下水地図が役に立たない
人間用の地図を信じて右へ曲がったら、俺たちは風呂の残り湯に流された。
「熱い! 石鹸くさい! 誰だ、今この真上で風呂に入ったやつぅぅ!」
白く泡立った水が、枝管を一気に下ってくる。
俺たちは六本脚で壁へしがみついた。
脚先が濡れた石鹸で滑る。
一本外れる。
二本外れる。
三本目まで――まずい!
「大将、手!」
二号が前脚を伸ばす。
掴んだ。
二号の後脚を三号が掴む。
三号を四号。
四号を五号。
五号を六号。
六号は誰が掴む。
「最後がいない!」
「大将、早く壁へ戻って!」
六匹のゴキブリが一本の縄になり、枝管の中でぶら下がる。
俺の腹へ湯が直撃した。
気門覆いが泡を吸う。
息が苦しい。
しかも香りは花だ。
命懸けなのに、妙にいい匂いなのが腹立たしい。
「ルビー!」
「名前を呼ぶ余裕はあるのね!」
上の亀裂から風が吹いた。
俺たちの身体を壁へ押しつける。
六本脚が一斉に石の凹凸を掴んだ。
泡の濁流が足元を通り過ぎる。
やがて水量が減り、俺たちは壁に張りついたまま息を吐いた。
「人間の地図には、風呂の時間まで書いとけ!」
「地図に怒っても増えませんよ」
二号が身体の泡を払う。
「役に立たないなら、せめて謝れ!」
「紙に謝罪を求める大将、ちょっと格好悪いです」
「格好悪くていい! 濡れて泡だらけの今、格好は捨てた!」
「潔いですね」
「潔さより乾いたタオルが欲しい!」
紙は何も言わない。
広げた図面の上で、青い線が平然と右へ続いている。
現実には、風呂場から泡が落ちる急流だった。
大都会の地下で一番信用できないもの。
現在、第一位は公式地図である。
◇
未帰還班から返った三回の合図は、第一安全所の右壁から届いた。
人間用図面では、壁の向こうに何もない。
ノーラへ確認すると、彼女はすぐ地図の年号を見た。
「十二年前の改修図だ」
「最新じゃないのか?」
「最新だ」
「十二年前なのに!?」
「大きな水路を改修したのが十二年前。細い排水管や建物側の接続は、各地区の工房や浴場が勝手に足している」
「勝手に!?」
「許可は取る。だが工事後の図面を出さない者が多い」
「それを勝手って言うんだよ!」
人間用図面は、主水路と公式の点検路しか載せていない。
石壁のひび。
古い管。
建物から後付けされた排水口。
魔物が削った穴。
俺たちが通れる道の九割は、存在しないことになっている。
「主水路をまっすぐ行けば、第三作業所へ着く」
ノーラが言う。
「ただし汚泥スライムが塞いでいる。未帰還班は、閉鎖された旧横管を使って避けたのかもしれない」
「その旧横管は?」
「地図にない」
「なくしたのか?」
「閉鎖したから消した」
「閉鎖してないから人が入ったんだろ!」
「地図の理屈では閉鎖済みです」
「現実の理屈では今も使われてる!」
「どっちが勝つんですか」
「現実に決まってる! 俺たちは紙の上に住んでない!」
俺は触角で図面を叩いた。
人間の世界は大きい。
立派な石管を作れる。
鉄の排水門も作れる。
そのくせ、描かなかった細道一つで六人が帰れなくなる。
大きいことと、全部見えることは同じじゃない。
「作り直すぞ」
「人間用の地図を?」
「俺たち用をだ」
二号が金属管を掲げる。
「題して、カサカサ大都会・迷わん立体――」
「名前より先に六人を探す!」
「最後まで言わせてください!」
「長い! 地図より迷う!」
「一文字も採用しないんですか」
「一文字も!」
「じゃあ略して『迷わん』だけでも」
「それだと逆に迷ってる感じがする!」
◇
平たい紙では足りない。
道が上下に重なっているからだ。
俺たちは薄い樹皮板を五枚用意した。
一枚目は床下。
二枚目は主水路の底。
三枚目は点検縁。
四枚目は壁の継ぎ目。
五枚目は天井管。
板と板の間を細い針金でつなぐ。
安全路は青糸。
水が来る道は白糸。
魔物の匂いが強い場所は赤糸。
未確認は黄色。
「黄色は下水汚れと同じ色だって、昨日却下しただろ」
「地図の上なら見えます」
ピコが言う。
「現場の印と同じ色にしないと迷う!」
「じゃあ緑!」
「浄化菌と同じだ!」
「紫!」
「色粉がない!」
色一つで会議が止まる。
急いでいるときほど、こういう細部が腹立たしい。
「未確認は糸を結ばない!」
先生が言った。
一同が黙る。
「……最初からそれでよかったな」
「十分揉めましたね」
ジロが記録板へ時間を書いた。
「書くな! 反省はあとだ!」
測量班を四つに分ける。
俺と二号たちは、三回の合図が来た右壁。
チュウタとネズミ隊は、床下と閉鎖管。
ルビー隊は天井。
先生、セラ、ジロ、ピコは第一安全所で立体地図を組む。
命綱の色も班ごとに変えた。
「三十分ごとに戻る。返事がなければ二班で迎えに行く。一人で追わない」
「大将もですよ」
ガーロが念を押す。
「分かってる」
「前回も言いました」
「分かってるって!」
「声が大きいときは、分かってない顔です」
「俺の顔、分からないんじゃなかったのか!」
「長い付き合いですから」
ゴキブリ同士なら、触角の角度、脚の開き、背の匂いで分かる。
人間には同じ黒い虫に見えても、俺にはガーロと二号と三号はまるで違う。
ガーロは右後脚を少し引く。
二号は考えると触角の先を丸める。
三号は怖いときほど歩幅が大きい。
一匹ずつ違う。
だから、一匹ずつ帰ってくるのを待つ。
「行こう」
俺たちは右壁の継ぎ目へ入った。
◇
ピコの測量車四号機は、前輪を二つ増やして六輪になった。
「俺たちと同じです!」
「脚と車輪を一緒にするな!」
車軸へ粘着苔を薄く塗り、壁でも走れるようにする。
前方の小さな車輪が距離を数える。
水滴を吊るした輪が傾きを測る。
後部の糸巻きが、通った道へ青糸を残す。
「完璧です!」
ピコが第一安全所で叫んだ。
俺たちは右壁の穴から、伝話糸越しに聞いている。
「試してから言え!」
四号機を押す。
六輪が回る。
壁を上る。
十歩。
二十歩。
曲がり角を越えた。
「動いてる!」
「成功です!」
「まだ喜ぶな! お前の成功宣言はいつも早い!」
「今回は本当に――」
「フラグって言葉、覚えたほうがいい」
「知りません、何ですかそれ」
「知らないほうが幸せだ、進め!」
四号機はそのまま天井へ移った。
逆さになる。
吊るした水滴が測量車の中へ落ちた。
ぱしゅっ。
赤い色粉の袋が濡れ、前方へ噴き出した。
俺たち全員が真っ赤になった。
一拍。
「大将が増えました」
二号が言った。
「俺は地図記号じゃない!」
失敗四回目。
いや、五回目か。
もう数えたくない。
吊るす水滴を透明な油玉へ変え、蓋をつける。
赤い粉は外し、距離の数字だけを刻む。
再出発。
今度は天井でも止まらない。
四号機の車輪が回るたび、伝話糸が一度震える。
距離が分かる。
傾きが分かる。
俺たちは壁の空気を嗅ぐ。
花の石鹸は浴場。
油と焦げは料理屋。
染料の酸っぱい匂いは布工房。
上の町の匂いが、排水口ごとに違う。
さらに床へ腹をつける。
荷馬車の連続振動は大通り。
細かい足音と硬貨の響きは市場。
一定の金属音は鍛冶場。
「下から町が見える」
目では何も見えない。
なのに、触角と六本脚へ地上の暮らしが流れ込んでくる。
俺が人間だった頃、地下はただの暗い穴だった。
今は上を歩く人間の食事も風呂も仕事も、匂いと震えで分かる。
少し怖い。
すごく面白い。
「大将、楽しそうですね」
「道が増えるのは楽しいだろ」
「迷ってる最中ですよ」
「見つければ地図になる!」
人間用の一本線の周りへ、俺たちの道が増えていく。
右壁だけで枝道十一。
上下の接続四。
時間で水が来る管三。
魔物の爪跡二。
地図には存在しない旧石管が、第三作業所の上へ伸びていた。
一度目は、見つけた道を全部、一枚の樹皮へ描いた。
青い線と白い線と赤い線が中央で重なった。
「ここが合流点ですね!」
ピコが言う。
「違う」
俺、チュウタ、ルビーの声が重なった。
「俺たちの道は壁の上だ」
「こっちは床の下だぞ」
「私たちは天井よ。三本とも同じ場所を通ってるけど、つながってない」
平たい地図では、上下に重なっただけの道が交差点に見える。
その間違った交差点を信じて四号機を進ませたところ、車は壁の穴から床下へ落ちた。
伝話糸だけが勢いよく引かれる。
「四号機ぃぃ!」
ピコの悲鳴。
チュウタ隊が床下で受け止めた。
測量車は無事だった。
代わりにチュウタが赤い色粉まみれになった。
「大将が増えたな」
俺は言った。
「お前、さっき自分が言われて怒ってたよな!?」
「言う側は楽しい!」
「最悪だ!」
チュウタが身体を震わせ、赤い粉を全部こちらへ飛ばした。
俺もまた赤くなる。
何も解決していない。
「だから板を重ねるんです」
先生が新しい樹皮を五枚並べた。
床、主水路、点検縁、壁、天井。
高さが違うなら、地図にも高さを作る。
板を隔てる小さな柱は、距離に合わせて切る。上下へ通じる穴だけを針金で結ぶ。
「人間の地図を小さく写すんじゃない」
俺は赤い粉を払いながら言った。
「俺たちが歩いた世界を、そのまま作るんだ」
「格好つけてますけど、真っ赤です」
「今だけ黙れ!」
「赤い大将のほうが、ちょっと威厳あります」
「慰めてるのか煽ってるのかどっちだ!」
「両方です」
「器用な性格だな、お前!」
◇
三十分後、各班が第一安全所へ戻った。
全員いる。
チュウタ隊は床下に九本。
ルビー隊は天井に八本。
俺たちは壁に十一本。
重複を除いて、枝道は二十四。
さらに細い亀裂が十三。
縦の接続が十。
合計四十七の道が、五枚の樹皮板へ立ち上がった。
針金、糸、木片が入り組み、見た目は鳥の巣に近い。
「これが地図?」
ノーラが覗き込む。
「俺たちには分かる」
「この糸は?」
「浴場。決まった時間に熱い湯が来る」
「こっちは?」
「料理屋。油が多いから滑る」
「この細い針金は?」
「市場の真下。振動が多いが、天井が厚い」
ノーラは人間用地図の上へ、俺たちの立体地図を重ねた。
五層の道が、平たい線を囲む。
「私たちは水を流す道しか見ていなかった」
「俺たちは身体が小さいから、隙間を道として見る」
言ってから、胸の奥がむずむずした。
格好いい。
今のは格好よかった。
「大将、赤いです」
「色粉だ!」
「照れてるかと思いました」
「顔色は分からないんじゃなかったのか!」
「照れの匂いは分かります」
「そんな匂いがあるのか!」
「今作りました」
「息をするようにからかうな!」
また壊された。
ノーラは笑いながらも、地図から目を離さない。
「水路局へ、この方式を残せるか?」
「依頼が終わったら一緒に作る。人間が読める大きさで」
「約束だ」
「大将、水路局と正式契約ですか。出世しましたね」
「出世じゃない、仕事が増えただけだ」
「同じことです」
「違う! 出世は偉くなる、仕事が増えるのは疲れるだけだ!」
立体地図は今の救助にも使える。
三回の合図が届いた方向。
匂いが残る旧横管。
チュウタ隊が見つけた床下の閉鎖路。
全部を重ねると、一つの場所へ集まった。
第三作業所の上にある、使われていない雨水溜め。
「ここだ」
俺たちは最短路を走った。
右壁を上り、浴場管を時間前に横切り、天井亀裂から旧石管へ入る。
人間なら通れない。
ゴキブリと小型荷車なら通れる。
最後の石の継ぎ目へ触角を入れる。
人間の汗。
灯り油。
血の匂い。
「いた!」
隙間の向こうに、六人がいた。
乾いた高台へ身を寄せている。
一人は脚へ布を巻き、二人が支えている。
全員、生きている。
「救助隊だ!」
俺が叫ぶ。
作業員たちが顔を上げる。
「どこだ!?」
「壁の隙間! 黒くて小さい!」
「見えない!」
「そこは頑張れ!」
「頑張って見えるものじゃない!」
「気持ちの問題だ! もっと目を細めろ!」
「無茶を言うな!」
文句を言いながらも、男の声には力が戻っていた。
涙を浮かべていた男が、笑った。
石を叩く。
三回。
俺たちも三回返す。
届いた。
あとは人間が通れる救助路を開く。
そのとき、立体地図へつないだ白糸が一斉に震えた。
水が来る道の合図。
一つではない。
四十七本のうち、二十本以上が同じ方向へ強く引かれている。
遠くから、泥を含んだ重い流れの音が近づいてきた。
ごぼ……ごぼごぼごぼ。
俺は隙間の向こうの六人と、背後の旧石管を見た。
「全員、高い場所へ!」
地図が完成した直後、その道全部を飲み込む大波が来た。




