大なカニ一匹に道ごと追い出されている。


「覚えてろぉぉ!」


 後ろへ叫ぶ。


「敵は覚えても得しません!」


「俺が悔しいんだよ!」


「悔しさは記録に残らないので、次の作戦に変換してください」


「変換のやり方、教えてくれ」


「知りません、大将がいつもやってることです」


「無意識だったのか!」


 第一安全所まで全力で戻った。


     ◇


 ぷるぴか清掃隊は、二十四匹全員を回収した。


 一号は油泥の中。


 三号は菌線の跡ぎりぎり。


 十七号は予想通り石の隙間。


「癖を覚えておいてよかった」


 俺が言うと、二号が一号の番号輪を拭いた。


「道具やったら、壊れたで終わってましたね」


「こいつらは勝手に逃げるし、糸を食うし、食料袋を狙う」


「悪口ですか?」


「だから一匹ずつ探せたって話だ!」


 一号が俺の前脚へ寄る。


 油を探しているだけかもしれない。


 それでも少し嬉しい。


「大将、触角。見せてください」


 二号がいつもより静かな声で言う。


「平気だ」


「平気な顔してませんよ」


「顔、分からないんじゃなかったのか」


「今日だけは分かります」


 触角の傷は、先生が中和薬で洗った。


 白くなった先端は元へ戻らない。


 数日で新しい感覚毛が伸びる可能性はあるという。


「左が分かりにくい」


 俺は安全所を歩いた。


 壁との距離を見誤り、肩からぶつかる。


 ごつっ。


「痛っ!」


「大将、まっすぐ歩けませんね」


「今は笑うな。かなり悔しい」


 口に出したら、声が思ったより低かった。


 二号も笑うのをやめる。


 ガーロが隣へ並んだ。


「片側の索敵は俺がやる」


 ルビーが反対へ立つ。


「上は私」


 チュウタが前へ鼻を向ける。


「匂いは俺」


「俺、いらなくないか?」


「指示と愚痴が残ってます」


 二号が言う。


「一番いらないところを残すな!」


「指示は大事です、愚痴のおまけです」


「おまけ扱いされる隊長、聞いたことないぞ!」


「新しい前例、今できました」


「作りたくなかった!」


 笑いが戻った。


 触角は痛い。


 負けたことはもっと痛い。


 でも、一匹で全部感じなくていい。


 片側が見えなければ、そちらに仲間が立つ。


「倒し方を考えるぞ」


 第一回目は完全に負けた。


 なら、二回目は分析して勝つ。


 それが俺たちの得意な戦い方だ。


     ◇


 腐食カニの特徴を並べた。


 甲羅の幅は人間の胴ほど。


 鋏は二本。


 右が大きく、石を砕く。


 左は細く、隙間へ差し込む。


 鋏と口から腐食液を出す。


 硬い甲羅は、俺の雷もガーロの刃も通りにくい。


 動きは横に速く、前後は遅い。


「正面から戦わない」


 俺は最初に言った。


「大将、さっき正面へ立ちました」


「だから負けた! 過去の俺へ石を投げるな!」


 ノーラが古い水路記録を持ってきた。


「腐食カニは、壁の石灰と金属塩を食べる。三年前にも西水路で一匹捕まえた」


「どうやって?」


「鉄籠へ追い込んだ。作業員十人、冒険者八人、籠は三つ壊れた」


「もっと小さく済む方法は?」


「ないから呼んだ」


「ないから呼んだって、正直すぎませんか」


「正直な依頼人は信用できる」


「大将、都合よく解釈しすぎです」


「都合よく生きる才能だけはあるんだよ!」


 頼られるのは嬉しい。


 丸投げに近いのは腹立たしい。


 最初に、石灰を削った白い玉を支線へ転がした。


 腐食カニの好物だ。


 曲がり角の向こうで、八本脚が止まる。


 触角の短い頭が白玉へ向いた。


「来るぞ」


 俺たちは縄を引く準備をした。


 カニは一歩だけ近づいた。


 鋏で白玉を軽く叩く。


 食べずに横へ弾いた。


「贅沢言うな!」


 俺の叫びへ反応し、今度はこっちへ走ってきた。


「餌より俺かぁぁ!」


「よっぽど美味しそうなんですよ」


「褒めてないだろ、それ!」


「羨ましいという意味です」


「羨ましがるところじゃない!」


 全員で逃げる。


 チュウタが白玉の縄を引き、もう一度カニの前へ転がす。


 無視された。


 腐食カニは俺の赤い外套だけを追う。


「大将、人気ですね!」


「こんな人気はいらない!」


 浄化菌線の内側へ飛び込み、どうにか撒いた。


 白玉は一口も食べられず残った。


「好物だけでは追わない」


 先生が記録する。


「動く物、縄の振動、あるいは縄を引くクロさんへ反応しました」


「最後の候補は消してくれ」


「縄へ腐食液をかけられれば、餌だけ残って終わります」


 ジロが淡々と言う。


「なら、縄を切られても追いたくなる形が必要だ」


 立体地図を見る。


 カニがいた支線の奥には、旧取水室がある。


 入口は狭い。


 側面に、人間用の点検格子。


 床は石灰が多い。


「餌で誘うか」


「何を使う?」


 先生が聞く。


「壁を削って渡す?」


「水路を守る依頼で水路を餌にするな!」


 チュウタが古い甲殻を持ってきた。


「あいつの巣の手前に落ちてた」


 巨大なカニの形。


 中は空。


 背中が割れている。


「脱皮殻です」


 先生が鑑定する。


「腐食カニは成長時に甲羅を脱ぎます。新しい甲羅が固まるまで、自分の古い殻を食べて石灰を補う」


「これが餌になる!」


 さらに、縄をつければ動かせる。


 同じ姿の殻が動けば、縄だけを引くより強く追うかもしれない。


 二号の触角が勢いよく立った。


「名づけて、偽物カニ先輩が後輩を連れてく作戦!」


「関係が分からない!」


「古い殻が先輩です!」


「脱いだ本人だよ!」


「ほな、昔の自分に釣られる作戦!」


「少し怖い名前になった!」


「ワイの案、いつも採用されへんのはなんでですか」


「怖いか、恥ずかしいか、意味不明のどれかだからだ!」


「三拍子そろってるのが強みです」


「強みにするな!」


 作戦名は《脱皮殻誘導》にした。


 二号は最後まで不満そうだった。


     ◇


 脱皮殻を動かすため、内側へ縄を六本通した。


 右脚用。


 左脚用。


 鋏用。


 身体用。


 後退用。


 緊急投棄用。


 ネズミ隊が壁の安全穴から縄を引く。


 ゴキブリ隊は殻の内側へ入り、脚の向きを変える。


「待て。俺たち、中へ入るのか?」


 俺は巨大な空の甲羅を見た。


 暗い。


 湿っている。


 元の持ち主の生臭さが残っている。


 人間だった頃の俺なら、空のカニ殻へ潜る未来なんて一秒も想像しなかった。


「大将、完全狭所適応です」


「適応したくない場所にも限度がある!」


「格好いいですよ。甲冑みたいで」


「本当か?」


「外から見ると、カニです」


「俺が見えない!」


「見えないから格好いいんです」


「その理屈、褒め言葉として成立してない!」


「成立はしてないですけど、本音です」


 褒められていなかった。


 それでも入る。


 俺、二号、三号、四号の四匹。


 殻内の筋跡へ脚をかける。


 外の縄と合図を合わせる。


「右脚!」


 縄が引かれる。


 殻が右へ傾いた。


「左!」


 逆へ傾く。


「前!」


 全部の縄が一度に引かれた。


 脱皮殻は前へ進まず、横へ転がった。


 俺たちは中で四方へ叩きつけられる。


「誰だ、全部引いたの!」


「チュウタです!」


「カニは横へ歩くだろ!」


「先に言え!」


「見れば分かる!」


「見る前に殻の中で転がされてる俺の身にもなれ!」


「殻の中は暗いので見えません」


「それも今知った! 最悪だ!」


 一回目は失敗。


 左右の縄を交互に引く。


 脚の順番を、カニの歩き方へ合わせる。


 二回目。


 ぎこちない。


 だが、横へ動いた。


「カニになったぞ!」


「大将、何を喜んでるんです?」


「分からん!」


 空の甲羅を動かせた達成感だけがある。


     ◇


 腐食カニの支線へ戻った。


 俺たちの匂いを消すため、脱皮殻へ水路の泥を薄く塗る。


 中はさらに臭くなった。


「この作戦が終わったら、香り焼きを二皿食う」


「報酬前に予約してます」


「心の支えだ!」


「二皿目、俺も混ぜてください」


「約束は俺のだぞ!」


「隣で震えてた者にも権利あります」


「震えは権利の根拠にならない!」


 殻を曲がり角から出す。


 がり。


 奥で石を削る音が止まった。


 巨大な八本脚が現れる。


 腐食カニが、動く自分の抜け殻を見た。


 一拍。


 右の大鋏を高く上げた。


 来る。


「下がれ!」


 縄が引かれる。


 脱皮殻が横へ動く。


 本物が追う。


 狭い支線で、巨大なカニ二匹が横歩きする。


 一匹は中身入り。


 一匹は中身が俺たち。


「これを格好いいと言ったやつ、あとで出てこい!」


「僕ですけど、今隣にいます!」


「逃げるなよ!」


「逃げてません、殻の中で震えてるだけです!」


「それを逃げると言うんだよ!」


 本物の鋏が殻の端を掠める。


 ばきっ!


 古い脚が一本折れた。


 中へ腐食液が飛ぶ。


「左へ寄れ!」


 俺たちは右内壁へ集まる。


 透明な液が床を溶かす。


 臭いが触角へ刺さる。


 怖い。


 でも、片側はガーロの振動合図が教えてくれる。


 前はチュウタの縄。


 上はルビーの風。


 傷ついた触角一つで、全部を見る必要はない。


「旧取水室まで、あと十歩!」


 二号が叫ぶ。


「九、八、七!」


 本物が殻へ食いつく。


 古い石灰を食べ始めた。


 動きが重い。


「引けぇぇ!」


 ネズミ隊が六本の縄を一斉に引く。


 今度は順番が合っている。


 脱皮殻が取水室へ滑り込む。


 本物も食いついたまま入る。


「投棄!」


 緊急縄が引かれ、殻の背が開いた。


 俺たちは上の亀裂へ飛び出す。


 ルビー隊の風が背を押す。


 最後の四号が抜けた。


「閉めろ!」


 チュウタが土の支えを崩した。


 取水室の点検格子が落ちる。


 がしゃんっ!


 腐食カニは殻を抱えたまま、鉄格子の内側へ閉じ込められた。


 鋏が格子を挟む。


 しゅうっ、と煙が出る。


「まだ溶かすぞ!」


 先生が外から水流弁を開ける。


 冷たい水が取水室へ流れた。


 腐食液が薄まる。


 ガーロ隊が格子の外へ浄化菌布を重ねる。


 鋏の動きが鈍った。


「捕獲、成功!」


 俺たちは歓声を上げた。


 正面からは一度も傷をつけていない。


 巨大な鋏も、硬い甲羅も、そのまま素材になる。


 ノーラが取水室を見回した。


「西水路では十八人と籠三つだった」


「今回は?」


 ジロが記録板を見る。


「五十四名、脱皮殻一つ、帰還糸六本、香り焼き二皿の予約」


「最後を記録するな!」


「事実です」


「事実でも公式記録には向かない!」


「ではギルド提出用と大将の恥用、二枚作ります」


「一枚も要らない項目だ!」


 笑い声が上がる。


 腐食カニの支線は安全になった。


 削られた壁の奥には、大きな詰まりが見える。


 金属片。


 色つきの瓶。


 布。


 白い骨。


 壊れた食器。


 何年分もの捨て物が、水路いっぱいに積み重なっていた。


 チュウタの鼻が動く。


「大将。この山、ゴミだけじゃねえぞ」


 詰まりの隙間で、錆びていない銀色の何かが光った。


 壁を食う魔物の次に待っていたのは、街が捨てた宝の山だった。

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