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汚泥スライムの大波

汚泥スライムの大波は、水より遅く、泥より速く、俺の悪い予感より正確にやって来た。


 ごぼ、ごぼごぼごぼっ!


 旧石管の奥から、灰色の塊が盛り上がる。


 水ではない。


 流れているのに、一つの身体だ。


 錆びた釘、布切れ、骨、瓶の欠片を腹の中で回しながら、管いっぱいに迫ってくる。


「全員、高い場所へ!」


 俺たちは壁を走った。


 六本脚の爪を石へ食い込ませる。


 チュウタ隊は左の床下穴。


 ルビー隊は天井の亀裂。


 ガーロ隊は右壁。


 人間の未帰還班六名は、隙間の向こうの雨水溜めにいる。


 高台だ。


 すぐには届かない。


 そう思った。


 灰色の波が壁へぶつかる。


 ばしゃっ、ではなかった。


 ぶるんっ!


 弾力のある巨体が石壁を包み、上へ這い始める。


「登るのかよぉぉ!」


 高い場所へ逃げろと言った隊長、わずか三秒で作戦を撤回したい。


 だが撤回先がない。


 床も壁も、もう灰色だ。


「天井へ!」


「こっちも来てるわ!」


 ルビーの声。


 汚泥スライムは石の継ぎ目へ細い腕を伸ばし、天井まで広がっている。


 床、壁、天井。


 逃げ道全部を使うのは、俺たちだけの特技じゃなかった。


「地図を作った直後に全道封鎖って、性格悪すぎるだろ!」


 二号が伝話糸を振る。


「大将、文句はあと! 右上、青糸の三番!」


 立体地図で安全路にした亀裂だ。


 俺たちは一列になって飛び込む。


 五号の後脚へ粘液が触れた。


「うわっ、取られた!」


「脚を畳め!」


 五号が身体を薄くする。


 俺と二号が前脚を掴む。


 ガーロが後ろから粘液へ爪を立てた。


 灰色の膜が伸びる。


 切れない。


「雷を入れる!」


「五号まで痺れます!」


「弱くする!」


「大将の弱くは信用できません!」


「ひどい! でも否定できない!」


 迷っている間に、粘液が太くなる。


 ガーロが腰の殻刃を抜いた。


 敵を斬らない。


 五号の後脚へ巻いていた木炭布だけを切る。


 気門覆いの端が粘液へ残り、五号の脚が抜けた。


「装備は捨てろ! 命を先に持っていけ!」


 ガーロの声が亀裂へ響く。


 全員で奥へ走る。


 背後から灰色の腕が入ってくる。


 狭い。


 スライムは身体を細くできる。


 だが、俺たちはもっと薄い。


 腹を石へ擦りつけ、翅を畳み、触角を後ろへ寝かせる。


 人間だった頃なら目を背けた動きだ。


 今はこの気持ち悪いほどの薄さが、仲間を置いていかない速さになる。


「六号、前へ! 三号、五号を挟め! 二号、糸!」


 伝話糸を最後尾へ残す。


 スライムが触れた瞬間、糸を切る。


 俺たちは青糸三番の出口へ飛び出した。


 灰色の腕は、あと前脚一本のところで亀裂につかえた。


「勝った!」


 振り返る。


 スライムは少し身体を揺らし、別の穴へ回り始めた。


「勝ってない! 道を変えただけだ!」


「三秒喜べただけ良かったです」


「三秒は喜びと呼べる長さか?」


「大将にしては長いほうです」


「普段どれだけ短いと思われてるんだ!」


 俺の喜び、寿命が短すぎる。


     ◇


 立体地図の白糸が、次々と引かれていた。


 水と汚泥が来る方向を示す糸。


 一本目は浴場管。


 二本目は市場排水。


 三本目は東主水路。


 スライムは一つの道から来たのではない。


 二十以上の枝へ身体を分け、地図の中心へ集まっている。


 第三作業所だ。


 未帰還班六名がいる場所。


「あいつらを狙ってるのか?」


 チュウタが聞く。


「違う」


 俺は灰色の粘液に残った物を見た。


 五号の木炭布。


 古い油。


 腐った野菜屑。


 全部、汚れている物だ。


 スライムは綺麗な石壁を通り過ぎ、汚れの濃い溝へ身体を伸ばしている。


「人じゃない。作業所の油とゴミへ集まってる」


 先生が殻瓶の試料を光へ透かす。


「水中の腐敗物へ強く反応しています」


「なら、餌で道を変えられる」


 ルビーが言う。


「餌って、下水の汚れよね。持ってるの?」


 全員が黙った。


 周りは汚れだらけだ。


 ありすぎる。


 どれを選べば、作業所より強く引ける。


 チュウタが炊事用荷車を見た。


「食べ物は駄目だぞ」


 俺が先に言う。


「まだ何も言ってねえ!」


「その顔は非常食を使う顔だ!」


「俺の顔、読めるのか?」


「長い付き合いだからな!」


 地下水路で一番汚れた物。


 第一点検所の記録にあった。


 旧沈殿槽。


 長年使われず、底に油泥と腐敗物が積もっている。


 人間用図面では閉鎖。


 俺たちの立体地図では、第三作業所の下を通る黄色い未確認路とつながっている。


「あそこへ誘う」


 ジロが地図上の距離を測る。


「作業所から沈殿槽まで、主水路換算で人間百二十歩。小型路なら三班同時に開通させる必要があります」


「三班?」


「一つだけ開けば、スライムがその道へ集中して詰まります。床、壁、天井から同時に流す」


「名づけて、三面汚れ食べ放題作戦!」


 二号が叫ぶ。


「食べ放題は楽しそうすぎる!」


「実際、あいつには宴会です!」


「じゃあ採用!」


「そこは採用するんですか!」


「名前が決まると気合が入るだろ!」


「気合より段取りです」


「両方あればいいだろ!」


「両方揃ってた試しがありません」


「今日は揃える!」


 作戦名で揉めている間にも、白糸の震えが強くなる。


 時間がない。


 三班へ分かれた。


 床下はチュウタ隊。


 壁は俺とガーロ隊。


 天井はルビー隊。


 先生、セラ、ジロは地図から水門と傾きを指示する。


 二号の伝話糸が全班をつなぐ。


「未帰還班はどうする!」


 ガーロが聞く。


「先に居場所へ声を届ける!」


 俺は石の隙間へ頭を入れた。


 六人は雨水溜めの高台へいる。


「聞こえるか!」


「聞こえる!」


 男の声が返る。


「灰色の泥が来る! 高台から下りるな! 灯り油と汚れた工具を一つの袋へまとめろ!」


「どうする気だ!」


「下へ落として、沈殿槽へ流す!」


「その下は閉鎖されてる!」


「今から開ける!」


「無茶だ!」


「知ってる! でも、そっちで待つだけよりましだ!」


 一拍、返事がない。


「分かった。六人とも高台にいる。負傷一名、動かせる」


「名前は!」


 何を聞いているんだ、と自分でも思った。


 でも、全員を数えるには名前がいる。


「ハンス、ギル、モニカ、ベルト、ロイ、俺はエダン!」


「分かった! 六人、全員迎えに行く!」


「頼んだ、小さい隊長!」


「小さいは余計だ!」


 声に力が戻った。


 それで十分だ。


     ◇


 チュウタ隊は、第三作業所の床下を掘った。


 固い石の下に、昔の泥煉瓦がある。


「掘れる!」


 チュウタの爪が土魔法を帯びる。


 がりっ、がりがりがりっ!


 乾いた泥煉瓦が崩れ、黄色い未確認路が開く。


 腐った油の匂いが吹き上がった。


「くさっ!」


「成功の匂いだ!」


「成功はもう少しいい匂いにしてくれ!」


「注文が多いですよ」


「命がけの現場だ、匂いくらい選ばせろ!」


「贅沢は敵です」


「敵は泥だろ!」


 壁班は、古い排水栓へ向かう。


 人間用の栓は錆びて動かない。


 俺たちは裏側の歯車へ入る。


 歯と歯の間が、俺たちの身体ほどある。


 油は黒く固まり、六本脚へ張りつく。


「ゴキブリらしい場所へ来たな」


 俺は言った。


 ガーロが鼻を鳴らす。


「大将はまだ嫌か」


「嫌だ。暗い、狭い、油まみれ。できれば綺麗な道を歩きたい」


「では、なぜ笑っている」


「ここなら俺たちにしか直せないからだ!」


 歯車の隙間を走り、固まった油を殻刃で剥がす。


 十二匹で別々の歯を押す。


「一、二、三!」


 ごりっ。


 歯車が一つ動く。


 外で排水栓が少し開いた。


 灰色の指が隙間から入り込む。


「早すぎる!」


「汚れを嗅ぎつけたんだ!」


 スライムが歯車へまとわりつく。


 固い油を食べる。


 動かなかった歯が、逆に滑り始めた。


「待て、そこを掃除するな! 今は助かるけど腹立つ!」


 歯車が勢いよく回る。


 俺たちは歯の上を走った。


「全員、回転方向へ! 逆らうな!」


 六本脚を刻む。


 走っても走っても同じ場所だ。


「荷馬車の床下より悪い!」


「報酬は高いです!」


「なら走る!」


「現金ですね」


「命がかかると、みんな現金になるんだよ!」


 現金な脚が速くなる。


 最後の歯を越え、軸の穴へ飛び込む。


 排水栓が全開になった。


 ごごごっ!


 壁の中へ灰色の流れが吸い込まれる。


「壁路、開通!」


 同時に、天井で赤い色粉が舞った。


 ルビー隊の成功合図。


 上の古い雨水管も開いた。


 二号の金属管が三回鳴る。


「三路、そろいました!」


「エダン! 袋を落とせ!」


 高台から、灯り油と汚れた工具を入れた袋が落ちた。


 灰色の波が一斉に向きを変える。


 床から。


 壁から。


 天井から。


 三つの流れが袋へ集まり、そのまま開いた旧路へ雪崩れ込む。


 ごぼごぼごぼ――ずるんっ!


 巨大な身体が、第三作業所から剥がれた。


 雨水溜めの水位が下がる。


 高台に六人が見えた。


「今だ、救助路を開ける!」


 チュウタが最後の泥煉瓦を壊す。


 人間一人が屈んで通れる穴が開いた。


 ノーラの作業員たちが外側から縄を入れる。


 ハンス。


 ギル。


 モニカ。


 ベルト。


 ロイ。


 負傷したエダンは最後に二人がかりで運ぶ。


 そのとき、閉じかけた壁路から灰色の腕が一本戻った。


 汚れた包帯へ反応したのだ。


 エダンの脚へ伸びる。


「右だ!」


 俺が叫ぶ。


 運んでいた二人が身体を捻る。


 だが救助穴は狭い。


 人間三人では横へ避けられない。


「盾片!」


 チュウタたちが、ダンからもらった金属片を運んできた。


 六匹のゴキブリが下から支え、ネズミ隊が上を押す。


 人間には小さな破片。


 俺たちには、立派な防壁だ。


 救助穴とエダンの脚の間へ立てる。


 灰色の腕がぶつかった。


 べちんっ!


 金属が震え、支えていた六匹が床を滑る。


「重いぃぃ!」


「カイルのやつ、よくこんな物を振ってたな!」


「これはダンの盾です!」


「今はどっちでもいい!」


 灰色の腕が盾片の端へ回る。


 ルビーが上から風を叩きつけた。


「汚れが欲しいなら、そっちよ!」


 赤翅隊が油泥のついた布を旧路へ投げる。


 粘液の先端が迷った。


 エダンの包帯。


 油泥の布。


 一拍だけ二方向へ伸びる。


「押せ!」


 全員で盾片を前へ倒した。


 灰色の腕を旧路へ押し込み、金属片を栓のようにはめる。


 エダンが救助穴を抜けた。


 最後の人間が安全側へ転がった瞬間、俺たちは盾片から脚を離した。


 粘液と金属片は、そのまま沈殿槽へ吸い込まれていった。


「カイルへの返事、どうする?」


 二号が聞く。


「街を救うのに使ったと言えば、たぶん怒りながら喜ぶ!」


「便利な解釈ですね!」


「便利な解釈で世界は回ってる」


「名言みたいに言いましたけど、ただの言い訳です」


「言い訳も磨けば名言だ!」


「磨き方が間違ってます」


「六人!」


 俺は一人ずつ名を呼んだ。


「全員いる!」


 返事と歓声が、水路いっぱいに響いた。


 灰色の波は旧沈殿槽へ流れ込み、深い底へ落ちていく。


 先生とセラが上の遮断栓を閉めた。


 どすんっ!


 石蓋がはまり、汚泥スライムを槽の中へ封じる。


 静かになった。


 俺たちは、泥と油と赤い色粉で何色か分からない姿になっていた。


 エダンが高台から俺を探す。


「小さい隊長はどこだ!」


「赤くて黒くて灰色のやつだ!」


「全部汚れてる!」


「じゃあ一番うるさいやつ!」


「いた!」


 一発で見つけられた。


 嬉しい。


 少し悔しい。


「もっと格好いい特徴で覚えられたかったです」


「一番うるさいって、確かに大将です」


「お前まで追い打ちをかけるな!」


     ◇


 六名は第一安全所で応急手当を受け、地上へ戻った。


 救助追加報酬、六名分。


 銀貨十二枚相当。


 俺たちはまだ依頼の途中なので、受け取りは後だ。


 チュウタだけが何度も「十二枚」と呟いていた。


「味見係の予算が増える」


「その役目は認めてない!」


「じゃあ十二枚は誰が使うんですか」


「全員のために貯める! 個人の予算にはしない!」


「立派なこと言ってますけど、絶対少し味見しますよね」


「する! 隊長の特権だ!」


「認めてなくても存在はしてます」


「存在させたのはお前の主張だけだ!」


「主張し続ければいつか実在します」


「その理屈で何を勝ち取るつもりだ!」


 旧沈殿槽の中では、汚泥スライムが静かに動いている。


 先生が観察窓から光を当てた。


 入れた油泥が消えていた。


 錆びた工具も、表面の汚れだけが剥がれ、金属そのものは残っている。


 槽の石壁には、一本だけ灰色ではない筋ができていた。


 水を通したように、きれいな石の色が戻っている。


「こいつ、掃除してる」


 俺の言葉に、全員の触角と視線が槽へ集まった。


 街を飲み込む大波だと思っていた魔物は、閉じ込めた槽の中で何十年分もの汚れを食べていた。

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