錬金術師の地下室
正式な冒険者になって最初に襲われたのは、魔物ではなかった。
洗濯物だった。
「うわぁぁぁ! 旗が! 俺たちの旗が食われる!」
半透明の青い塊が、クロニア遊撃隊の小旗へ覆いかぶさっている。
昨日つけてもらったばかりの白い紐が、ぶるん、とその腹の中で揺れた。
いや、腹かどうかは知らない。
どこを見てもぷるぷるだから、あいつらには前も後ろも腹もないのかもしれない。
「大将、落ち着け! まだ食われてねえ!」
「透けて見えるから余計につらいんだよ!」
俺は床を蹴った。
六本脚なら加速は速い。人間の指ほどもある水滴を飛び越え、青い塊の横腹へ体当たりする。
ぶにゅっ。
「むぐっ!?」
弾き飛ばすつもりだった。
俺の上半身が埋まった。
冷たくて、ぬるくて、甘い薬草の匂いがする。前脚を引けば粘液が糸を引き、後ろ脚で踏ん張れば腹までずぶずぶ沈んだ。
気門に膜が張りつく。
まずい。
水ほど一気には入ってこないが、息の通り道がじわじわ塞がれる。
「助けろ! こいつ、旗の次に俺を洗う気だ!」
「汚れ扱いは正しいと思います」
「二号! 正論は引っ張ってからにしろ!」
後脚を二号と三号に掴まれた。
チュウタが床へ爪を立て、その尻尾に四号たちがしがみつく。
「せーの!」
ずぼんっ!
俺は抜けた。
旗も一緒に抜けた。
俺と旗は床を滑り、薬瓶の箱へ頭から突っ込んだ。
「取った!」
「大将、白い紐が青い」
「洗えば戻る!」
「洗った結果がこれでは?」
「今日は二号が鋭すぎる!」
地下室の入口で、女錬金術師マルタが手を叩いた。
「すごい! 一匹目、確保!」
「確保したのは旗です!」
青い塊は何事もなかったように、棚の下へぷるんと逃げていった。
確保できていなかった。
正式冒険者としての初仕事は、開始三十秒で成果なし、旗はべたべた、大将もべたべたである。
白い紐だけが誇らしげに青く光っていた。
返してくれ、昨日までの俺たち。
◇
「依頼内容を、もう一度確認しよう」
俺は木箱の上で触角を拭きながら言った。
場所は冒険者ギルドの裏通りにある錬金工房、その地下室。
依頼主は若い錬金術師マルタ。
赤毛を頭の上で丸め、革の前掛けに大小十九個のポケットをつけている。今朝ギルドへ飛び込んできたときは全身を粘液まみれにしていたが、着替えた今も片方の眉だけ青い。
「失敗作の掃除用スライムが十二匹。床、壁、器具の汚れを食べるように作ったけど、増えすぎたので捕獲して外へ出す。倒してもいい。合ってるな?」
「完璧!」
「本当に十二匹だな?」
「昨日数えたときは!」
「今日数えてくれ!」
「狭いところに入られちゃって、私には無理なの」
マルタは悪びれず笑った。
「そこで、小さくて強くて正式登録されたばかりの皆さんです!」
褒め方が露骨だ。
だが、白い紐のついた旗を見ていると、触角の根元がむずむずする。
正式登録されたばかり。
いい響きだ。
「任せろ。十二匹くらいなら、昼飯前だ」
「大将、褒められて判断が軽くなってます」
「分かってる。分かってるが、もう少し気分よく言わせろ」
依頼の報酬は銀貨換算で五枚。
失敗作のスライムは、工房の外へ持ち出せば染み抜き屋が引き取る。
地下室を壊さなければ追加報酬も出る。
注意事項は三つ。
一、奥の赤い棚には触れない。
二、薬瓶を割らない。
三、瓶の中身を混ぜない。
「薬の札は全部ついてるから安心して」
マルタは胸を張った。
見上げる。
棚の瓶は俺たちの二十倍以上の高さに並んでいる。
札の字も、人間が立って読む向きだ。
床を走る俺たちからは、白い板の裏しか見えない。
「読めない」
「え?」
「俺たちの高さからは、一文字も読めない」
「あっ」
マルタの青い眉が上がった。
不安が一匹増えた。
スライムと合わせて十三匹である。
「瓶には触らない。これでいこう」
「大賛成です」
二号が即答した。
探索班を三つに分けた。
俺と二号たちは床板の隙間。
チュウタとネズミ隊は棚の裏。
ルビーと赤翅隊は、柱と天井の通気穴。
殻籠を入口へ十二個並べ、一匹捕まえるたびに蓋へ印をつける。倒すより捕獲だ。売れるものを燃やすほど、俺たちは金持ちではない。
「一匹目、南の樽下!」
「二匹目と三匹目、棚の裏よ!」
「四匹目、天井! なんで天井に貼りついてるの!?」
透明な身体は暗がりで見失いやすい。
だが、俺たちの触角には分かる。
湿った空気。
甘い薬草臭。
床へ落ちる、ぺた、ぺた、という振動。
狭い隙間へ逃げ込まれても、薄い身体をさらに伏せれば追える。
問題は、追いついたあとだった。
「五匹目、右へ行った!」
「右って誰の右ですか!」
「俺のだ!」
「見えません!」
「じゃあ甘い匂いのほう!」
「どこも甘いです!」
俺たちは大騒ぎで走った。
スライムが板の隙間から跳ねる。
二号が殻籠をかぶせる。
三号が蓋を差し込む。
四号と五号が左右から紐を締める。
六号が得意げに印をつけ――間違えて俺の背に一本線を引いた。
「俺は捕獲済みじゃない!」
「動くからです!」
「スライムも動いてるだろ!」
一時間後。
殻籠が九個、ぷるぷる揺れていた。
捕まえたスライムは九匹。
俺の背の捕獲印は二本に増えていた。
「あと三匹!」
残った連中は、赤い棚の真下へ集まっていた。
触角を向けると、床板の奥から小さな震えが三つ返ってくる。
マルタが人間用の捕獲網を持ち上げた。
「棚を動かそうか?」
「薬瓶が落ちるから駄目だ!」
「じゃあ床板を剥がす?」
「工房を壊すなって自分で言っただろ!」
「難しいね、冒険者って」
「依頼主の注意事項に依頼主が負けるな!」
「じゃあ提案。棚も床も壊さず、瓶にも触らず、スライムだけ説得する?」
「言葉が通じるならとっくにやってる!」
俺たちは赤い棚から距離を取り、作戦会議を始めた。
スライムは汚れを食べる。
ここまで捕まえた九匹は、床へ垂らした油や果汁に寄ってきた。
しかし残り三匹は賢い。仲間が捕まるのを見て、こちらが置く餌を警戒している。
「もっと好きなものを出すしかねえな」
チュウタが荷袋を抱えた。
嫌な予感がした。
「まさか」
「昨日買った砂糖だ」
「駄目だ!」
俺とチュウタの声が重なった。
「いや、俺が言うなら分かる。なんで持ってきたお前が言うんだ」
「これは祝宴の残りだぞ! 子どもらに砂糖茸を食わせるんだ!」
「俺だって楽しみにしてる! だが正式冒険者の初仕事を成功させたら、追加で買える!」
「失敗したら?」
「俺が謝る!」
「謝罪は甘くねえんだよ!」
その通りだった。
だが、他に餌はない。
チュウタは米粒ほどの砂糖を一粒だけ割り、欠片を床へ置いた。
俺たちにとっては宴の山だ。
甘い匂いが地下室へ広がる。
板の隙間から、青い頭が一つ覗いた。
二つ。
三つ。
「来た」
全員で息を殺す。
スライムたちは、ぺたり、ぺたり、と慎重に近づいた。
一匹が砂糖へ触れる。
透明な身体の中へ、白い欠片が沈んだ。
次の瞬間。
「速っ!」
三匹が一斉に砂糖を奪い合った。
身体が伸び、重なり、床を滑る。
俺たちの殻籠が上から落ちた。
一匹目、捕獲。
二匹目、捕獲。
三匹目は籠の縁を潰して逃げた。
「そっちだ!」
俺が追う。
二号たちが続く。
チュウタが前へ回り込み、砂糖の袋を盾にした。
「来るな! これは子どもらのだ!」
スライムの速度が上がった。
「隠せ! 見せたら余計に来る!」
「どこへだよ!」
「棚の下以外ならどこでも!」
チュウタが荷袋を背負い直す。
結び目がほどけた。
砂糖の粒が、ころん、と床へ落ちた。
全員が止まった。
「……今のは、大粒だな」
「言うな」
白い粒は床を転がった。
赤い棚の脚に当たった。
逃げたスライムが飛びつく。
勢い余って棚の脚へ激突した。
ぐらり。
頭上で瓶が鳴った。
俺の触角が、嫌な揺れを拾う。
「全員、離れろ!」
一本の細い瓶が棚から落ちた。
ルビーが風を放つ。
瓶は横へ逸れた。
「よし!」
横の瓶へぶつかった。
「よくない!」
二本目が落ちる。
チュウタが跳び込み、尻尾で受け止めた。
「止めたぞ!」
尻尾がしなった。
瓶は俺のほうへ飛んだ。
「こっちへ渡すな!」
前脚と中脚で抱える。
重い。
俺の身体より太い瓶だ。六本脚を床へ広げても、勢いを殺しきれない。
背後には捕獲籠がある。
中の十一匹が、ぷるぷる震えている。
ぶつければ籠が割れる。
「右、空けます!」
二号の声を聞いて、俺は身体を捻った。
瓶を右へ転がす。
割れなかった。
「危なかった……」
安堵したとき、最後の一匹が俺の腹の下を抜けた。
青い身体が瓶へまとわりつく。
俺が掴むより先に、瓶は粘液の中へ沈んだ。
栓が抜けた。
金色の液体が、スライムの中へ流れ込む。
「マルタ! これは何だ!」
「どの瓶!?」
「金色! 札は裏!」
マルタが棚の向こうから覗き込む。
「成長促進薬!」
「一番飲ませちゃいけないやつだろ!」
スライムが膨らんだ。
拳ほどだった身体が、人間の頭ほどになる。
俺たちから見れば、青い丘だ。
「捕まえるぞ! でかくなった分、見失わない!」
やけくそで叫んだ。
ルビーが風を叩きつける。
チュウタが土の輪を盛り上げる。
俺の雷を床へ走らせ、退路を塞ぐ。
三方向から押された巨大スライムは、残った一方向へ逃げた。
赤い棚へ。
「そっちは駄目だぁぁ!」
スライムが棚へぶつかる。
今度こそ、棚が傾いた。
赤い札のついた太い瓶が二本、ゆっくり倒れる。
俺は走った。
届かない。
ルビーの風も、さっきの救助で向きが乱れている。
マルタが手を伸ばす。
一本は掴んだ。
もう一本が落ちた。
がしゃん!
赤い液体が床へ広がる。
「今度は何だ!」
「熱変換液!」
「だから一番下へ置くな!」
「危険だから赤い棚にまとめたの!」
「棚ごと危険になってる!」
熱い蒸気が立ち上った。
腹の下が焼ける。
俺は跳び、六本脚をばらばらに動かして着地した。
青い巨体が赤い液体を吸った。
ぼこっ。
ぼこぼこっ。
透明だった身体の中心へ赤い筋が走る。
捕獲籠の十一匹が、その熱へ向かって一斉に身体を押しつけた。
「まずい、蓋を押さえろ!」
俺たちが紐へ飛びつく。
籠の隙間から青い粘液が糸のように伸びた。
巨大スライムへ届く。
一匹、籠の外へ吸い出された。
二匹。
三匹。
「分裂じゃない!」
二号の触角が震えた。
「合体してます!」
「聞きたくなかった!」
十二匹のスライムが、一本ずつ青い帯になってつながっていく。
殻籠が空になった。
蓋につけた十一個の印だけが残った。
青い塊は樽ほどに膨れ、まだ止まらない。
棚を飲み込む。
木箱を包む。
割れていない薬瓶まで身体の中へ取り込み、金、紫、緑の光を腹の奥で明滅させる。
俺たちは入口へ走った。
床が粘つく。
脚先の爪が一歩ごとに取られる。
薄い身体で隙間を抜けるのは得意でも、床そのものが敵になると話が違う。
「大将、先へ!」
二号が俺の後脚を押した。
「全員一緒だ! 番号!」
「二!」
「三!」
「四!」
返事を数える。
赤翅隊が頭上を飛ぶ。
ネズミ隊が粘液へ板を置く。
最後尾のチュウタが砂糖袋を抱え、泣きそうな顔で走っている。
「俺のせいだ!」
「瓶を右へ投げたのは俺だ!」
「風で二本目に当てたのは私よ!」
「今は反省会じゃねえ!」
俺は叫び、入口の階段へ跳んだ。
背後で、重い音がした。
地下室の扉が青い粘液に飲まれた。
階段の半分まで、巨大スライムがせり上がってくる。
マルタが上から鉄扉を閉めた。
どんっ!
扉が膨らむ。
蝶番がきしむ。
「閉じ込めた?」
ルビーが息を切らした。
「いや」
俺は青い粘液にまみれた触角を向けた。
扉の下の隙間から、細い青い糸が伸びている。
それは床の埃を舐め取りながら、ゆっくり太くなっていた。
「閉じ込められたのは、たぶん俺たちの報酬だ」
マルタが指を折る。
「成長促進薬、熱変換液、強化膠、色変わり水、あと……あの棚には何があったっけ」
「思い出すな! これ以上育てるな!」
鉄扉の向こうで、何かがごぽんと鳴った。
天井板が持ち上がった。
正式冒険者としての初仕事。
対象は、掃除用スライム十二匹。
現在、超巨大スライム一匹。
違反した注意事項は三つ全部。
追加報酬どころか、工房一軒を弁償する勢いである。
こんなはずではなかった。
だが、俺たちが大きくしたなら、俺たちが小さくする。
逃げてギルドへ泣きつくのは、それからでも遅くない。
「全員、無事だな?」
返事が重なる。
旗の白い紐は青いまま。
チュウタの砂糖袋は半分になった。
二号の頭には小さなスライムの欠片が乗っていて、本人が動くたびに偉そうに揺れている。
「笑うなよ」
「まだ笑ってない」
「大将の触角、一本だけ固まってます」
「お前こそ青い王冠をかぶってるぞ」
全員が互いの姿を見た。
一秒、黙った。
そして、腹を抱えて笑った。
「ひどい初仕事だな!」
「まだ終わってません!」
「だから笑えるうちに笑っとくんだよ!」
鉄扉が、もう一度大きく膨らむ。
笑いを止め、俺たちは並んだ。
失敗はでかい。
敵もでかい。
こちらは相変わらず、靴底より小さい。
なら、いつも通りだ。
「第二回作戦会議! 議題は一つ!」
俺は固まった触角を無理やり立てた。
「あの馬鹿でかいゼリーを、十二匹に戻して売るぞ!」
扉の向こうで、地下室いっぱいの怪物が震えた。
今度は、工房全体がぷるんと揺れた。




