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街の地下から依頼です

地下水路から運び込まれた長靴が、ギルドの中を走り出した。


「靴が逃げたぞ!」


「違います、大将! 中に何かいます!」


 黒い泥まみれの長靴が、がたん、がたがたっ、と床を跳ねる。


 治療中の水路作業員は片足だけ靴下姿で、担架の上から青ざめていた。


「それだ! 排水門で俺の腕を噛んだやつだ!」


「持って帰ってくるなぁぁ!」


 長靴の口から、ぬるりと黒い身体が伸びた。


 太い。


 長い。


 口の周りに、細かな牙が輪になっている。


 俺たちの三倍はある吸血ヒルだ。


 床へ落ちる。


 びたんっ!


 濡れた肉が石を叩き、黒い泥が俺たちへ飛んだ。


「避けろ!」


 六本脚で走る。


 前脚、次に後脚、いや全部同時だ!


 考えている暇はない。


 泥の一滴が背後へ落ち、卓の脚ほど高く跳ねた。


「ギルドの中で下水を浴びたくない!」


「洞窟では煮込みを浴びてましたね!」


「一緒にするな! あっちは報酬、こっちは汚水だ!」


「どっちも茶色くて臭いのは同じですよ」


「煮込みは臭くない! いい匂いだ!」


「今それを主張する場面ですか!」


 吸血ヒルが身体を縮めた。


 ばねのように跳ぶ。


 狙いは俺だ。


 小さくて食べやすそうに見えたか。


「その判断、後悔させてやる!」


 俺は進路を変えない。


 飛びかかる口が迫る。


 牙の輪の奥が、ぬめった赤色に開く。


 気持ち悪い。


 俺が言うのも何だが、本当に気持ち悪い。


「今だ!」


 俺は腹を床へ伏せた。


 薄い身体の上を、吸血ヒルが通り過ぎる。


 真正面には、ダンの仮盾。


「ダン、置け!」


「置く!」


 大盾が床へ落ちる。


 ずんっ!


 吸血ヒルの進路を塞ぐ。


 横へ逃げた先へ、チュウタが空の長靴を倒した。


「戻れ!」


 長靴の口がヒルを飲み込む。


 二号たちが蜘蛛糸で履き口を縛った。


 中で、びたびたと暴れる。


 長靴がまた走り出そうとする。


 カイルが杖の先で押さえた。


「捕獲一」


「数えるな! まだ集計係を決めてない!」


「今決めた、俺だ」


「立候補が早すぎる!」


「勝手に共同討伐へ入ってくるな」


「俺が押さえなければ逃げただろ」


「こっちはまだ報酬交渉してないんだぞ!」


「命より先にそこか!」


「正式冒険者だからな!」


 黒い長靴が、俺たちの間で悔しそうに跳ねた。


 俺も悔しい。


 次の大仕事は、依頼書より先に噛みついてきた。


     ◇


 ベルガは、水で栄えた交易都市だ。


 北の丘から引いた水を、中央貯水槽へ集める。


 飲み水は石管で各地区へ送る。


 使った水と雨水は地下水路へ落とし、東西二つの排水門から川へ戻す。


 人間の町を下から支える、もう一つの町だ。


 その地下で、三週間前から魔物が増えている。


 最初は吸血ヒルが数匹。


 次に腐食カニ。


 そのあと、泥の中で動く大型スライム。


 作業員が一つの詰まりを取ると、別の枝管が塞がる。


 昨日、ついに東排水門が動かなくなった。


 汚水が逆流し、東地区の地下倉庫三十軒へ入り始めている。


 水路作業員十二名が魔物に襲われ、三名が重傷。


「死者は?」


 ブラムが聞いた。


「今のところ、いない」


 答えたのは、水路監督官のノーラだった。


 四十歳くらいの女性で、短い灰色の髪と、水染みだらけの革服を着ている。片手には丸めた巨大な図面。反対の手には、作業員全員の名が書かれた木札を握っていた。


「だが、昨夜の点検班六名が戻っていない。東門の手前で鐘を二度鳴らしたあと、連絡が切れた」


 治療所へ運ばれた男が、歯を食いしばる。


 仲間が残っている。


 なら、やることの順番は決まった。


「救助が先だ」


 俺が言う。


 ノーラの目が卓の上へ向いた。


 俺たちを見る。


 一瞬だけ眉が動いた。


 驚いている。


 嫌がっているのか、判断できない。


「この小さい方々が、クロニア遊撃隊?」


「そうだ」


 ブラムが答える。


「昨日D級相当へ昇格した。狭所、救助、汚染判別は、そこらのB級より頼れる」


「褒めすぎだ」


 俺は言った。


「あとで失敗したとき、恥ずかしいだろ」


「大将、失敗する前提ですか」


「俺たち、毎回一度は何かやらかしてる!」


「自覚はあったんですね」


 ノーラの口元が少し緩んだ。


 彼女は図面を床へ広げた。


「なら、力を貸してほしい」


 人間用の図面は、広げるだけで俺たちの訓練場ほどある。


 青い線が主水路。


 赤い線が排水路。


 細い黒線が点検用枝管。


「細い?」


 俺は黒線の上へ立った。


 線一本が、俺の身体より太い。


「図面の線で俺たちが隠れるぞ」


「実際の枝管は、人間が這って入れるくらいです」


「それを細いと言う人間の感覚が怖い」


 ノーラの指が東地区を示す。


「未帰還班はここ。東排水門前の第三作業所。正面水路は汚泥スライムで塞がれた。左右の枝管には吸血ヒル。天井点検管は腐食カニに壁を削られ、崩落の危険がある」


「全部いるじゃないか」


「まだあります」


「いらない!」


「水位が、排水門を閉じたときより速く上がっています」


 ノーラが別の板を置いた。


 一時間ごとの水位が刻まれている。


「どこかで流入量が増えた。飲み水側とつながれば、町の井戸まで汚染される」


 笑って済ませられない話だ。


 未帰還六名。


 逆流する汚水。


 増え続ける魔物。


 黒い魔石と同じ震え。


 個別の討伐依頼ではない。


 地下水路全体を相手にする仕事だ。


「依頼の目的を確認する」


 俺は図面の上を歩いた。


「一、未帰還六名の捜索と救助。二、東排水門までの安全路確保。三、詰まりと水位上昇の原因調査。四、知性のない魔物は必要数を討伐または捕獲。五、黒い石があれば壊さず回収」


「六、飲み水側との接続を防ぐ」


 ノーラが加えた。


「七、作業員が戻って働ける状態へ直す」


 先生が言う。


「倒して終わりでは、また詰まります」


「その通りだ」


 ノーラの返事は速かった。


「魔物を一度減らすだけなら、冒険者へ何度も頼んだ。欲しいのは、水路が流れ、作業員が安全に点検できる状態だ」


 俺は彼女が好きになった。


 話が生活へ戻ってくる人間は信用できる。


「報酬は?」


 チュウタが聞いた。


「好きになった直後に金の話ですか」


 二号が呆れる。


「信用と報酬は別だ!」


 俺とチュウタの声が重なった。


 相棒とは、こういうとき息が合う。


 基本報酬、銀貨六十枚相当。


 未帰還者の救助一名につき追加二枚。


 東排水門の復旧で追加二十枚。


 魔物素材は別途買い取り。


 長期化した場合、七日ごとに追加の活動費。


 食料、治療薬、縄、照明、作業員用の道具は水路局が支給する。


「受ける!」


「まだ契約条件を全部読んでいない」


 ブラムが止める。


「聞いたら断る条件があるのか?」


「地下水路の物を勝手に持ち帰らない」


「詰まりのゴミも?」


「記録して、許可を得れば素材として分配する」


「受ける!」


 今度こそ前脚印を押した。


     ◇


 大規模依頼は、準備だけで一つの戦いだった。


 最初に、隊員を増やす。


 登録済みの二十八名に、掘削のネズミ隊十二名、風と乾燥の赤翅隊十名、先生、セラ、ジロを加える。


 戦闘だけでなく、測量、救助、浄化、修理、記録、炊事の班を作る。


「炊事班は何人だ?」


 チュウタが聞く。


「五人」


「少ない!」


「食べる人数じゃない! 作る人数だ!」


「俺は味見係に入る」


「それは食べる人数だ!」


「味見も立派な技術だ! 毒か腐敗か、俺の舌が最初に判定する!」


「命がけの係だな」


「命がけなのに誰も志願してくれない!」


「危険だからです!」


 二号が即答した。


「お前が言うな! お前だって危険な作戦名を毎回考えてるだろ!」


「作戦名は命がけやないです、恥ずかしいだけです」


「それはそれで嫌だ!」


 装備を並べる。


 蜘蛛糸の命綱。


 色の違う帰還糸。


 小型旗。


 耐熱補修粘液。


 浄化菌床の小片。


 廃粉を濡らして封じるための霧吹き殻。


 木炭布の気門覆い。


 塩、乾燥茸、香り焼き。


 先生の光板。


 ピコの試作測量車。


「待て」


 俺は最後の物を指した。


「それ、一度目は爆発するやつじゃないか」


「もう一度爆発しました!」


 ピコが胸を張る。


「じゃあ二度目も駄目だったんだろ!」


「三度目は車輪が外れただけです!」


「改善の方向が弱い!」


 四度目の試験。


 測量車は床を真っすぐ走った。


 十歩先で、壁へ真っすぐ激突した。


 ぱこん、と箱が開き、赤い色粉が俺だけを染めた。


 一拍、全員が黙る。


「大将専用の位置表示機ですね」


 二号が言った。


「どこを測ったんだ!」


 ピコはその場で車輪の軸を直し始めた。


 失敗しても、持っていく。


 地下水路の人間用地図には、俺たちが通れるひびや床下空間が載っていない。測量車が十歩でも進めば、その十歩は次に来る仲間の安全路になる。


 先生は白い粉と浄化菌の記録をまとめる。


 セラは水路の弁と古代浄化設備の違いをノーラへ確認する。


 ルビー隊は濡れた場所で翅が重くならないよう、油を薄く塗る。


 ガーロは一匹ずつ、気門覆いの結び目を確かめる。


「四号、緩い。五号、予備糸がない。六号、乾燥茸を隠すな」


「非常食です!」


「非常時に大将へ申告してから食え」


「大将も蜂蜜芋を二つ取りました!」


「昨日の話を持ち出すな!」


「大将の非常食は?」


 六号が聞き返す。


「持ってない! 隊長は身一つで戦う!」


「格好いいこと言ってますけど、腹減ったらすぐ弱音吐きますよね」


「お前が俺の何を見てきたんだ!」


「ずっと見てきました」


 言い返せない。


 賑やかな準備だ。


 怖さが消えたわけではない。


 地下水路の泥から感じた冷たい震えは、まだ触角の根元に残っている。


 でも、一匹で入るわけじゃない。


 五十名以上の仲間が、それぞれ自分の得意な物を持っている。


 俺は全部を知っている必要はない。


 誰が何を知っているか、知っていればいい。


     ◇


 銀狼の牙は、地上支援へ回ることになった。


 五人とも落盤の傷が残っている。


 カイルは不満そうだった。


「俺たちも入れる」


「杖をついて水路へ入るな」


「戦える」


「歩けてない」


「お前より歩幅は大きい」


「今それを比べるな!」


 ブラムが役割を決めた。


 銀狼の牙は水路入口の物資管理、地上から入る増援の護衛、回収素材の一次受け取りを担当する。


 安全な区画へ入れる段階になれば合流する。


「先に実績を稼ぐぞ」


 俺は言った。


「戻った頃にはD級の依頼件数で追いついてやる」


「一件で?」


「大規模依頼だから十件分くらいに数えろ!」


「数えない」


「決めるのはお前じゃない!」


 カイルが仮盾の縁から、小さな金属片を外した。


 俺たちの小型旗より少し大きい。


「持っていけ」


「何だ?」


「落盤で壊れたダンの盾の欠片だ。穴を塞ぐにも、足場にもなる。返さなくていい」


「贈り物なら、もっと嬉しそうに渡せ」


「負けそうな相手へ贈る顔なんて知らん」


 俺は盾片を受け取った。


 ゴキブリ隊六匹で持つ重さだった。


「重い!」


「昨日の冒険者証より軽い」


「比較対象がおかしい!」


「お前の基準が全部あの証になってるだけだ」


「昨日、人生で一番重い物と戦ったからな!」


「戦ってない、下敷きになっただけだろ」


「下から見た重さも立派な経験だ!」


 文句を言いながら、旗の運搬台へ載せた。


 借りは作らないつもりだった。


 でも、仲間から受け取った物まで拒む必要はない。


 使って、帰って、次に返せばいい。


     ◇


 夕暮れ前。


 ベルガ東地区の水路入口へ、クロニア遊撃隊が集まった。


 人間には地下へ下りる石階段。


 俺たちには、城壁の谷底へ続く断崖だ。


 階段の横へ、チュウタたちが小型の坂道を作る。


 荷車が一台ずつ下りる。


 上ではノーラが作業員の木札を六枚、胸へしまった。


「連れて帰る」


 俺が言う。


「頼む」


 彼女は余計な言葉を足さなかった。


 巨大な鉄格子の前へ立つ。


 向こうから、湿った悪臭が押し寄せてくる。


 腐った水。


 油。


 獣の血。


 錆びた金属。


 何百種類もの匂いが触角へ一度に流れ込み、頭の奥が痺れた。


「うっ……!」


 人間の作業員たちは布で鼻を覆う。


 俺たちは腹の横の気門へ覆いを締め直す。


「ゴキブリに生まれて、下水の匂いで負けるとは思わなかった」


「大将、ゴキブリへの期待が高すぎます」


「世間では平気そうな顔をしてるだろ!」


「顔の変化が分からないだけでは?」


「今、種族の真実を言うな!」


 ノーラが巻き上げ機を回す。


 鎖が一つずつ張る。


 ぎ……ぎぎぎぎっ。


 錆びた格子が石床を擦り、暗い隙間を開けた。


 悪臭がさらに強くなる。


 暗闇の奥で、水が流れている。


 その下に、別の振動があった。


 ざわ。


 ざわざわざわ。


 水ではない。


 小さな何かが、壁、天井、床の全部を同じ方向へ走っている。


 俺は触角を上げた。


 闇の中で、赤い点が一つ光る。


 二つ。


 十。


 百。


 人間の町の地下には、俺たちが知らない巨大な迷宮が広がっていた。


「クロニア遊撃隊、入るぞ!」


 D級になって最初の大仕事。


 依頼先は、街の足元全部だった。

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