大都会の下へ
百を超す赤い目は、俺たちを襲いに来たのではなかった。
俺たちを踏み越えて逃げようとしていた。
「待て待て待て! こっちは入口だぞぉぉ!」
鉄格子の向こうから、黒い甲虫の群れが押し寄せる。
大きさは俺の半分ほど。
泥に濡れた背が赤い灯りを反射し、目のように光っていたのだ。
一匹なら小さい。
百匹なら黒い波だ。
ざざざざざっ!
石床を掻く無数の脚が腹の下へ響く。
「隊列、左右へ!」
俺たちは開いた格子の両脇へ散った。
逃げ遅れた測量車が、甲虫の波へ飲み込まれる。
「ピコの四号機が!」
車輪だけが高く跳ねた。
「また車輪が外れたぁ!」
ピコが悲鳴を上げる。
「今そこか!? 百匹来てるんだぞ!」
「四度直したのに!」
「だから四号機なのか!」
「一号から三号は殉職しました」
「殉職って言うな、悲しくなるだろ!」
「立派な最期でした、車輪だけは」
「車輪の話はやめろぉぉ!」
黒い甲虫たちは俺たちへ噛みつかない。
互いにぶつかり、壁を上り、天井へ張りつき、とにかく入口を目指している。
何かから逃げている。
群れの最後尾へ、暗闇から灰色の粘液が伸びた。
一匹の後脚を包む。
甲虫がもがく。
粘液の中へ沈む。
「あれだ!」
俺の触角が、酸っぱい泥の匂いを拾った。
汚泥スライム。
水路を塞いでいるという魔物の一部が、床を薄く這ってきている。
このまま入口まで来れば、外へ出る。
「格子を閉めろ!」
ノーラが巻き上げ機へ飛びつく。
「まだ甲虫が通ってる!」
「だがスライムまで出せない!」
閉めるしかない。
分かっている。
でも、今も黒い小さな背が何十匹もこちらへ走っている。
知性はない。
依頼対象でもない。
それでも、逃げる姿は俺たちと同じだ。
「十秒だけ待ってくれ!」
「クロ!」
「十秒で全部通す!」
できるかどうかは、今から考える。
言ってしまった。
くそ、格好つけた。
俺の口は、どうして六本脚より先に走るんだ!
「ルビー、風! 甲虫だけを入口へ!」
「スライムまで押したらどうするの!」
「ガーロ、粘着網で止める!」
「網が溶けるぞ!」
「ダンの盾片を使う!」
六匹がかりで運んできた金属片を、チュウタが口と前脚で持ち上げる。
「贈り物を初日から汚すのか!」
「盾は汚して使う物だ!」
「本人に言えよ!」
チュウタが盾片を床へ突き立てる。
がりっ!
金属が石を削り、灰色の粘液をせき止めた。
ルビー隊が翅を広げる。
強すぎれば甲虫は壁へ潰れる。
弱すぎれば間に合わない。
訓練で使った吊り糸を、二号が格子へ張る。
「糸一目盛り!」
「分かってる!」
風が床すれすれを走った。
甲虫の背を撫で、入口へ押す。
群れの速度が上がる。
俺たちも左右から走り、外へ逸れる個体を戻す。
「あと八秒!」
ノーラが叫ぶ。
「数えるな! 怖くなる!」
「自分で十秒と言っただろ!」
「七!」
「二号まで数えるな!」
盾片の横から、粘液が回り込む。
ガーロ隊が濡れた縄を引き、布袋へ受ける。
袋が膨らむ。
灰色の表面が、布の隙間を探してうごめく。
「五!」
最後尾の甲虫が一匹、転んだ。
後ろ脚へ粘液がつく。
「三号!」
三号が横から体当たりする。
四号が前脚を掴む。
俺と二号が二匹ごと引っ張る。
「重い! 俺たちより小さいくせに!」
「泥を背負ってます!」
「泥ごと数えるな、身軽だと思わせて損した!」
「文句は助けてからにしてください!」
「二!」
甲虫の脚が粘液から抜けた。
「一!」
全員で格子の外へ転がる。
「閉めろ!」
巻き上げ機の留め具が外れた。
鉄格子が落ちる。
がしゃぁぁんっ!
金属の歯が石溝へ噛み合い、灰色の粘液を向こう側へ押し返した。
衝撃が階段まで震わせる。
俺たちは甲虫一匹と一緒に、泥の上へひっくり返っていた。
「十秒」
ノーラが息を吐く。
「本当に通したな」
「十一秒では?」
ジロが言った。
「細かい!」
「依頼記録へ正確に」
「十秒でいい! 格好いいほうを書け!」
助けた甲虫は、俺の触角を前脚で押しのけ、どこかへ逃げていった。
礼はない。
少しくらい振り返れ。
いや、いい。
生きて走れるなら、それでいい。
俺たちは閉じたばかりの格子を見上げた。
大都会の地下は、入る前から追い出しにかかってきた。
◇
汚泥スライムが入口から離れたのを確認し、格子をもう一度開けた。
今度は盾片を先頭に立てる。
表面へ残った粘液を先生が採取し、殻瓶へ封じた。
「浄化菌への反応をあとで試しましょう」
「倒す前に飼う気か?」
「性質を知らずに倒すと、地下室の二の舞です」
「あれは薬瓶の置き方も悪かった!」
「砂糖を落としたのは?」
「チュウタ!」
「まだ言うのか!」
過去の失敗は、仲間が覚えている限り何度でも刺さる。
ありがたい。
ありがたいが、痛い。
格子の向こうへ入る。
人間用の主水路は、幅が三人分ほどだと聞いていた。
俺たちの目には、暗い谷だった。
中央を黒い水が流れている。
川幅は、クロニアの大広場より広い。
両側の石壁は見上げても天井へ届かない。
石を積んだ継ぎ目一つが、俺たちには横道。
欠けた角は洞窟。
排水用の細い溝は、身体ごとさらわれる急流だ。
天井から水滴が落ちた。
ぽつ。
人間には小さな音。
俺たちの前では、透明な水塊が空気を押し潰しながら落ちてくる。
「右へ!」
飛び退く。
水滴が床へぶつかった。
ぱしゃぁんっ!
冷たい飛沫が背を叩き、俺は横へ二回転した。
「雨より小さいのに、この威力か!」
「大将、気門覆いがずれてます」
ガーロが結び目を直す。
腹の横を覆う木炭布が濡れ、急に重くなった。
呼吸がしにくい。
人間なら鼻をつまめば済む悪臭も、俺の気門は腹の側面に並んでいる。泥へ腹をつければ、自分から臭いを吸い込むようなものだ。
「地面へ伏せるのが得意なのに、伏せたくない!」
「壁を走れば?」
ルビーが言う。
「簡単に言うな!」
「私は飛べるけど」
「今ここで自慢するか!」
「羨ましいなら言っていいのよ」
「羨ましくない! 壁を這うほうが渋くて格好いい!」
「強がりが早口です」
「早口じゃない、いつもの速さだ!」
壁へ移る。
濡れた石は滑る。
六本脚の爪を細かな凹凸へ食い込ませ、一歩ずつ横へ進む。
人間だった頃には、壁を這う虫を見るだけで背筋が寒くなった。
今は壁が安全地帯だ。
下の急流を見れば、なおさらそう思う。
価値観は環境で変わる。
できれば、もう少し清潔な環境で変わりたかった。
先頭を三班に分けた。
床はチュウタとネズミ隊。
壁は俺とガーロ隊。
天井はルビーと赤翅隊。
先生、セラ、ジロ、物資班は中央の高い点検縁を進む。
人間用図面では一本の線。
実際には、床、左右の壁、天井、中央の水、石の内側、六つ以上の道が並んでいる。
「全班、見える範囲を同じ道と思うな!」
俺が叫ぶ。
「合流印を三色で残す! 黒は床、青は壁、赤は天井!」
「黒は見えにくいです!」
二号が言う。
「じゃあ黄色!」
「下水の汚れと同じ色です!」
「何色ならいいんだ!」
「大将の羽根色は?」
「地味な黒だ、目立たない!」
「目立たない色を目印にする意味、あります?」
「ないな! 自分で言って気づいた!」
ピコが胸を張る。
「四号機の赤い粉があります!」
「俺を染めたやつだろ!」
「二色足せば三色です!」
結局、青、赤、白の色粉を使うことになった。
俺の背に残った赤だけは、地図に含めない。
「動く現在地として便利ですよ」
「二号、今日だけで何回俺を地図記号にするんだ!」
◇
入口から百人歩ほど進んだ場所に、第一点検所があった。
人間用の鉄扉は閉まっている。
ノーラから借りた鍵は、俺たち二十匹分の重さだ。
物資班が荷車で運び、チュウタが両前脚で持ち上げる。
「鍵って、扉を開ける道具だよな」
「そうだ」
「なんで運ぶだけで冒険になるんだ!」
「人間が俺たちの大きさを考えてないからだ!」
鍵を穴へ入れる。
重みで下へ垂れる。
回らない。
ネズミ隊が柄を押す。
ゴキブリ隊が鍵穴の中へ入り、錆を掻き出す。
ルビー隊が隙間へ乾いた風を送る。
先生が油を一滴垂らす。
「回せ!」
全員で押した。
ごり……ごりりっ。
錆びた内部が噛み合い、鍵が四分の一だけ回る。
「あと少し!」
「人間なら手首一つで終わる作業だぞ!」
「大将、人間に戻りたいですか?」
二号の質問に、脚が一瞬止まった。
こんな下水で聞くな。
答えが妙に本気になるだろ。
「今は戻らない」
「即答ですね」
「考える暇があったら答えを変えたくなるだろ」
「変わりそうだったんですか」
「変わらない! でも聞かれ方が卑怯だ!」
「人間なら、この鍵穴の中にいる三号を助けられない」
鍵穴から三号の声がする。
「いい話の途中ですけど、早く回してください! 油まみれです!」
「回せぇ!」
「油まみれの三号を働かせすぎでは?」
先生が油瓶を傾けながら言う。
「今、感謝と労働どっちも要求するのは無理があります!」
「両方くれ! 鍵が回ってからだ!」
鍵が最後まで動いた。
鉄扉が内側へ開く。
第一点検所は、乾いた小部屋だった。
壁には工具。
天井には送風口。
床には人間用の長椅子。
俺たちにとっては、城壁と屋根のある前線基地だ。
「ここを最初の拠点にする!」
歓声が上がる。
物資を壁際へ分ける。
濡れた気門覆いを交換する。
先生が浄化菌床を一つ、送風口の下へ置く。
チュウタは長椅子の下を見て、もう炊事場の場所を決めている。
「鍋はここ。食料棚はあっち」
「着いてすぐ飯か」
「腹を減らした救助隊が役に立つか?」
「正しいのが腹立つ!」
「鍋の位置、俺が決めていいですよね」
「お前が仕切ると味付けが甘くなるだろ」
「甘いのは正義です」
「危機感がなさすぎる!」
文句を言いながらも、俺の腹も同じ意見だった。
乾燥茸を一片ずつ配る。
塩をほんの少しつける。
「もっと分厚く切ってください」
「切ったら人数分足りなくなる」
「薄いと味わう前に消えます」
「消える前に味わう技術を磨け!」
文句を言いつつ、チュウタは誰よりも早く配り終えた列の先頭にいる。
下水の悪臭の中でも、噛めば香樹種の匂いが戻ってきた。
一口で、クロニアの食卓を思い出す。
知らない大迷宮の中へ、小さな家を一つ持ち込んだ気分だった。
俺は壁へ新しい札を立てた。
『第一安全所。全員で帰る場所』
「大将、字が赤いです」
「俺の背から取った色粉だからな!」
「無駄がないですね」
「納得したくない!」
「次に汚れたら青にしましょう」
「俺を色見本にするな!」
「便利なものは使うのが賢さです」
「その賢さ、俺の尊厳の上に成り立ってるからな!」
◇
食事のあと、未帰還班の痕跡を調べた。
第一点検所には、六人分の予備縄が残っている。
工具は持ち出されていた。
壁の記録板には、昨夜の時刻と名前。
ノーラの木札と同じ六名だ。
彼らはここを通り、第三作業所へ向かった。
扉の外へ出る。
床の泥に、人間の長靴跡が続いていた。
一つ。
二つ。
途中で水に消える。
人間の目なら、そこで終わりだ。
俺たちの触角には、壁の低い位置へ油の匂いが残っている。
作業員が持つ灯り油だ。
「壁沿いへ移った」
俺たちは匂いを追う。
石の継ぎ目に、布の糸が一本引っかかっていた。
さらに先には、靴底の金具が擦れた跡。
「逃げながら、印を残してる」
ノーラの仲間は、ただ迷ったんじゃない。
後から来る救助隊へ道を残した。
胸が熱くなる。
会ったことはない。
それでも、向こうも仕事を諦めていない。
「返事を探すぞ」
二号が床へ金属管を当てた。
救助用の合図。
三回、ゆっくり叩く。
こん。
こん。
こん。
水路の奥へ振動が流れる。
しばらく、何もない。
黒い水の音だけ。
天井から落ちる水滴。
遠くで甲殻が擦れる音。
俺の六本脚が床を掻きそうになる。
待て。
焦るな。
もう一度叩こうとした、そのとき。
とん。
遠い。
弱い。
とん。
とん。
三回。
俺たちの合図へ、同じ数が返った。
「生きてる!」
歓声を上げかけ、全員で口を塞ぐ。
声で魔物を呼ぶかもしれない。
代わりに前脚と拳と尻尾を、互いの背へぶつけた。
返事は主水路の先からではない。
人間用図面では壁になっている、俺たちの右側から来た。
俺は巨大な図面の記憶と、目の前の石壁を見比べた。
「地図に道がないぞ」
壁の向こうでもう一度、三回の合図が鳴った。
大都会の地下で最初に見つけたのは、人間が描き忘れた道だった。




