初めての爆買い
金持ちになった翌日、俺たちの国は塩に潰されかけた。
いや、比喩ではない。
人間用の麻袋から、白い粒が一つ、ぽろりと落ちた。
たった一粒だ。
それが俺たちの前で、石臼くらいの大きさに見えた。
「塩だぁぁぁ!」
チュウタが飛びつく。
「待て! 舐めるな!」
「一粒だけ!」
「お前の一粒は信用できない!」
「では半粒!」
「大きさの問題じゃない!」
「四分の一粒なら誰も損しない」
「割る手間のほうが高くつくわ!」
俺が後ろ脚へ噛みついて引き止めた、その瞬間。
麻袋の縫い目が、ぴしっ、と鳴った。
嫌な音だった。
触角へ乾いた匂いが一気に押し寄せる。袋の腹が膨らみ、縫い糸が一本、二本、毛羽立った。
「全員、袋から離れろ!」
「なぜだ?」
「破れる!」
「塩が増えるぞ!」
「喜ぶな! 雪崩だ!」
ぶつん。
太い麻糸が切れた。
袋の隙間から白い粒が押し合い、次の瞬間、ざざざざざっ! と乾いた濁流になって噴き出した。
「うわぁぁぁぁ!」
俺たちは逃げた。
人間なら調理台へこぼした塩を払うだけだろう。
こっちは違う。
一粒がつまずく岩。十粒で崩れる石垣。百粒なら白い土砂崩れだ。足元を転がる塩の角が脚の節へ当たり、からから、しゃりしゃり、と甲殻を叩く。俺の薄い腹の下へ二粒入り込み、身体が浮いた。
「六本脚なのに足場がない!」
「大将、こっちだ!」
ガーロが布の切れ端を斜めに立てる。俺はその陰へ滑り込んだ。二号が小さな板を盾にし、ルビーは風で幼体たちを後ろへ押し戻す。
チュウタだけが塩の波へ向かっていた。
「お宝ぁぁぁ!」
「あいつを回収しろ!」
「大将、命令に私情が混じってないか!?」
「全部私情だ! 相棒を塩漬けにさせるか!」
ガーロと二号が左右から回り、俺が正面へ走る。チュウタの前脚が塩の粒へ届く寸前、ルビーの風が横から吹いた。
「ぶふっ!」
チュウタが一回転し、俺たちの上へ落ちた。
五匹まとめて布盾の裏へ転がる。
直後。
ざざぁんっ!
塩の波が布へぶつかった。太い繊維が弓なりにしなり、白い粒が頭上から降る。ガーロが六本脚を広げて布を支え、二号が歌の振動で布端を地面へ押さえ、俺は腹ばいになって下の隙間を塞ぐ。
「重い! 塩ってこんなに重かったか!?」
「一粒ずつなら軽い!」
「今は群れで来てるんだよ!」
「塩にも群走指揮が!?」
「そんなものあってたまるか!」
ようやく流れが止まった。
布の陰から顔を出す。
古い貯蔵穴の床に、白い丘ができていた。
俺たちが何十匹並んでも越えられそうにない。丘の向こうでは、袋を運んできた村人が青い顔で口を押さえていた。
「す、すまん! すぐ掃く!」
「待って!」
リリアが村人の箒を止めた。
「この子たちにとっては大切な物だから。土と混ぜないように集めよう」
そう言って、包帯の取れた右手を伸ばす。
一掴み。
白い丘の半分が消えた。
「…………」
俺たちは全員、黙った。
リリアが手のひらの塩を、布を敷いた盆へ移す。
「どうしたの?」
「大将。俺たちの死闘はなんだったんだ」
「考えるな。泣きたくなる」
人間の手は便利すぎる。
いや、俺だって昔は手を持っていた。五本の指で袋を縛り、スプーンで塩を掬い、瓶の蓋をひねっていた。あのころは、そんなことを便利だとも思わなかった。
今は前脚の先に、小さな爪しかない。
握れない。
摘まめない。
汗をかいた手のひらで物を押さえることもできない。
たった一掴みを見ただけで、なくした身体の感覚が急に戻ってくる。胸の奥が、少しだけ狭くなった。
けれど。
「大将、泣いてる場合じゃないぞ!」
ガーロが白い丘へ駆け上がった。
「この山、我々のものだ!」
「そうだ! 国で初めて所有する食べられる山や!」
二号が頂上へ旗を立てる。旗といっても、爪楊枝ほどの木片に、買ったばかりの青い糸を結んだだけだ。
「勝手に山へ名前をつけよう!」
「塩山」
「そのまますぎる!」
「しおしお大峰!」
「弱そう!」
「チュウタ立入禁止峰」
「差別だ!」
胸の狭さが、騒ぎに押し出されていく。
今の俺には、手がない。
その代わり、六本の脚がある。
俺の一掴みが小さくても、仲間百匹の一掴み――いや、一抱えを合わせれば、山だって動かせる。
人間だった俺一人より、ずっと騒がしくて、ずっと時間がかかる。
でも、悪くない。
「山の名前は後だ! まず湿気る前に保管するぞ!」
俺が叫ぶと、白い丘のあちこちから返事が上がった。
「おう!」
「袋を持ってこい!」
「運搬路を空けろ!」
「味見係は?」
「いらない!」
「仕事を奪われた!」
爆買いの本当の恐ろしさは、買った瞬間ではない。
届いた後だった。
塩一袋半。
麻布十巻き。
洗った古着一袋。
鉄線三巻き、銅線一巻き。
鑢、錐、鋸刃、縫い針、木槌、小箱。
薬、油、紐、陶器瓶、薄い金属板。
そして砂糖壺。
古い貯蔵穴へ並べると、人間の荷車一台分の品が、俺たちには新しい町一つ分に見えた。
「どれから運ぶ?」
ガーロが聞く。
「全部だ!」
俺は勢いよく答えた。
ジロが無表情で板を見せる。
『現在の運搬能力では、全部運び終えるまで四十三日』
「……優先順位を決めよう」
「大将、諦めるのが早い」
「四十三日は季節が変わるんだよ!」
まず、薬。
次に、湿気に弱い塩と鉄。
その次に布。工具。油。紐。金属板。
砂糖壺は――。
「一番最初!」
「一番最後!」
俺とチュウタの声が重なった。
「間を取って二番目で」
「取れてない!」
結局、砂糖壺はチュウタが自分で運ぶことになった。
「一人で?」
「俺の幸せだ。俺が背負う」
「格好いいことを言ってるが、それ、人間の親指ほどあるぞ」
「愛は重さを越える」
「物理は越えない」
チュウタは壺へ縄を巻き、腰へ結び、全力で引いた。
壺は動かなかった。
「愛が足りない」
「筋力が足りないんだよ!」
そこへネズミ族の運搬班がやってくる。一匹が壺を両前脚で抱え、ひょいと荷車へ載せた。
チュウタはしばらく黙り、荷車の横を歩き始めた。
「どうした?」
「護衛だ」
「負けを認めろよ!」
貯蔵穴からクロニアまでは、村人が整えてくれた中継路を通る。
最初の区間は人間の手。次はネズミ族の荷車。最後の細い横穴は、ゴキブリ隊が小分けにして運ぶ。
一つの荷物が、大きな手から小さな前脚へ渡っていく。
俺は列の横を走り、匂いと振動を確認した。塩を積んだ荷車は、車輪の軋みがいつもより低い。油壺は揺れるたび中身が遅れて動き、腹へ鈍い波を返す。薬瓶はかちり、かちりと触れ合う。その音が妙に嬉しい。
全部、昨日までなかった音だ。
クロニアへ、新しい暮らしが近づいてくる音だった。
だが、運搬は早くも問題だらけだった。
麻布の巻きが太すぎて、地下門を通らない。
「削るか?」
「布を削るな!」
「門を広げる?」
「支柱が落ちる!」
「では、ほどく」
ルビーが巻きの端を見つけ、風で引いた。
するするするする。
布が廊下いっぱいに伸びた。
止まらない。
「誰か端を押さえろ!」
「端なら今、向こうの曲がり角を越えた!」
「長すぎる!」
布の上へ幼体たちが飛び乗り、滑り台のように流されていく。
「きゃあああ!」
「もう一回!」
「遊ぶな! いや、転ぶな! どっちだ!」
二号が即興で歌い始める。
「布が来たでぇ、町じゅう敷けるでぇ、端っこどこやぁ――」
「歌う前に巻け!」
「巻いたら門を通らん!」
「くそっ、正論!」
結局、布は細い幅へ切って、小さな巻きにし直した。
ここで買った鋸刃と縫い針が、いきなり役に立った。ガーロが白炎殻獣の鎌脚で布をまっすぐ切り、ルビーが風で繊維を飛ばし、ゴキブリ隊が端を揃える。ネズミ族が芯を作り、幼体たちが青い糸で巻きを留めた。
最初の一巻きが完成すると、歓声が上がった。
「一巻きで騒ぐな!」
「でも大将、あと何巻き?」
ジロが数える。
「人間用一巻きを小分けにすると、四百八十七巻き」
「…………」
「やっぱり一巻きごとに騒ごう!」
静かにやったら心が折れる。
塩も同じだった。
人間の袋のままでは地下へ入らない。かといって、山をそのまま運べば散らばる。そこで古着の布を切り、油を薄く塗って湿気止めにし、親指の先ほどの小袋を作った。
人間には一口分。
俺たちには、食堂一日分。
「名前は『一日塩』でどうだ」
俺が提案する。
「『しょっぱ袋』」
「却下」
「『涙の白財宝』」
「二号、長い」
「『チュウタ禁止袋』」
「また差別だ!」
袋の表には、二号が一つずつ青い丸を描いた。青丸一つで食堂一日分。二つなら保存食作り。赤い丸は医療用。幼体にも見分けられる。
小袋が棚へ並ぶ。
白い山が、使える日々へ変わっていく。
俺は前脚で一袋を押した。
少し重いが、今度は動いた。
たったそれだけなのに、胸の内側が熱くなった。
金貨は動かなかった。
人間の袋は俺たちを潰しかけた。
でも、小さく分けて、仲間の体に合わせて作り直せば、自分たちで運べる。
世界の道具が俺たちに合わないなら、俺たちの側で世界を刻めばいい。
「大将、またにやにやしてる」
ルビーが言った。
「触角を見るな!」
「赤い布、つけてるから余計分かる」
俺の背には、昨日選んだ赤い布が巻かれていた。
二号が勝手に結んだせいで、立派な隊長の外套というより、小さな風呂敷だ。走ると端がばたばたし、角を曲がるたび壁に引っかかる。
だが、リリアが似合うと言った。
外す気はない。
絶対にない。
「大将、後ろ!」
「え?」
外套の端が、塩袋の縄へ絡んでいた。
俺が一歩進む。
袋が傾く。
「待て待て待て! また雪崩は嫌だ!」
全員で縄へ飛びつき、ぎりぎりで止めた。
二号が腹を抱えて笑う。
「赤い英雄外套、初仕事は塩泥棒やな!」
「今すぐ結び目を短くしろ!」
「リリア様に似合う言われたから外せんのやろ?」
「うるさい!」
図星を踏み抜くな。
作業は夜まで続いた。
薬瓶は医療所へ。
布は寝床と治療布へ。
鉄線は水門と荷車の補強へ。
銅線はピコの工房へ。ただし一度目に必ず爆発するので、工房の外に厚い土壁を増設した。
鑢と鎌脚を手に入れたガーロは、さっそく小さな包丁を作った。試しに乾燥茸を切ると、すとん、と薄片になる。
ガーロの触角が震えた。
「大将。切れる」
「見れば分かる」
「腕を交代しなくていい」
「今まで本当に大変だったんだな……」
食堂では、その薄切り茸へ、ほんのひとつまみの塩を振った。
香りが立った。
噛む。
茸の甘みが、今までよりはっきりする。
全員が黙った。
危険な沈黙ではない。
味が言葉を追い越した沈黙だ。
「……うまい」
誰かが言った。
そこからは早かった。
「うまい!」
「塩、すごい!」
「茸が別物だ!」
「大将、もっと!」
「一日塩は一袋だ!」
「今日は祝いだろ!」
「その理屈で毎日祝う気だろ!」
砂糖壺も開けられた。
チュウタが壺の横へ座り、厳しい顔で配給する。
「一匹、一粒。二回並んだ者は尻尾で分かるぞ」
「お前が管理するのかよ!」
「愛するからこそ、守る」
昼間、自分で一歩も運べなかった奴が言っている。
それでも配給は公平だった。チュウタは最後に残った一粒を半分へ割り、俺へ寄越した。
「相棒の分だ」
「いいのか?」
「俺は壺の匂いをずっと嗅いでいたから、少し得をした」
「それで満足できるのか?」
「できない。明日は二粒ほしい」
「台無しだよ!」
笑いながら、砂糖を齧る。
甘い。
ほんの欠片なのに、身体の奥まで広がる。
昨日まで、俺たちは村を守るために命を賭けていた。
今日、その命で得たものを、みんなで食べて、使って、笑っている。
戦利品とは、こういうものなのかもしれない。
飾って自慢する宝ではない。
仲間の明日を、昨日より少し楽にする物だ。
「クロ殿」
宴会の入口から、オルドが呼んだ。
人間の顔が、天井近くからこちらを覗く。
「ブラム殿から伝言です。明日の朝、ベルガへ向かうそうです」
俺は触角を立てた。
「冒険者登録試験を受けるなら、荷馬車に乗せていく、と」
食堂が静まった。
次の瞬間。
「行く!」
「俺も!」
「試験って何するんや!」
「戦闘なら任せろ!」
「筆記なら先生を運べ!」
「私を答案用紙にするな!」
全員が立ち上がった。
冒険者。
報酬。
新しい依頼。
知らない街。
胸が跳ねる。
同時に、嫌な予感もした。
「オルド」
俺は板へ質問を描いた。
試験を受けるのは、何匹だ。
オルドが困った顔で答える。
「ブラム殿は……全員、と」
俺は食堂を見回した。
ゴキブリ族、ネズミ族、レッドローチ族、骨人。
登録を希望する者だけでも、百匹を軽く越えている。
しかも全員、今すぐ行く気で荷造りを始めていた。
「待てぇぇぇ! 街へ百匹で押しかけたら討伐依頼が出る!」
初めての爆買いが終わった夜。
クロニアでは初めての冒険者選抜会議が始まり――。
五分で殴り合い寸前になった。




