水浸しの回収作戦
濁流に飲まれた瞬間、俺は自分が泳げないことを思い出した。
遅い。
思い出すなら水へ入る前にしてくれ、俺の記憶!
「ごぼっ!」
上下が消えた。
冷たい水が背と腹を同時に叩き、六本の脚が何も掴めず宙を掻く。赤い外套が開き、首を後ろへ引っ張った。
目の前を硬貨が流れる。
青い瓶の欠片が回る。
鏡殻ヤドカリの銀色の鋏が、すぐ横を通り過ぎた。
「こんな宝物庫、二度と来るかぁぁ――ごぼぼっ!」
叫んだせいで、さらに沈んだ。
水は気門へ入り込もうとする。
俺の身体が反射的に、腹の横をきゅっと閉じた。
息が止まる。
苦しい。
だが、すぐには水が入らない。
ゴキブリの身体は、俺が知らないところで生き残ろうとしている。
「今だけは感謝する! あとでちゃんと嫌がるから!」
誰に宣言しているのか分からない。
でも言っておかないと、この身体をずっと好きになれない気がした。
流れの中で身体を薄くし、脚を全部たたむ。
水へ逆らえば吹き飛ばされる。
だから正面では受けない。
板のように流れへ沿い、壁が近づいた瞬間だけ脚を開く。
前脚の爪が石へかかった。
中脚。
後ろ脚。
六本全部で、ぬるぬるした壁へ張りつく。
「取った!」
水面へ顔を出す。
「大将!」
ガーロの声が上からした。
巣の天井近く。突き出た金属匙へ、ガーロとバグが掴まっている。二号とトトは、壁に貼られた大きな皿の裏へ逃げ込んでいた。
「全員いるか!」
「二号、トト、バグ、俺!」
「大将もおる!」
五匹。
全員いる。
ひとまず、胸の締めつけが緩んだ。
だが安心できない。
水位が上がっている。
巣の下半分はもう濁流の中だ。床の穴から湧く水と、枝管から押し込む水がぶつかり、空洞の中をぐるぐる回っている。壁へ貼られていた光り物が剥がれ、渦へ吸われていく。
指輪は?
鏡殻ヤドカリの殻を見る。
銀の輪は、まだ一番高いところにある。
ヤドカリ自身は中央の岩へ鋏をかけ、流れに耐えていた。脚が一本ずつ滑っている。このままでは指輪ごと流される。
「大将、先に逃げ道や!」
二号が叫ぶ。
「分かってる!」
枝管の入口は、濁流で塞がった。
入ってきた道からは出られない。
壁の上に小さな空気穴があるが、俺たちの頭一つ分しかない。抜けても、その先がどこへ続くか分からない。
外にはチュウタ、ルビー、ジロ、先生がいる。
二号が壁を叩いた。
カカッ、カァン、カカッ!
緊急合図。
返事はない。
水と石の震動が大きすぎる。
「もっと強く!」
二号が腹を石へ押しつける。
「強くしたら、またくしゃみみたいに暴発するで!」
「今は暴発させろ!」
「言うたな!?」
二号が息を吸う。
空洞いっぱいの水が震えた。
ドゥゥンッ!
低い音が石壁へぶつかり、俺の六本脚から骨まで――骨はないが、気分として骨まで揺れた。
壁の隙間から泥が落ちる。
「強すぎる!」
「大将が暴発させろ言うた!」
「加減はしろ!」
「注文が後から増える!」
だが、壁の向こうから返事が来た。
ごん、ごん。低く二回。
チュウタだ。
こちらの位置へ気づいた。
さらに、細く風が入ってくる。
天井の空気穴からだ。
ルビーが上流側の枝管を見つけたらしい。
「外は動いてる」
ガーロが言う。
「我々も動くぞ、大将」
「ああ」
救助を待つだけではない。
外から水を抜く道を作るなら、内側から流れを誘導する必要がある。
巣の壁を触角で探る。
石。泥。苔。金属片。
下流側の壁だけ、冷たい。
向こうに空間がある。
しかも中央の青緑色の魔石から、弱い水の魔力が出ていた。
この石が水を集め、鏡殻ヤドカリの巣を湿らせていたのだ。夕刻洗浄の水まで引き寄せ、渦を強くしている。
「魔石を外せば、水圧が少し下がるかもしれない」
先生はいない。鑑定はできない。
でも、触角の先へ来る魔力の震えは、枝管の水と同じ速さで脈打っている。
「大将、魔石は水の底や」
二号が言う。
「俺が行く」
「駄目だ」
ガーロが即座に止めた。
「さっき泳げず流された者が、一匹で潜るな」
「でも一番薄い俺なら、渦の下へ入れる」
「なら、紐をつける。戻すのは我々だ」
反論できない。
一匹で格好よく、はもうやめたはずだ。
「分かった。命綱を」
二号とトトが買った細紐を俺の胴へ巻く。赤い外套は外し、ガーロへ預けた。
「必ず返せよ」
「命と布、どちらを?」
「両方だ!」
「承知」
ガーロの返事が少し笑っていた。
俺は壁から脚を離した。
水へ落ちる。
冷たさが全身を包む。
気門を閉じる。
紐が背中へ伸びている感触を確かめ、渦へ身体を沿わせた。
下へ。
もっと下へ。
青緑の光が大きくなる。
魔石は人間の拳ほど、俺の全身より大きい。周囲へ銀の細線が絡み、巣の床へ固定されていた。
持てない。
また重さだ。
「この世界、重い物しか置いてないのかよ!」
水中なので、泡しか出ない。
持つ必要はない。
固定を外せば、浮くか、転がる。
ガーロから借りた鎌脚の小刃を、銀線の下へ入れる。
一本。
二本。
硬い。
息が苦しい。
胸が熱く、脚の先が痺れてくる。
紐が一度引かれた。
戻れという合図。
まだだ。
あと一本。
俺は首を振る。水の中で見えるわけがない。
また紐が引かれる。
仲間が待っている。
無理をすれば、指輪より先に俺が回収対象になる。
悔しい。
歯を食いしばり――歯はない。ないものが多いな、俺!
刃を引き、戻ろうとした。
そのとき、鏡殻ヤドカリが水中へ飛び込んできた。
鋏が魔石の銀線を挟む。
がちんっ!
最後の一本が切れた。
魔石が浮く。
ヤドカリは自分の巣を守ろうとしただけだろう。
だが、助かった。
「お前、やるじゃないか!」
ヤドカリには伝わらない。
俺は殻の指輪を見た。
今なら取れる。
でも手を伸ばせば、ヤドカリは鋏を向ける。
代わりに、浮いた青緑魔石を押した。
魔石は指輪より大きく、強く光る。
ヤドカリの目が魔石へ向いた。
殻から指輪を剥がし、魔石へ貼り替えようと鋏を伸ばす。
その瞬間、俺は指輪へ飛びついた。
銀の輪へ前脚を通す。
でかい。
俺には腰輪どころか、門だ。
持ち上げられないので、身体を輪へ通し、四本の脚で内側を抱える。
「取った!」
紐を三回引く。
回収の合図。
上で仲間たちが引いた。
俺の身体と指輪が、水中を一気に上がる。
鏡殻ヤドカリが追ってくる。
鋏が外套のない背を掠めた。
次の瞬間、俺は水面へ飛び出した。
「ぶはっ!」
「大将!」
ガーロたちが俺と指輪を引き上げる。
壁の上へ転がった。
息をする。
気門が開き、冷たい空気が身体中へ入る。
「生きてる! 指輪もある!」
「魔石は?」
「ヤドカリが持ってる!」
水中を見る。
鏡殻ヤドカリは青緑魔石へしがみつき、満足そうに鋏で殻へ固定していた。
「あれは置いていくか」
「いや」
先生の声が、空気穴から聞こえた。
「その魔石が枝管の水を引き続けます。外せたなら、巣ごと下流へ流す前に回収したほうがよい」
「先生、聞こえてたのか!」
「二号殿の声は排水溝三本先まで聞こえています!」
「音量、成功や!」
「耳があったら塞いでいます!」
外から掘削音が近づく。
ごっ、ごっ、ごっ。
チュウタ隊が下流側の薄い壁へ到達した。
「大将! そっちから一発、雷をくれ!」
「何にだ!」
「壁の薄い場所へ!」
俺は触角で冷気の漏れる亀裂を探し、微弱な雷を流した。
ぱちぱちっ。
土の向こうでチュウタが位置を掴む。
「そこだ! 全員、壁から離れろ!」
どすっ。
鈍い衝撃。
もう一度。
どごっ!
石の間の泥が崩れ、小さな穴が開いた。
水が、しゅるるるっ、と穴へ吸い込まれる。
チュウタが掘った迂回排水路へ流れ始めたのだ。
「ルビー、風!」
空気穴から風が吹き込む。
水面を押し、下流穴へ流れを揃える。
二号の音が全員の動きを合わせる。
俺たちは壁へ貼りつきながら、光る物が穴を塞がないよう小さな板で流れを分けた。
水位が下がる。
天井近くから胸、腹、脚へ。
やがて床が見えた。
「排水成功!」
チュウタが崩した壁から顔を出す。
「大将、砂糖二粒!」
「今それかよ!」
「約束は守れ!」
「分かった! 帰ったらな!」
「言質取ったで、二号」
「バッチリ聞いたわ」
「証人まで用意してたのか!」
鏡殻ヤドカリは青緑魔石へしがみついたまま、流れの弱い隅へ避難していた。
俺たちは魔石ごと布で包む。
ヤドカリが鋏を振るが、ルビーが風で布を膨らませ、視界を塞ぐ。ガーロが後ろから紐を巻き、チュウタがそりへ載せた。
「捕獲。指輪も魔石も傷なし」
ガーロが誇らしげに言う。
「また値段を考えてるな?」
「冒険者なので」
「染まりきった!」
帰りはチュウタが掘った迂回路を使った。
人間には入れない。
泥だらけで、曲がりくねり、天井は低い。
だが、俺たちのためだけに作られた帰り道だ。
地上へ出たとき、夜空が見えた。
エステルが排水溝の横で待っている。
俺たちは濡れた旗を立て、銀の指輪を布そりで運んだ。
「あ……」
エステルの目から涙が落ちた。
水滴が俺たちの横へ落ち、絨毯ではなく石畳へ弾ける。
今日は水滴に近づきたくない。
だが、その涙は嫌ではなかった。
「お母様の指輪……本当に」
彼女は直接触れず、俺たちが布から降りるのを待った。それから両手で指輪を包んだ。
「ありがとうございます、クロニア遊撃隊」
最初は俺たちを見て足を上げた人間が、今は名前を呼んで頭を下げている。
胸の中が、くすぐったい。
怖かったことまで、なくなるわけではない。
でも、怖いままでも次は一緒に仕事ができる。
それで十分だ。
ギルドへ戻ると、三件目の完了印が銅札へ打たれた。
こんっ。
三つの印が並ぶ。
ブラムが大きな銅製登録証を持ち上げた。
「薬草採取、穀物庫緊急依頼、紛失物回収。三件とも報告、納品、素材管理まで問題なし」
俺たちの旗へ、正式登録を示す白い紐が追加される。
「本日よりクロニア遊撃隊を、特例E級の正式冒険者部隊として認める」
歓声が上がった。
チュウタが俺を持ち上げる。
二号が歌う。
ルビーが旗を飛ばす。
ガーロ隊が登録証の周りを行進する。
先生の頭蓋骨は、なぜか記念台の上へ置かれた。
「私は表彰品ではない!」
「先生も正式登録!」
「だからといって飾らないでください!」
「乗り心地はどうですか、先生」
「聞くな! そして答えると、悪くない」
「認めた!」
「言い間違えました、忘れてください!」
俺は笑った。
特例でも、虫でも、軍団まとめて一組でも。
俺たちは正式な冒険者だ。
「今日は帰って宴会だ!」
「砂糖二粒!」
「覚えてたか!」
そのとき。
ギルドの扉が、ゆっくり開いた。
紫色の煙をまとった女が入ってくる。
髪は爆発したように広がり、白衣には緑の粘液。片手には、ぷるぷる震える小瓶を持っている。
「ブラム! 地下室が増えた!」
「何が増えたんだ、マルタ」
「スライム!」
女錬金術師マルタは、俺たちを見つけた。
目が輝く。
「ちょうど小さい冒険者がいるじゃない!」
嫌な予感がした。
「地下室の隙間へ逃げた失敗作を、十二匹だけ退治して。簡単だから!」
薬草一本。
あれも簡単と言われた。
俺たちは学んでいる。
「その言葉、信用できない!」
「大将、依頼を受ける前から疑うのは失礼やで」
「疑う理由を先に十件くらい積み上げられたんだよ!」
「せやかて簡単って言うてはるで?」
「その言葉を信じて水路で溺れかけたばかりだろ!」
正式冒険者になった最初の仕事は、錬金術師が笑顔で持ち込んだ失敗作の後始末になった。




