指輪は排水溝の底
貴族の指輪を探す依頼で、最初に踏まれかけた。
「きゃああああっ! 虫!」
「待て! 俺たちは依頼を――って、うわぁぁぁ!」
令嬢の靴が、空から落ちてくる。
白い革靴。
綺麗な刺繍。
そして俺たちには、屋根つきの処刑台。
「散れぇぇぇ!」
俺は右へ。ガーロは左へ。二号は令嬢の裾へ。チュウタだけが、菓子皿の陰へ逃げた。
「そっちは避難じゃない!」
「結果的に安全だ!」
靴底が、ずんっ! と応接室の絨毯へ沈んだ。
柔らかな毛が一斉に倒れ、衝撃が地面ではなく繊維の波になって押し寄せる。六本の脚を取られ、俺は赤い外套ごと転がった。
「痛っ……!」
いや、痛くはない。
絨毯は柔らかい。
だが、五センチの身体へ迫る靴底を見た恐怖は、柔らかさでは帳消しにならない。腹の気門が勝手に閉じ、触角が背中へ張りついた。
人間だったころ、ゴキブリを見て足を上げたことがあった。
あの一秒が、こっちには空が落ちる時間だったのか。
今さら理解したくなかった!
「エステル様、お待ちください!」
オルドが間へ入った。
「その者たちが、指輪を探すクロニア遊撃隊です!」
「えっ」
令嬢の足が止まる。
俺たちも止まる。
菓子皿の陰だけ、さく、さく、と音がした。
「チュウタ!」
「今、静かにしてる!」
「口の中の音がうるさい!」
ベルガの貴族街にある屋敷。
依頼主はエステル・ローデン。栗色の髪を結んだ十六歳ほどの令嬢だ。
昨日、馬車から降りるときに手袋を外し、母親から譲られた指輪を石畳へ落とした。気づいて戻ったときには、指輪は道端の排水溝へ入っていたという。
使用人が格子を外して探したが見つからない。
そのあと、排水溝の奥で何か光る物が動いた。
人間が入れない細い枝管だ。
そこで俺たちが呼ばれた。
「ご、ごめんなさい」
エステルは本当に申し訳なさそうに膝をついた。
顔が近い。
人間の目は、それだけで巨大な鏡だ。俺たちの黒い姿が、小さく映っている。
「ギルドから、皆さんは冒険者だと聞いていたのに。私、その……驚いてしまって」
オルドが訳す。
俺は触角を戻し、前脚を上げた。
怖かった。
腹も立った。
今だって脚の一本が震えている。
でも、彼女は踏まなかった。止まった。そして謝った。
なら、こちらも仕事をする。
「大将、格好ええ顔してるけど、外套が頭へ被ってるで」
二号が言った。
「先に直せよ!」
赤い布を背へ戻す。
決まらない。
本当に決まらない。
エステルが少し笑った。
よし。怖がらせるだけではなくなったらしい。
「指輪の形を見せてください」
オルドが俺たちの意図を伝える。
エステルは紙へ絵を描いた。
銀色の細い輪。上には青い宝石。内側にローデン家の蔦紋。
「母が亡くなる前に、私へくれた物です。値段ではなく、あれでないと……」
途中で声が細くなった。
俺の触角が止まる。
母親の形見。
なくしたままにしたくない気持ちは分かる。
娘が大事にしていた物を落としたら、俺だって道路へ這いつくばって探しただろう。
今は、本当に這いつくばる身体だ。
役に立ちすぎて複雑である。
「必ず見つける」
俺は絵の指輪へ前脚を置いた。
エステルには言葉は聞こえない。
だが、頷きは伝わった。
屋敷前の排水溝へ向かう。
石畳の端に、人間の腕ほどの幅の格子がある。エステルの使用人が一本だけ外してくれていた。
穴から、湿った冷気が上がってくる。
水。苔。泥。古い油。腐った葉。
さらに、金属の匂いが混じる。
「指輪の匂いか?」
ガーロが聞く。
「分からない。金属が多すぎる」
人間の町の排水溝は、地下迷宮とは違う。
釘、硬貨、瓶の欠片、針金、食器の破片。上から落ちた物が全部、水と一緒に集まる。
宝物庫にも見える。
同時に、破傷風の見本市にも見える。
「素手で触るなよ」
「大将、俺たち全身素手やで」
「言うな! 急に怖くなる!」
「手も足も甲殻や。防御力は高いで」
「防御より先に、心の防御をしてくれ」
編成は九名。
俺、ガーロ、二号、ルビー、チュウタ、ジロ、バグ、トト、先生。
ピコはまた留守番だ。
貴重品回収へ爆発の可能性を持ち込む勇気は、まだない。
「二件続けて置いていかれた」と泣かれたので、次の安全な依頼には連れていくと約束した。
俺たちは小さな旗を先頭に、排水溝へ降りた。
壁は湿っている。
爪が石の凹凸へかかり、身体を逆さにしても落ちない。人間なら縄が必要な高さだが、ゴキブリにはただの壁だ。
「こういうときは便利なんだよな」
「大将、嬉しそう」
ルビーが上から言う。
「飛んでる奴に言われたくない」
「私は羽がある」
「知ってる! 百回聞いた!」
底へ着く。
水は浅いが、流れが速い。
人間なら靴底が濡れる程度。
俺たちなら脚の半分まで沈む川だ。
冷たい水が腹の下を撫で、気門へ入りそうになる。脚を踏ん張っても、ぬるりとした苔が滑る。
「赤い外套、濡れるぞ」
ガーロが言う。
「外すか?」
「外さない」
「即答ですな」
先生まで呆れている。
外套を短く巻き、腹より上へ結び直す。
俺たちは流れに逆らって進んだ。
指輪が落ちた場所には、格子の真下から続く細い傷がある。
硬い物が水に押され、石を擦った跡だ。
その先で、傷は不自然に曲がっていた。
「水の流れと違う方向や」
二号が言う。
「誰かが運んだ」
床へ小さな爪跡もある。
四本脚。
さらに、青い光の粉。
先生が粉を鑑定する。
「鏡殻ヤドカリですな。水辺に棲む小型魔物です。光る物を殻へ貼り、異性へ見せる習性があります」
「指輪でおしゃれしてる場合か!」
「本人には人生を懸けた求愛です」
「こっちも正式登録が懸かってる!」
「では互角ですな」
「嫌な互角だ!」
鏡殻ヤドカリは、人間には小型。
俺たちにはチュウタより大きい。
硬い鋏と、鏡のような殻。正面から戦えば傷をつける。指輪が殻へ貼られていたら、壊すわけにはいかない。
「殺さず、殻も砕かず、指輪だけ取る」
ガーロが言う。
「条件が増えたな」
「素材としても傷なしのほうが高い」
「また査定の話か!」
足跡を追う。
途中、光る物が点々と落ちていた。
銅貨。
青い瓶の欠片。
磨かれた釘。
真鍮の釦。
人間がなくした小さな物が、俺たちには巨大な標識になる。
「大将」
チュウタが銅貨を持ち上げようとする。
「動かない」
「知ってる。金貨で学んだ」
「成長したな」
「悔しい成長だよ!」
「今度は五十匹呼ばんでいいだけましやろ」
「その節はお前も数に入ってた」
「数え役やったから除外や」
「ずるいな!」
少し先で、ルビーが翅を止めた。
「右。銀色の輪」
水路の向こう岸。
苔に半分埋もれた細い輪が、青白く光っている。
「見つけた!」
俺は水へ踏み出しかけた。
ガーロが外套の端を咥える。
「大将、流れを見ろ」
「ぐえっ! また首を!?」
「見ろ」
輪との間には、排水の合流点があった。
左右の溝から来た水が中央でぶつかり、白い泡を巻いている。深さは俺の背を越える。落ちれば、どちらへ流されるか分からない。
さっきまで光る足跡を慎重に追っていたのに、指輪らしい物を見た瞬間、頭から全部抜けた。
正式登録。
形見。
必ず見つけると頷いた自分。
欲しい結果が目の前へぶら下がると、六本脚は人間の二本脚より先走るらしい。
「……悪い」
「謝るなら、命令を」
ガーロは俺を責めず、次を待っている。
そのほうが悔しい。
俺は濡れた石を一度、強く掻いた。
「ルビー、向こうへ細紐を運べるか?」
「飛べる。でも水しぶきがある。二号を重しに貸して」
「なんで俺や!」
「一番しゃべるから、落としたら位置が分かる」
「救助方法が雑や!」
二号ではなく、買った小さな鉄片を重しにした。
ルビーが紐を咥えて飛ぶ。水面から跳ねた一滴が翅へ当たり、身体が横へ流れる。
「ルビー!」
「これくらい!」
翅を強く打ち、反対側の壁へ爪をかける。紐を突き出た釘へ二重に巻いた。
こちら側はチュウタが身体へ結ぶ。
一本の空中路ができた。
「ゴキブリ隊、腹を上へ! 脚を四本かけて渡る!」
「腹を上って、格好悪いなぁ」
二号が言う。
「落ちるよりいい!」
俺は紐の下へぶら下がった。
六本脚のうち四本で紐を抱え、残り二本で前へ進む。腹の下では濁流が泡を噛み、冷たい飛沫が気門へ刺さる。
人間だったころ、橋を渡るのに自分の脚の本数を数えたことなどない。
今は一本滑るたび、残り五本が命綱だ。
「六本あってよかった……いや、見た目は今でも納得してないけど!」
「大将、誰に言い訳してるんや?」
「自分だよ!」
全員が向こう岸へ渡った。
銀色の輪へ駆け寄る。
青い宝石は――ない。
蔦紋もない。
錆びた革帯の留め金だった。
「違うぅぅぅ!」
俺はその場へ腹ばいになった。
「命懸けで拾ったのが、ただの輪っか! 何だよ! せめて銀であれよ! どうして錆びてるんだよ!」
「錆びてるから排水溝にあるんやろ」
「正論で傷を深くするな!」
チュウタが留め金の周囲を嗅いだ。
「大将。ここ、さっきの青い粉が多い。それと、ぬるぬるした匂い」
苔を調べると、小さな鋏の跡が残っていた。
鏡殻ヤドカリは、この留め金も拾おうとして、重すぎて諦めたのだ。
足跡は水路ではなく、壁の細い亀裂へ向かっている。
「外れを拾ったおかげで、道は当たった」
ガーロが言う。
「慰めてる?」
「事実だ」
「もう少し優しく言ってくれ!」
俺たちは空中路を戻り、亀裂の方向へ進んだ。
枝管の入口は、石と石の隙間にあった。
幅は人間の指二本ほど。
チュウタは肩がつかえる。
先生の頭蓋骨は当然入らない。
ルビーも翅を広げられない。
「ここからはゴキブリ隊だけだ」
「俺は?」
チュウタが不満そうに言う。
「入口を掘って広げるなよ。上の石畳が落ちる」
「まだ何も言ってない!」
「顔に出てる」
「ネズミの顔で分かるのか?」
「鼻が動いてる」
俺、ガーロ、二号、バグ、トトが枝管へ入る。
薄い身体を横へ傾け、脚をたたみ、腹を石へ擦る。
狭い。
暗い。
背中の外套が引っかかる。
「外せばええやん」
「絶対に嫌だ」
「指輪より外套の回収依頼になりそうやな」
「縁起でもないことを言うな!」
水音が遠ざかる。
代わりに、かち、かち、と硬い物が触れ合う音が聞こえてきた。
光もある。
青、銀、金。
枝管の奥が、宝石箱のように輝いていた。
「巣だ」
鏡殻ヤドカリの巣。
円い空洞の壁一面へ、光る物が貼られている。硬貨、釦、硝子、匙、鍵、宝石の欠片。中央には、青緑色の魔石が淡く光っていた。
その上へ、一匹の巨大なヤドカリがいる。
殻は光る破片で覆われ、動くたび壁へ色が散った。
そして殻の一番高い場所。
青い宝石のついた銀の輪があった。
「指輪!」
見つけた。
今度は迷わなかった。
歩く探し物の行き先を、ちゃんと見つけた。
胸が跳ねる。
あと一つ。
あれを持ち帰れば、三件目が終わる。
俺たちは正式な冒険者になれる。
「作戦は?」
ガーロが聞く。
「まず、もっと光る物で気を逸らす」
「持ってる?」
二号が首を傾げる。
俺たちは互いを見る。
赤い布。
黒い殻。
煤板。
鎌脚包丁。
光る物がない。
「冒険者証」
バグが言った。
入口へ置いてきた小さな旗には、大きな銅板が結ばれている。
「あれを囮にしたら、登録証ごと奪われる!」
「正式登録前に身分を失う作戦やな」
「却下!」
そのとき、鏡殻ヤドカリが動いた。
ぎらり。
殻の破片へ、俺たちが映る。
見つかった。
「来るぞ!」
ヤドカリが鋏を振り上げる。
狭い空洞で、逃げ道は背後の枝管だけ。
鋏が壁へ叩きつけられた。
ガギィンッ!
硝子と硬貨が震え、青い魔石が強く光る。
その瞬間。
ごぼっ。
床の穴から、水が噴き出した。
「何だ!?」
遠くで鐘が鳴る。
夕刻の排水洗浄を知らせる鐘。
地上で大きな水門が開いた。
ごごごごご……。
低い唸りが、枝管の奥まで迫ってくる。
巣の入口から、濁った水の壁が見えた。
「大将!」
「全員、壁へ登れ!」
次の瞬間。
排水溝いっぱいの濁流が、鏡殻ヤドカリの巣へ流れ込んだ。




