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嫌っていた相手を救え

「カイル! 返事をしろ! 返事を――いや、蝙蝠じゃないよな!?」


 俺は落盤の岩壁へ向かって叫んだ。


『カイル! 返事をしろ!』


 遠くの北空洞から、風鳴り蝙蝠が俺の声を真似した。


「今は黙ってろぉぉ!」


『黙ってろぉぉ!』


「だから真似するな!」


 二号が俺の腹へ体当たりした。


「大将も黙ってください! 岩の音を聞けません!」


「すまん!」


 口を閉じる。


 苦手だ。


 すごく苦手だ。


 仲間が岩の向こうにいるのに、黙って待つなんて無理に決まっている。


 触角が勝手に岩を叩く。


 六本脚が同じ場所を掻く。


 掘れ。


 今すぐ掘れ。


 身体全部がそう叫んでいる。


 けれど、目の前の岩山へ飛びつけば、次の崩落を起こすだけだ。


 俺は腹を石へ押しつけた。


 粉塵のざらつきが気門の周りへ張りつく。


 息を浅くし、向こう側の振動を探す。


 ご……ごつ。


 弱い。


 だが、一回。


 少し間を置いて、二回。


「いた!」


 二号も金属管を掲げた。


「床の合図です! 一回、二回!」


 合同訓練で使った震えだ。


 右壁を一回。


 中央床を二回。


 意味は、こちらを見ろ、停止。


 いや、そんな細かい意味なんて今はどうでもいい。


 銀狼の牙は生きている。


「チュウタ!」


「分かってる!」


 チュウタはもう岩壁の端へ鼻をつけていた。


 土と石の匂いを嗅ぎ分け、爪で床へ線を描く。


「中央は掘れねえ。上の岩全部がこいつへ乗ってる。右も駄目だ。さっき作った仕切り壁まで崩れる」


「左は?」


「人間一人が通れる穴なら、二時間」


「長い!」


「俺の爪は伝説の穴掘り杖じゃねえ!」


 分かっている。


 分かっているが、二時間は長い。


 落盤の向こうから、今度は金属がきしむ震えが来た。


 ダンの盾だ。


 何かを支えている。


 長くは保たない。


「俺たちが先に入る」


 俺は岩壁の下端を走った。


 人間には塞がって見える。


 俺の触角には、粉塵の奥から細い空気が流れてくる。


 幅は、俺の頭ぎりぎり。


「大将、外套」


「分かってる!」


 穴だらけの赤い外套を脱ぐ。


 正式冒険者の白い旗紐も外す。


 耐熱粘液の小瓶だけを腹へ結んだ。


 何も着けずに、岩と岩の間へ頭を入れる。


 暗い。


 狭い。


 さっきの天井亀裂より、さらに狭い。


 腹を押しつぶすほど薄くしても、背の甲殻が天井へ擦れる。


 一歩進むたび、尖った石が脚の付け根へ刺さる。


 戻ろうとしても、身体を反転できない。


 人間だった頃なら、絶対に入らなかった。


 こんな場所へ顔から潜る生き物を見たら、何を考えているんだと叫んだだろう。


 今なら答えられる。


 向こうに仲間がいる。


 それだけだ。


「二号、三号、無理なら戻れ」


「大将が詰まったら、誰が尻を押すんです」


「言い方!」


「早く進んでください。僕の尻も四号に押されてます!」


 格好いい覚悟が、後ろから次々押し込まれてくる。


 これでいい。


 一人で行くより、ずっといい。


     ◇


 岩の隙間を抜けた先は、粉塵で白く曇っていた。


「クロ!」


 カイルの声。


 今度は本物だ。


「俺だ! 全員いるか!」


「五人いる! ダンが天井を支えてる! セナは腕、俺は脚をやられた! フィアとルッツは動ける!」


「分かった、近づくぞ!」


 約束通り、名前を呼んでから走る。


 視界が開けた。


 洞窟の一部が三角形に残っている。


 ダンは大盾を斜めに立て、その上へ乗った岩板を両腕で支えていた。


 膝が震えている。


 盾の縁が床へめり込み、少しずつ滑っていた。


 フィアがダンの腕へ治療光を当てる。


 だが自分の額からも血が流れている。


 セナは右腕を布で吊り、左手で弓を持っていた。


 ルッツは風で粉塵を天井の小穴へ送っている。


 カイルの左脚は、膝から下を石に挟まれていた。


「ひどい顔だな」


 カイルが言った。


「お前に言われたくない。顔が白いぞ」


「粉だ」


「俺もだ」


「お前は元から黒いから、まだらで気持ち悪い」


「助けに来た相手へ最初に言うことか!」


 怒鳴ったら、ダンの盾が沈んだ。


 ぎぎっ……。


 全員の声が止まる。


 岩の隙間から小石が落ちた。


 こん、ころころ。


 小さな音なのに、腹の奥が冷えた。


「あと、どれくらいだ」


 俺が聞く。


「長くて四十分」


 ダンが歯を食いしばる。


「腕は?」


「もう感覚がない。だから逆に楽だ」


「嘘つけ。膝まで震えてるぞ」


「膝は腕じゃない」


 正論で誤魔化すな。


 俺はダンの盾を一周した。


 右端は大きな石へ乗っている。


 左端は砕けた床へ沈んでいる。


 上の岩板は、三か所で盾へ触れている。


 一つでも滑れば全部落ちる。


「チュウタ、聞こえるか!」


 床を三回、左壁を一回叩く。


 返事が来る。


「左から掘れ! 人間用の穴じゃなくていい。ネズミ一匹分を先に通せ!」


 向こう側から、ものすごく強い二打が返った。


『最初からそう言え』


 言葉がなくても怒られていると分かる。


「チュウタが来るまで、盾を固定する。粘液を使うぞ」


 俺は腹の小瓶を外した。


 マルタからもらった耐熱補修粘液。


 荷馬車の木栓を守った残りだ。


「その小瓶で岩を支えるのか?」


 カイルが眉を寄せた。


「無理に決まってる。俺たちが塗れる量しかない」


「自信満々に言うな」


「岩を止めるんじゃない。滑り始める場所を止める」


 盾の上へ登る。


 金属が汗で濡れ、後脚が滑る。


 下はダンの肩。


 前なら、人間の服や身体へ近づくだけでカイルが嫌がった。


 今は何も言わない。


「ダン、肩へ乗るぞ!」


「来い!」


 名前と許可。


 俺たちは十二匹で、ダンの腕、肩、盾を駆け上がった。


 人間の皮膚は温かい。


 汗の匂いが濃い。


 筋肉が震えるたび、俺たちの脚まで上下する。


 巨大な生きた橋だ。


 怖い。


 一度腕が跳ねれば、俺たちは岩へ潰される。


 それでもダンは、俺たちを振り落とさないよう呼吸を小さくした。


「右の接点へ二滴! 左へ一滴! 中央は薄く広げろ!」


 小瓶の栓を抜く。


 ゴキブリ隊が前脚で粘液をすくい、盾と岩の境目へ塗る。


 二号が足を滑らせた。


「うわっ!」


 カイルの手が伸びかける。


「二号、取るぞ!」


「お願いします!」


 指先が二号の身体を受けた。


 握らない。


 潰さない。


 手のひらへ載せ、盾の安全な場所へ戻す。


 虫嫌いのカイルの手が、ゴキブリを助けた。


 二号は一秒ほど固まった。


「……ありがとう」


「二度と落ちるな。心臓に悪い」


「ゴキブリを見て心配した?」


「俺の手に乗ったことがだ!」


 意地を張る声が少し裏返っている。


 余裕が戻ったら、たっぷりからかってやろう。


 今は粘液を塗る。


 盾の滑りが止まった。


「全部を支えられない! 十分、よくて十五分だ!」


「四十分より短くなってるぞ!」


 カイルが言う。


「今ので盾がどれだけ危ないか分かったんだよ!」


「報告を前向きに言い換えろ!」


「十五分も増えた!」


「増えてない!」


 緊張で壊れかけた笑いが起きる。


 ダンだけは笑えない。


 歯を食いしばったまま、短く息を吐いた。


     ◇


 救助の順番を決めた。


 フィアとルッツを先に細い隙間から出す。


 外でチュウタの掘削を助け、風と治療を送る。


 次にセナ。


 最後にカイルとダン。


「俺を先にしろ」


 カイルが言った。


「脚が挟まってるから?」


「違う。俺が残れば、ダンが俺まで気にする」


「お前を先に出すには、その石を動かす必要がある。今動かせば盾が落ちる」


「ならダンを先に」


「盾を誰が持つ!」


「俺が――」


「脚が挟まってる!」


「じゃあどうしろ!」


「俺たちを信じろ!」


 声が洞窟へ響いた。


 カイルの顔が歪む。


 自分が残りたい。


 仲間を先に出したい。


 その気持ちは分かる。


 分かりすぎて腹が立つ。


 俺も何度も同じことをして、仲間に怒られた。


「格好つけて、一人で順番を変えるな。ダンもフィアもセナもルッツも、勝手に守られて嬉しいわけじゃない」


「お前に何が分かる」


「俺も同じ馬鹿だから分かるんだよ!」


 二号がぼそっと言った。


「そこは胸張るところちゃいますけどね」


「今いい話をしてる!」


「綺麗すぎたんで、ちょっと崩しました」


 カイルが吹き出した。


 悔しい。


 俺より二号の一言が効いた。


「分かった」


 カイルは岩から手を離した。


「順番は任せる。全員出せ」


「最初からそう言え」


「今言った」


 フィアが隙間へ入る。


 人間の肩幅では通れない。


 だがルッツが風を岩の奥へ送り、粉と小石を飛ばす。ゴキブリ隊が内側から割れ目を探し、弱い石だけを一粒ずつ外す。


 外ではチュウタの爪が近づいてくる。


 がりっ。


 がり、がりがりっ。


 固い岩へ当たり、音が止まる。


「止まったぞ!」


 二号が床を叩く。


 向こうから、怒ったような連打。


『爪が欠けた。うるさい』


「元気そうです!」


「どこで判断した!」


 別の場所から掘削音が始まる。


 やがて、岩壁に小さな穴が開いた。


 チュウタの鼻先が突き出る。


「遅い!」


 俺が叫ぶ。


「まだ十二分だ!」


「粘液はあと三分!」


「先に言えぇ!」


 チュウタが穴を広げる。


 土魔法で石の周りだけを柔らかくし、爪で掻き出す。


 フィアが身体を横にして通った。


 ルッツが続く。


 二人が外へ出た瞬間、盾の上で粘液が裂けた。


 ぺりっ。


 小さな音。


 けれど、ダンの身体が一段沈んだ。


「急げ!」


 セナが穴へ入る。


 右腕を曲げられない。


 チュウタが外から布を引き、俺たちが背を押す。


 岩の縁へ腕が当たり、セナの顔が歪んだ。


 それでも声を上げない。


「痛いなら言え!」


「言ったら穴が広がる?」


「広がらない!」


「じゃあ黙って進む!」


「銀狼の牙、頑固者しかいないのか!」


「隊長を見れば分かるでしょ!」


 それは納得した。


 セナが外へ抜ける。


 残るはカイル、ダン。


 盾が再び鳴る。


 ぎぃぃ……。


「次はカイルだ!」


「石はどうする!」


「動かさない。脚の周りを掘る!」


 俺たちはカイルの靴と石の間へ入った。


 汗、革、粉塵の匂い。


 隙間は前脚一本分。


 チュウタが外から石の下へ細い穴を通す。


 ゴキブリ隊が中から石粉を運ぶ。


 五号がカイルの靴紐へ引っかかった。


「五号、止まれ!」


 カイルが反射的に叫ぶ。


 自分の脚が痛むのに、先に小さな仲間の名が出た。


 俺の触角が一瞬止まる。


「大丈夫だ。続けるぞ!」


 靴の下へ空間ができた。


「カイル、脚を抜け!」


「無理だ、感覚が――」


「俺たちが叩く。合図に合わせろ!」


 二号が靴底を三回叩く。


 一、二、三。


 カイルが脚を引く。


 石の下から抜けた。


 フィアとルッツが外から身体を引き、穴へ通す。


 カイルが外へ出る。


 最後はダン。


 だが、ダンが盾を離した瞬間、天井は落ちる。


「盾ごと倒して、穴へ走れ!」


「その間にお前たちは?」


「岩の隙間を抜ける!」


「間に合うのか」


「知らん!」


「正直だな!」


「嘘をついて速くなるなら、百回つく!」


 俺たちは盾から降り、最初に通った細い割れ目へ並ぶ。


 ダンが深く息を吸う。


「倒すぞ!」


「名前を呼べ!」


「クロ、二号、三号、四号、五号、六号――多い!」


「途中で諦めるな!」


 ダンが盾を外側へ倒した。


 金属が岩へ滑る。


 ががががっ!


 天井が沈む。


 ダンが穴へ走る。


 俺たちも割れ目へ飛び込む。


 背後で盾が潰れた。


 ぐしゃんっ!


 岩の圧力が空気を押し出す。


 粉塵と風が細い割れ目へ突っ込み、俺たちの薄い身体を前へ吹き飛ばした。


 頭から、脚から、上下も分からず岩の中を滑る。


「ゴキブリでよかったぁぁ!」


 こんな叫びを心から出す日が来るとは思わなかった。


 薄い身体でなければ潰れていた。


 硬い岩へ背を擦り、触角を曲げ、六本脚を全部たたみ、風に押されるまま抜ける。


 出口の光が見えた。


 俺たちは一塊になって外へ飛び出した。


 チュウタの顔へぶつかる。


「ぐえっ!」


 二十匹近いゴキブリを顔面で受けたチュウタが倒れた。


「助かった!」


「俺が死ぬわ!」


 横ではダンが救助穴から転がり出ていた。


 フィアがすぐ腕へ治療光を当てる。


 カイルは動かない左脚を引きずり、俺たちへ這ってきた。


「全員いるか」


「待て、今数える」


 俺は一匹ずつ触角を合わせた。


 二号。


 三号。


 四号。


 五号。


 六号。


 ガーロ。


 ルビー。


 チュウタ。


 そして、銀狼の牙の五人。


 全員いる。


 その事実が腹へ落ちた瞬間、脚から力が抜けた。


「よかった……本当に、よかった」


 声が情けなく震えた。


 格好よく言いたかった。


 無理だった。


 触角が勝手に下がる。


 二号が横から肩をぶつける。


 ガーロが俺の背を前脚で叩く。


 チュウタは顔についたゴキブリを一匹ずつ下ろしながら笑っている。


 一人にしない触れ方だった。


     ◇


 北鉱村の治療所で、銀狼の牙は並んで包帯を巻かれた。


 ダンは両腕。


 セナは右腕。


 カイルは左脚。


 ルッツとフィアは頭。


 俺たちは全員、粉を落とすため水皿へ放り込まれた。


「待て、俺たちはけが人じゃ――ごぼっ!」


 二十八匹まとめて洗われる。


 水面へ浮かび、脚をばたつかせる俺たちを見て、カイルの顔が青くなった。


「フィア、あれは大丈夫なのか」


「ゴキブリ族は少しなら気門を閉じられるそうです」


「少しだ! 早く葉を入れろ!」


 カイルが寝台から身を乗り出し、木の葉を水皿へ落とす。


 俺たちは葉へ登った。


「助かった」


「今日二度目だな」


「数えるな。利子を取るぞ」


「借りに利子をつけるのは貸した側だろ」


「じゃあ、今のはお前の借りだ」


「水へ落としたのは治療師だ!」


 口喧嘩が始まる。


 セナが笑う。


 ルッツも笑う。


 ダンは腕が動かないので、足で寝台を鳴らした。


 カイルが俺を見る。


 まだ触角の動きに目は反応する。


 近づけば肩が少し固くなる。


 虫嫌いが治ったわけではない。


 それでいい。


 嫌いでも、怖くても、名前を呼んで助け合える。


「クロ」


「なんだ」


「借りは返す。次の依頼で、お前たちより多く稼ぐ」


「救助の借りを競争で返すやつがあるか!」


「怖いなら降りろ」


「言ったな! 依頼件数も報酬も素材査定も、全部勝ってやる!」


「小さいくせに欲張りだ」


「小さいから一枚で百人喜ぶんだよ!」


 俺たちは前脚と拳を突き合わせた。


 大きさが違いすぎて、俺の前脚はカイルの指の爪へ触れただけだった。


 それでも十分だ。


 最悪の挨拶から始まった相手は、その日、最高に口の悪いライバルになった。


 治療所の扉が開く。


 ギルド長ブラムが、討伐報告書と二つの袋を持って立っていた。


「蝙蝠移送、主坑道確保、負傷者五名、死者なし。合同依頼、完了だ」


「報酬か?」


 俺とカイルの声が重なる。


 ブラムはため息をついた。


「救助直後に金の話で息が合うなら、お前らはもう大丈夫そうだな」


 机へ、銀色の札が置かれた。


「それとクロニア遊撃隊。実績、統率、合同任務の三項目を満たした。明日、昇格審査を行う」


「昇格?」


「特例E級から、D級相当へだ」


「聞いたか、カイル。俺たち、明日には格上だぞ」


「俺たちも同じ依頼で戦ったんだが」


「先に驚いたほうが偉い」


「そんな理屈は聞いたことがない!」


 俺の触角が、びん、と立った。


 包帯だらけの銀狼の牙が、悔しそうに笑っていた。

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