穀物庫の食い荒らし犯
東穀物庫へ入った瞬間、麦の山がこちらを見た。
「……大将」
「言うな」
「麦に目ぇ生えてるで」
「分かってる!」
黄土色の粒が積み上がった山。
その表面で、黒い点が一つ、二つ、三つ。
ぱちり。
一斉に開いた。
麦粒だと思っていたものが、かさかさかさっ! と脚を伸ばした。
「気持ち悪っ!」
俺が叫ぶ。
「大将が言うん!?」
二号の突っ込みが飛んできた。
「自分がゴキブリでも気持ち悪いものは気持ち悪いんだよ!」
殻虫の群れが、穀物の山から崩れ落ちる。
硬い背は麦と同じ色。丸い身体を縮めれば、完全に一粒の穀物だ。だが脚を出した状態では俺たちの倍近い。顎は短いが太く、噛んだ麦を殻ごと砕いている。
「退けぇぇぇ!」
俺たちは入口の板の下へ飛び込んだ。
殻虫の波が頭上を通る。
ごろごろ、ざらざら、かりかりかり。
何百本もの脚が床板を引っ掻き、その震動が腹へ刺さった。湿った麦の匂い、殻虫の酸っぱい体臭、粉の乾いた刺激が触角へ一度に流れ込む。
「薬草一本の次が、これかよ!」
「冒険者、大忙しやな!」
「ちょっとくらい休ませろ!」
東穀物庫は、ベルガの城壁近くに建つ巨大な石造りの倉だった。
人間の冬越し用麦、豆、乾燥芋、家畜の飼料が保管されている。
その半分を、殻虫が食い荒らしていた。
「昨日の点検では、袋が二つ破れていただけなんだ!」
管理人のホードが、入口の外から叫ぶ。
「今朝来たら、床が動いていた!」
「床が動くまで気づかなかったのか?」
俺の声は届かない。
オルドも今回はいない。さっき薬草の納品を終えたばかりで、月雫草を薬師の畑へ植え直している。
人間との連絡は、依頼札の絵と、二号の音、ギルドから借りた色板だけだ。
赤を上げれば危険。
青なら水。
白なら袋を開けろ。
黒なら閉めろ。
そして黄色は――。
「食べられる物、やったな?」
二号が黄色板を上げる。
外の管理人が、別の麦袋を持ってこようとした。
「違う! 今は腹が減ったという意味じゃない!」
「せやけど減ったやろ?」
「減ったけど!」
伝達方法に致命的な欠陥がある。
俺は二号から黄色板を奪い、地面へ伏せた。
「まず群れの数と巣を探す。勝手に食うな。麦に化けた虫を食ったら腹の中から噛まれるぞ」
「見分けてから食えば?」
チュウタが言う。
「依頼先の麦だ!」
「一粒くらいなら」
「その一粒が俺たちの一食分なんだよ!」
「なおさら大事に食べないと」
「食べる前提を捨てろ!」
「じゃあ匂いだけ嗅いで我慢する」
「それも駄目だ、涎が垂れてる!」
「これは決意の汗だ!」
「涎に決意はない!」
馬車酔い、薬草探し、空飛ぶ葉そり。朝から動き続け、全員の腹が減っている。よりによって周囲は食べ物の山だ。
匂いだけで腹が鳴る。
ゴキブリの身体は正直すぎる。人間だったときは、空腹を顔に出さないくらいできた。今は触角が麦へ向き、口の器官が勝手に動き、六本の脚が美味しそうな粉の上へ進もうとする。
「俺まで食べたくなってる……!」
「ようこそ」
チュウタが胸を張る。
「お前の側へ行った覚えはない!」
殻虫をただ潰すだけなら、人間にもできる。
倉ごと火をつければ、たぶん全部倒せる。
だが麦もなくなる。
毒を撒けば早いが、食べ物へ毒が残る。
袋を全部捨てれば安全だが、冬に人間と家畜が飢える。
依頼は討伐。
でも本当の目的は、食べられる穀物を残すことだ。
「三班に分かれる」
俺は床の麦粉へ図を描いた。
「ルビーと二号は天井から、どの袋が動くか見る。チュウタとジロは床下の巣。ガーロと俺は袋の中へ入る」
「大将、俺も袋へ」
チュウタが言う。
「お前は麦を食う」
「食わない!」
「さっき一粒くらいと言った」
「過去の俺と今の俺は違う!」
「三十秒で改心するな!」
ガーロが俺とチュウタの間へ入る。
「大将、チュウタの嗅覚は床下で必要だ。袋の中には我々が行く」
「分かった」
「聞き分けがよすぎて寂しい!」
「どうしろっていうんだよ!」
俺とガーロ、バグ、トトは、破れた麻袋の縫い目へ入った。
暗い。
そして、狭い。
いや、袋は広い。中は麦粒が積み重なる洞窟だ。だが粒と粒の隙間は、俺の薄い身体がぎりぎり通れる幅しかない。
背を押され、腹を擦り、六本の脚を一本ずつ別の粒へかける。
上から麦の重さがかかる。
人間だったら、腕一本すら入らない。
今の身体なら通れる。
通れるが、怖くないわけではない。
一粒がずれれば、周りの何十粒も動く。隙間が消えれば、薄い腹ごと押し潰される。前も後ろも見えず、触角の先だけが暗闇を探る。
「俺はなぜ、自分から食べ物の下敷きになってるんだ……!」
「大将、前から来る」
ガーロの声が低くなる。
かりっ。
かり、かり。
暗闇で、何かが麦を噛んだ。
目は役に立たない。
触角を伸ばす。
麦は乾いた土と日差しの匂い。
殻虫は酸っぱい脂と、古い水の匂い。
右上。
「伏せろ!」
黄土色の顎が、麦の隙間から飛び出した。
がちんっ!
俺の触角の先、髪一本ぶんの距離で閉じる。
「近い近い近い!」
後ろへ下がれない。ガーロたちがいる。
横にも逃げられない。麦だ。
上へ行けば重さで潰れる。
なら、前だ。
顎が開く瞬間、俺は殻虫の下へ潜った。薄い腹を麦へ擦り、脚を縮め、硬い顎の付け根をくぐる。
ゴキブリでよかった。
いや、こういうときだけだぞ!
普段はもっと手とかほしい!
殻虫の腹へ雷を流す。
ぱちぱちっ!
虫が丸くなった。
麦粒と同じ姿になる。
「倒した?」
「違う。気絶しただけだ!」
丸くなると、匂いまで薄くなる。
これでは人間が見分けられないはずだ。
ガーロが殻を叩く。
こん、こん。
「硬い。白炎殻ほどではないが、刃物の柄や小盾にはなる」
「まだ倒してないのに査定するな!」
「冒険者らしく」
「そこだけ覚えるのが早い!」
袋の奥へ進む。
殻虫が食べた麦には、小さな穴が開いている。さらに、薄緑の粉がついた粒があった。
先生から借りた鑑定紙を触れさせる。
紙が紫に変わった。
「毒じゃない。カビだ」
食べられない穀物は、殻虫に齧られた物だけではない。
袋の底へ湿気が溜まり、カビた粒が広がっている。殻虫は傷んだ麦から食べ始め、そのまま健康な粒へ移ったらしい。
「全部を一緒に出したら、食べられる物まで捨てられる」
「分ける必要があるな」
ガーロが頷く。
「でも大将。この中でどう分ける?」
狭い。
重い。
一粒ずつ運べば、冬が三回来る。
俺は麦の積み重なりへ触角を当てた。
健康な粒は乾いて軽い。
カビた粒は湿って重く、互いに張りついている。
殻虫は刺激を受けると丸まり、麦と一緒に転がる。
違いはある。
「中で分けない。全部を動かして、外で勝手に分かれるようにする」
二号へ音を返す。
低く三回。
袋を開けろ。
外で白板が上がった。
管理人たちが袋の口を開く。
「ルビー、弱い風! 二号、低い音を一定に!」
風が袋へ入った。
麦の隙間を抜け、乾いた粒だけが少しずつ動き始める。
二号の歌が床から伝わる。
「ころころ転がれ、食える麦ぃ、べたべた残れや、腐れ麦ぃ――」
「歌詞が直接的すぎる!」
「分かりやすいやろ!」
振動で殻虫が驚き、丸くなる。
乾いた麦と丸い殻虫が、袋の口へ向かって流れる。
湿ったカビ麦は塊になって底へ残る。
俺たちも流された。
「待て! 勢いが強い!」
ざらざらざらざらっ!
麦の雪崩が背を押す。
六本脚で踏ん張れない。前も後ろも粒。身体が浮き、黄土色の濁流へ飲まれる。
「大将!」
ガーロが俺の赤い外套を咥えた。
外套が首へ食い込む。
「苦しい! 助かるけど苦しい!」
「外套を捨てろ!」
「嫌だ!」
「命と布、どっちが大事だ!」
「命だけど、これはリリアが似合うって――」
「では咥えておく!」
「分かってくれるのかよ!」
ガーロは前脚二本で麦を掻き、残り四本で隙間を進む。バグとトトが後ろから押す。
袋の口が見えた。
光へ飛び込む。
俺たちは大量の麦と一緒に、選別台へ吐き出された。
どざざざざぁっ!
木の台が低く唸り、黄土色の粒が四方へ跳ねる。
ルビー隊が風を横から当てる。
軽い殻と粉は遠くへ。
健康な麦は中央へ。
丸まった殻虫は麦より重く、手前の溝へ落ちる。
ころん。ころん。ころころころ。
殻虫だけが、一つの桶へ集まっていく。
「いけるぞ!」
俺は麦の山から顔を出した。
「全袋、同じ方法で選別する!」
だが、床下の群れが動いた。
どどどどどっ!
床板が下から波打つ。
チュウタ隊が穴から飛び出した。
「大将! 巣にでかいのがいる! 腹に卵を抱えた女王だ!」
床板が一枚、弾け飛んだ。
ばきんっ!
その穴から、拳ほどの頭が現れる。
殻虫の女王。
身体は俺たちの十倍以上。背には麦袋の繊維と粉を貼りつけ、巨大な穀物の塊に擬態していた。腹の下で、白い卵が何十個も蠢いている。
「あれを逃がしたら、また増える!」
ガーロが鎌脚を構える。
「倉の中で斬るな! 体液が麦へ飛ぶ!」
「ではどうする!」
倒す場所を変える。
女王は音へ反応し、二号を狙っている。腹の卵を守るため、群れの振動源を止めようとしているのだ。
「二号、外へ逃げろ! 女王を引っ張り出す!」
「囮かい!」
「一番目立つのがお前だ!」
「褒め言葉として受け取るで!」
二号が即興歌の音量を上げた。
「こっちやでぇ、麦泥棒ぉ、足遅いなぁ、腹重いなぁ――」
「煽るな!」
女王が怒った。
顎を鳴らし、二号を追う。
床板を踏むたび、どん、どん、と倉全体が揺れた。二号は袋の下をくぐり、木箱の隙間を抜け、入口へ走る。
「大将! あれ、俺より速いで!」
「歌をやめて走れ!」
「やめたら追ってこない!」
「じゃあ歌いながら死ぬ気で走れ!」
「注文が無茶や!」
ルビーが上から風を送り、二号の背を押す。
チュウタ隊が入口の段差を掘り、滑り台にする。
女王が外へ出た瞬間、ジロが黄色板を上げた。
人間たちが大きな空樽を転がす。
ごろごろごろ――ゴォンッ!
樽が女王へ被さった。
中から、がつん、がつん、と殻が木を叩く。
「今だ!」
ガーロ隊が樽の隙間へ入り、女王の脚へ布紐を巻く。チュウタたちが樽ごと土の窪みへ押し込み、人間が上から蓋をする。
討伐ではない。
捕獲だ。
麦へ一滴も体液を飛ばさず、卵ごと封じた。
女王の振動が止まると、残った殻虫たちは動きを鈍らせた。二号の音とルビーの風で袋から追い出し、選別台の溝へ次々集める。
夕方までに、東穀物庫の全袋を確認した。
健康な麦、七割。
殻虫に齧られたが、加熱すれば飼料にできる麦、二割。
カビて処分が必要な麦、一割。
「全部捨てずに済んだ……!」
管理人のホードが、選別された山の前へ膝をついた。
「冬を越せる。人も、馬も」
彼は俺たちへ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
怖いのだろう。
無理もない。さっきまで似た姿の虫が穀物を食っていた。
それでも、手は引っ込まなかった。
大きな指先が、俺の前へ置かれる。
俺は前脚で一度、叩いた。
「ありがとう」
言葉は直接分からなくても、声の震えで分かった。
俺たちは殻虫ではない。
同じ虫に見えるかもしれない。
でも、食べ荒らすのではなく、食べ物を守るために来た。
その違いを、仕事で見せられた。
「大将」
チュウタが俺の横へ来る。
「健康な麦が一粒、落ちている」
「拾って返せ」
「拾った」
「口から出せ!」
「まだ食べてない!」
「口へ入れた時点で駄目だ!」
管理人が笑った。
そして、袋から麦を一掴み出し、小さな皿へ載せてくれた。
「これは追加の礼だ。食ってくれ」
チュウタの目が輝く。
「大将! 仕事で飯をもらった!」
「まだ正式な報酬がある!」
「先に食える報酬が一番だ!」
否定できない。
俺たちは一粒を九つに割って食べた。
乾いている。硬い。少し甘い。
疲れた身体へ、穀物の味が染みた。
「帰ったら焼こう」
ガーロが言う。
「塩も振る」
「砂糖は?」
「チュウタ、お前の頭から砂糖を離せ」
捕獲した女王と殻虫の殻は、ギルドで買い取れるらしい。硬い殻は小型の防具と、薬の容器へ加工できる。
二件目の依頼も完了。
薬草と穀物庫。
戦い方はまったく違ったが、どちらも「壊さず持ち帰る」仕事だった。
俺たちは夕暮れの街を、麦一皿と殻虫入りの樽を載せた荷車で進んだ。
「正式報酬はいくらになるんやろ」
二号が言う。
「金貨は嫌だぞ。重い」
「塩はまだ山ほどある」
「布も四百巻き以上」
「砂糖!」
「お前は黙ってろ!」
ギルドの建物が見えてくる。
入口では受付嬢とブラムが待っていた。
その横に、色とりどりの粉を載せた小皿が並んでいる。
赤、黄、茶、黒。
風に乗って、初めて嗅ぐ匂いが触角へ届いた。
鼻の奥が、むずむずする。
「クロニア遊撃隊」
ブラムが笑った。
「初仕事の報酬、使い道は決まったか?」
俺たちはまだ知らなかった。
香辛料というものは、人間の一つまみでも、ゴキブリ百匹をまとめてくしゃみさせるのだ。




