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ゴキブリと組めるか

「俺は虫が嫌いだ」


「俺も、お前のその態度はもう嫌いだ」


 虫嫌いの剣士と、剣士嫌いになりかけたゴキブリ。


 俺たちは冒険者ギルドの床と椅子の上で、しばらく睨み合った。


 正確には、俺が椅子を見上げている。


 男は椅子の上から俺を見下ろしている。


 最初から高さで負けていて腹が立つ。


「降りてこい。話し合いは同じ高さでやる」


「断る」


「怖いのか?」


「嫌いだと言った」


「怖いんだな」


 男のこめかみに青い筋が浮かんだ。


 俺の触角は気分よく揺れた。


 勝った。


 何にも勝っていないが、今のは勝った。


「二人とも、そこまでだ」


 ギルド長ブラムの拳が卓へ落ちた。


 どんっ!


 衝撃で俺たちの旗が跳ねる。


 俺も跳ねた。


「話し合いを同じ高さでするなら、クロを卓へ上げろ。カイル、お前は椅子から降りろ」


「なぜ俺まで」


「床に逃げたお前が悪い」


「逃げてない!」


 男――カイルは、渋々立ち上がった。


 受付係が俺たちの小さな会議台を卓の上へ置く。


 木の欠片で作った階段を上り、俺はカイルの正面へ立った。


 これで同じ高さである。


 向こうは座っている。


 俺は立っている。


 細かいことを言えば全然違うが、さっきよりはいい。


 カイルは二十代半ばくらい。


 短い茶髪、灰色の目、頬に細い傷。


 銀狼の紋章がついた軽い胸当てを着ている。腰の長剣は使い込まれ、柄だけが新しい。


 見栄だけの冒険者ではない。


 だから余計に、開口一番の「無理」が腹立たしかった。


 カイルの仲間は四人。


 大盾を背負ったダン。


 弓使いのセナ。


 風魔法使いのルッツ。


 治療術師フィア。


 五人でC級パーティー《銀狼の牙》だ。


 セナとフィアは俺たちへ興味深そうに顔を寄せ、ダンは踏まないよう両足をきっちりそろえている。


 ルッツだけは、さっきから俺の脚を数えていた。


「本当に六本だ」


「疑ってたのか」


「話す個体なら八本くらいあるかと」


「増やすな。俺も扱いきれてない」


「二本くらいなら減らせます?」


「減らすな! 商売道具だ!」


 ブラムが依頼書を開いた。


「蝙蝠洞窟の風鳴り蝙蝠を減らす。依頼主は北鉱村。洞窟の向こうにある銀鉱脈へ入れず、三週間採掘が止まっている」


「銀狼の牙だけで十分だ」


 カイルが言う。


「一週間前に入ったD級二組も、そう言った」


 ブラムは二枚の地図を並べた。


 最初の地図には、一本の大きな洞窟が描かれている。


 二枚目には、崩れた天井と行き止まりの印。


「風鳴り蝙蝠は音で位置を探る。洞窟の中で声と足音を返され、前後も上下も分からなくなった。退路の小道は落盤で塞がれ、人間が通れる道は正面だけだ」


「なら、俺たちが正面を突破する」


「それをやって二組が負傷した」


「俺たちはC級だ」


「C級なら、同じ失敗を強く繰り返すのか?」


 カイルが黙った。


 ブラムは俺たちの旗を指した。


「クロニア遊撃隊は、人間が入れない天井裏と亀裂を進める。音と振動を地面から探れる。銀狼の牙には、開けた場所で群れを抑える火力と、人間の負傷者を運ぶ力がある」


「俺たちだけじゃ、蝙蝠の大群と正面から殴り合えない」


 俺は言った。


 認めるところは認める。


 こちらの身体は、靴底より小さい。


 一匹の翼に巻き込まれただけで飛ばされる。


「お前たちだけじゃ、亀裂の向こうが見えない。組めばいい」


「簡単に言うな」


 カイルが身を引く。


 俺の触角が動くたび、その目もわずかに動く。


 本当に怖いらしい。


 さっきは面白がって挑発した。


 だが、怖い相手と洞窟へ入れと言われても、すぐ頷けない気持ちは分かる。


 俺だって転生した朝、自分の脚を見ただけで叫んだ。


 今でも鏡はあまり見たくない。


「なあ、カイル。何が一番嫌なんだ?」


「全部だ」


「全部じゃ約束を作れない。近づかれることか。触られることか。荷物へ入られることか」


「……勝手に見えない場所へ入られることだ」


 声の勢いが少し落ちた。


「子どもの頃、寝床の毛布に虫がいた。払っても払っても出てきた。どこにいるか分からないのが、一番無理だ」


「なるほど」


 笑う話ではない。


 小さな相手は、見失うと怖い。


 俺たちにとっても人間の足は同じだ。どこへ落ちてくるか分からないから怖い。


「なら決めよう。俺たちは許可なく、お前たちの服、荷袋、寝具へ入らない。近づくときは名前を呼ぶ。必ず旗を立てる」


「本当に守れるのか」


「二十八名全員へ伝える。破ったやつは俺が止める」


「大将も破ったら?」


 二号が横から言った。


「お前が止めろ!」


「今、正式な許可を取りました」


 なぜ嬉しそうなんだ。


 俺はカイルを見た。


「代わりに、お前たちは俺たちの合図なしで広範囲の火魔法と煙を使わない。足元で戦うときは、踏み出す前に声を出す。俺たちを持ち上げるときは先に聞く」


「面倒だな」


「俺たちは踏まれたら死ぬ。面倒で済むなら安い」


 ダンが大盾を床へ置いた。


「俺は賛成だ。戦場で味方を見ずに足を出すほうが怖い」


 フィアも頷く。


「治療するときも、触ってよい場所を教えてください。身体の作りが分からないので」


「気門は塞がないでくれ。腹の横にある」


「分かりました。図にしてもらえますか?」


「自分の腹の図を人間へ渡す日が来るとはな……」


 冒険者になると、誇りだけでは守れないものが増える。


 ルッツが手を挙げた。


「質問。食事中は?」


「近づく前に声をかける」


「食卓に上がるのは?」


「小さい台を置く」


「俺たちの飯を食べる?」


「分けてくれるなら喜んで」


「駄目だ!」


 カイルが即答した。


「食事は別だ!」


「そこは譲れる」


 俺たちには人間一皿で百人分ある。


 惜しいが、最初から全部を近づける必要はない。


 ブラムが紙へ規則を書き始めた。


「接近時は呼名。無断侵入なし。広範囲魔法は合図後。移動前に足元確認。食卓は別」


「あと、急に俺へ向かって走るな」


 カイルが言う。


「緊急時は?」


「声を出せ」


「お前が崖から落ちそうでも?」


「声を出してから助けろ」


「注文が多いな」


「お前に言われたくない」


 少しだけ、空気が軽くなった。


 カイルは契約書へ署名した。


 俺は前脚へ青い色粉をつけ、その横へ印を押した。


 人間の名前と、ゴキブリの前脚印。


 不格好な共同依頼が始まった。


     ◇


 出発前の訓練は、ギルドの裏庭で行った。


「カイル、右へ動く!」


 カイルが声を出し、一歩踏む。


 俺たちはその逆側へ走る。


「ダン、盾を置く!」


 大盾がゆっくり下がる。


 ゴキブリ隊が盾の陰へ入る。


「ルッツ、弱い風!」


「弱いってどれくらいだ?」


「俺たちが飛ばないくらい!」


 風が吹いた。


 二十八名全員が飛んだ。


「強い!」


「こんなに弱くしたのに!?」


 壁へぶつかる前にルビーが逆風を当てる。


 俺たちは空中で一塊になり、空の飼葉桶へ落ちた。


 カイルが桶を覗き込む。


「大丈夫か」


「近づくなら名前を呼べ!」


「クロ、大丈夫か!」


「遅い!」


「じゃあ落ちる前に呼べって言うのか!?」


「予知能力もつけてくれ!」


「無茶を言ってるのはお前だ!」


 失敗一回目。


 ルッツの風を、人間の頬ではなく、吊るした糸の揺れで測ることにした。


 二回目。


 糸が少し傾く。


 ゴキブリ隊の触角が揺れる。


 脚は床から離れない。


「これだ!」


「俺のくしゃみより弱いぞ」


「洞窟では、そのくしゃみも予告しろ!」


 三回目は移動訓練。


 カイルたちが五角形に立ち、俺たちは足元を横切る。


 最初は人間側が怖がり、動きが遅すぎた。


 次は速くしすぎて、ダンの靴が俺の赤い外套を踏んだ。


「大将が止まりました!」


「身体じゃない! 外套だ!」


 俺は前へ走り、外套だけが後ろへ残った。


 裸である。


 ゴキブリに服の決まりはない。


 だが、一度外套を着ると、ない状態が急に心細い。


 カイルが剣の鞘で外套を持ち上げた。


「クロ、取るぞ」


「今のは合格だ」


「お前、意外と面倒だな」


「お前ほどじゃない」


 四回目。


 人間の足音と二号の金属管が同じ拍を刻む。


 右へ一歩。


 左へ二歩。


 盾を置く。


 風を送る。


 俺たちは隙間を走る。


 一匹も踏まれない。


 一人も足を止めない。


 そこでブラムが、何も言わず木の球を投げ込んだ。


 俺たちには岩、人間には足を取る障害物だ。


 球はカイルの踵へ転がる。


 カイルは反射的に横へ避けかけた。


 避けた先には、五号と六号がいる。


 靴が空中で止まった。


 「五号、六号、動くな!」


 名前を呼び、身体を後ろへ倒す。


 その背をダンの大盾が受け止めた。


 同時に俺たちは球へ飛びつき、六匹がかりで進路を変える。


 木の球はカイルの反対側を抜け、壁へ当たった。


 誰も踏まれない。


 カイルも転ばない。


 「抜き打ち試験だ」


 ブラムが平然と言う。


 「先に言え!」


 俺とカイルの怒鳴り声が重なった。


 顔を見合わせる。


 「真似するな」


 また重なった。


 ギルドの裏庭が笑い声で揺れた。


 訓練を見ていた新人冒険者たちから拍手が起きた。


 カイルは気まずそうに剣の柄を撫でた。


「悪くない」


「声が小さい」


「聞こえただろ」


「ゴキブリは褒め言葉をよく拾うんだ」


「さっきまで振動で聞くと言ってたぞ」


「都合よく使い分ける」


 カイルが、ほんの少し笑った。


     ◇


 翌朝、合同隊は北鉱村へ出発した。


 銀狼の牙が街道を歩く。


 クロニア遊撃隊は、専用の小型荷車でその横を走る。


 チュウタが車を引き、ガーロ隊が交代し、ルビー隊が追い風を送る。


「人間の荷袋へ入らない約束だから、自分たちで運ぶことにした」


 俺が言うと、ダンが小型荷車を見下ろした。


「荷物だけなら、俺の盾へ固定してもいいぞ」


「いいのか?」


「許可を聞いた。問題ない」


 俺たちの保存食と工具箱が、大盾の裏へ結ばれた。


 小型荷車は一気に軽くなる。


「人間、便利だな!」


「感想が荷運び道具じゃねえか」


 チュウタが笑う。


 昼食は、約束通り別の台にした。


 銀狼の牙は肉と黒パン。


 俺たちは薄切り茸と麦の香り焼き。


 香樹種の匂いが風へ流れる。


 ルッツの鼻が動いた。


「そっち、うまそうだな」


「食卓は別だぞ」


「別の食卓に、分けてもらうのは?」


 カイルがこちらを見る。


 全員の視線が集まる。


「……俺たちの皿へ持ってくるなら、別だ」


「契約に反しないな!」


 香り焼きを一片、人間側の皿へ運ぶ。


 銀狼の牙の五人で分けても、一口にもならない。


 それでもルッツは目を見開いた。


「うまい!」


「一粒の香料で百二十人分だ」


「俺たち、一粒以下を食ったのか」


「身体が大きいと大変だな」


「今まで一度も同情されたことのない理由だ」


 笑い声が街道へ広がった。


 カイルは最後まで食べなかった。


 だが、皿を遠ざけもしなかった。


 北鉱村へ着いたのは夕方。


 風鳴り蝙蝠の洞窟は、村の裏手に黒い口を開けている。


 入口へ近づくだけで、きぃん、と耳の奥が痛む音がした。


 人間たちが顔をしかめる。


 俺たちの触角は、音だけでなく空気の震えを拾った。


 一つの鳴き声が壁へ当たり、十にも百にも増えて返ってくる。


「これは迷うな」


 カイルが呟いた。


「声を出せば、自分の場所を見失う」


「なら、声以外で話す」


 二号が金属管を軽く叩いた。


 こん。


 洞窟の奥から、こん、と返った。


「今のは反響?」


 フィアが聞く。


 二号の触角が下がった。


「違います」


「何が違う」


「私が叩いた音より、一拍多い」


 こん。


 こん、こん。


 今度は、はっきり二回返った。


 俺たちは何も叩いていない。


 洞窟の暗闇が、こちらの合図を真似している。


 カイルの手が剣へ伸びた。


「クロ」


 名前を呼んでから、足を半歩後ろへ下げる。


「床を頼む」


「カイル」


 俺も名前を呼び、触角を洞窟へ向けた。


「頭の上を頼む」


 最悪の挨拶から始まった合同隊は、ようやく同じ暗闇を見た。


 その天井で、何百枚もの翼が一斉に開いた。

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