金貨一枚が重すぎる
「ぬおおおおおおっ!」
ガーロの六本の脚が震える。
金貨は動かない。
「交代だ!」
「任せろ!」
二号が加わる。
動かない。
ルビーが背中を押す。
動かない。
チュウタが前から引く。
「そっちは逆だ!」
「あっ」
俺たちは人間の説教台の上で、金貨一枚を相手に総力戦を行っていた。
昨日は大型魔物を倒した。
今日は金に負けている。
納得がいかない。
「大将、号令を!」
「よし。せーの!」
「「「ぬおおおおおっ!」」」
金貨が、ほんの少し傾いた。
「動いたぞ!」
「押せ!」
「もう少しだ!」
「落ちるぞ」
ブラムの声がした。
「え?」
金貨は説教台の端を越えた。
倒れる。
俺たちの上へ。
「逃げろぉぉぉ!」
六本の脚を全力で動かした。
ガーロは右へ、二号は左へ、ルビーは飛び、チュウタはなぜか金貨へしがみついた。
「乗れば速い!」
「それは崖から落ちる馬車だ!」
「馬車は御者が選べる。お前は選んでない!」
ガーロの正論が飛ぶ。
ゴロン!
金貨が台の上を転がる。
その先にはオルドがいた。
「うわっ!」
彼は慌てて手を伸ばし、親指と人差し指で金貨をつまんだ。
止まった。
俺たち五匹が命懸けで動かした金貨を、二本の指で。
チュウタは硬貨へ張りついたまま、目を輝かせていた。
「もう一回」
「やらない!」
広場が笑いに包まれた。
解体職人まで腹を抱えている。リリアは口元を手で隠していたが、肩が揺れている。娘に笑ってもらえたのは嬉しい。嬉しいが、父親としての威厳は金貨と一緒に転がり落ちた。
「持って帰れねえのか」
ブラムが聞く。
俺は即座に首を振った。
「一枚も?」
さらに強く振る。
「二十四枚あるぞ」
「増やすな。絶望が増える」
俺は鉄箱を覗いた。
金貨二十四枚と銀貨六枚。
昨日までなら、輝く宝の山に見えただろう。
今は、地下道を塞ぐ金属板の山に見える。
一枚運ぶだけで大人五匹。坂道なら十匹。段差で落としたら下にいる者が潰れる。地下の小さな保管庫へ入れても、盗人ではなく床のほうが抜けそうだ。
しかも金属の匂いが強い。触角を近づけると、乾いた冷たさが鼻の奥へ刺さる。食べられない。寝床にもならない。齧って加工するには硬すぎる。人間があれほど目を輝かせる金貨も、俺たちの尺度では、丸くて重くて危険な板だった。
価値とは、ずいぶん勝手なものだ。
見る者の体が小さくなっただけで、宝物が建築資材より扱いにくくなる。
「大将、細かく砕こう」
ガーロが鎌脚を構えた。
「金貨を解体するな!」
「薄く削れば運べる」
「価値も削れる!」
「では溶かして線にする?」
二号が提案する。
「炉がない」
「白炎殻獣の魔石で」
「今、売ったところだ!」
「では次に倒す魔物のために取っておけばよかった」
「そんな都合よく毎回大型魔物が出てたまるか!」
ピコが樽の陰から小さく手を挙げた。
「僕、魔石で動く道具を作ってみたい」
「お前が作る物は一度目に必ず爆発するだろう!」
「二度目は爆発しません」
「一度目で俺たちが死んでる!」
売った金を運ぶために、売った品物が必要になる。
世の中は難しい。
ブラムが頭を掻いた。
「ギルドへ預けておく手もある。必要なとき、俺の署名つきの証書を持ってくれば引き出せる」
俺は証書を想像した。
羊皮紙は俺たちより大きい。
雨に濡れる。齧られる。地下の湿気で丸まる。それを抱えてベルガの街まで行き、巨大なギルドの扉をどうにか越え、受付台の下から誰かに見つけてもらわなければならない。
無理だ。
金を使うために、一つの冒険が始まってしまう。
「首を振っていますね」
オルドが言った。
「では、村長の名義で預けるか?」
それも違う。
村長を信用していないわけではない。むしろ、昨日から何度も助けられている。ただ、俺たちが働いて得たものを、全部誰かに任せたくはなかった。
自分たちで選びたい。
自分たちの暮らしに、自分たちの稼ぎを使いたい。
俺は金貨の横へ立ち、考えた。
硬貨そのものが欲しいのではない。
俺たちに必要なものと交換するために、金が欲しかっただけだ。
なら。
最初から交換すればいい。
俺は二号の煤板を借りた。
最初に描いたのは、白い粒の山だった。
「砂?」
リリアが首を傾げる。
「雪じゃないですか?」
オルドも首を傾げる。
違う。
俺は粒を舐める仕草をし、思い切り顔をしかめた。
「毒?」
「なぜ毒を買うんですか!」
伝わらない。
チュウタが前へ出た。樽の隙間から、村人が朝飯に食べていた干し肉の欠片を拾ってくる。表面についた白い粒を指し、俺の絵を叩いた。
「塩か」
ブラムが言った。
俺たちは全員で頷いた。
「金ではなく、塩で払えってのか?」
俺は、塩だけではないと首を振った。
次に描く。
布。
針。
細い鉄線と銅線。
小さな鋸。
鑢。
薬瓶。
丈夫な紐。
描けば描くほど、仲間たちが騒ぎ始めた。
「油も欲しい!」
「細い管!」
「蓋の閉まる容器!」
「砂糖!」
「お前だけ欲望の方向が違う!」
俺はチュウタの砂糖を消した。
「横暴だ!」
「先に必要な物だ!」
「心には甘味が必要だ!」
「塩でも舐めてろ!」
「しょっぱい!」
まだ買ってもいない。
二号は俺たちの注文を分類し始めた。食料。建築。道具。医療。ぜいたく品。チュウタの希望はほとんど最後の欄へ追いやられる。
ガーロは鎌脚の加工に使える鑢と小槌を追加した。ルビーは幼虫の寝床に敷く柔らかい布を描いた。ピコは声を遠くまで伝えるため、薄い金属板が欲しいという。俺は消毒用の酒と、傷を縫える針、熱を測る道具がないかと尋ねた。
要望が止まらない。
今まで、ある物で作るしかなかった。
木片がなければ骨を削った。
糸がなければ植物の繊維を撚った。
刃物がなければ石を割った。
それが悪かったわけではない。工夫するたび、俺たちの家は少しずつ豊かになった。失敗すれば愚痴を言い、成功すれば全員で騒いだ。
でも、工夫だけでは越えられない壁もある。
細い針一本。
丈夫な布一枚。
人間にはありふれた物が、俺たちには暮らしを変える宝になる。
「面白え」
ブラムが笑った。
「金を宝箱へ詰めたいんじゃなく、巣を育てたいってわけか」
巣ではなく国だ、と言いたかったが、今は話を進めよう。
俺は頷いた。
「現物での支払いはできる。ただし、ギルドの倉庫にある物だけだ。薬は薬師を通す。危険な刃物は用途を確認する。残った額は預かりになる」
いい条件だ。
だが、まだ頷かない。
俺は金貨の山を指し、次に品物の絵を指した。それから両方の間へ、大きな目を描く。
「値段を見せろ、だそうです」
オルドが苦笑した。
「当然だな」
ブラムは書記へ命じ、村にいる商人も呼ばせた。
そこからが大変だった。
「塩一袋で銀貨二枚」
商人が言う。
袋が運ばれてくる。
人間なら肩へ担げる麻袋だ。
俺たちには山だった。
見上げても頂上が見えない。表面から塩の匂いがする。袋の縫い目一本が、俺たちの綱より太い。
「二号、どれくらい持つ?」
「今の住民数なら、保存食へ使っても数か月。こぼさなければ」
「数か月!?」
チュウタが叫んだ。
「全部舐めても?」
「舐めるな。死ぬぞ」
「塩で!?」
「量の問題だ!」
人間の銀貨二枚。
俺たちの数か月。
大きさの違いが、初めて味方をした。
「二袋」
俺は前脚を二本上げた。
「一袋で十分」
二号が一本下げる。
「あかんて大将、余裕見とかな。冬にどか雪ならぬどか塩不足になったらどないすんねん」
「お前だけ急に流暢になったな!」
「保存食を増やす」
「湿気たら固まる」
「容器も買う」
「場所がない」
「作る!」
「誰が?」
「ガーロ」
「俺か!?」
仲間内の交渉まで始まった。
結局、塩は一袋半。残り半袋は村が買うことになった。大きな袋を分ければ、村も安く手に入り、俺たちも保管しやすい。
布は麻布を十巻き、柔らかな古着を一袋。新品を買うより、洗った古着のほうが細かく切りやすく、種類も多い。
鉄線は太さを三種類。銅線は高いので一巻きだけ。
道具は小型の鑢、縫い針、錐、鋸刃、木槌、鉄製の小さな箱。どれも人間用なので、柄を外し、刃や金属部分だけを受け取る。地下で俺たちの体に合わせた持ち手を作るのだ。
薬は火傷薬、解毒薬、熱冷まし、消毒用の酒。薬師が使い方を絵にしてくれることになった。
丈夫な紐。油。陶器の小瓶。薄い金属板。
そして。
「砂糖は?」
チュウタがまだ言っていた。
俺は一覧を見る。
生活に必要な物を全て入れても、まだ支払い額は残っていた。
今回、チュウタは毒袋へ乗り、危険を知らせ――いや、増やした。地下では燃料管の一つを食い破り、ちゃんと作戦にも貢献した。
働いた仲間が、欲しい物を一つも選べないのは違う。
俺は板の端へ、小さな砂糖壺を描いた。
「大将!」
「一つだけだ」
「二つ!」
「消すぞ」
「一つで幸せです!」
現金な奴だ。
「他の者も、好きな物を一つずつ選べ」
そう告げると、仲間たちが静かになった。
ガーロは研磨用の油。
二号は記録に使える薄い紙と煤墨。
ルビーは青い糸。
ピコは小さな鈴。
俺は何も思いつかなかった。
「大将は?」
「俺はいい」
「駄目」
ルビーが即答した。
「全員って言った」
「そうだぞ、大将」
「規則を作った者が最初に破るのはよくない」
二号にまで言われた。
俺は品物の見本を歩いて回った。
欲しい物。
自分だけの物。
考えてみると難しい。
最後に、仕立て用の端切れの山で足が止まった。
赤い布がある。
ごく小さな欠片だ。人間なら捨てるだろう。けれど俺には、背中を半分覆えるくらいある。
リリアの髪を結んでいた、昔の赤いリボンを思い出した。
俺はその布を選んだ。
「赤、好きなの?」
リリアが覗き込む。
俺は曖昧に触角を揺らした。
「似合うと思う」
その一言で、金貨二十四枚より価値が出た。
絶対に誰にもやらない。
品物の合計が決まると、ブラムは残額をギルドで預かり、村長とオルドの署名、それから俺たちの前脚の印が揃ったときだけ使えるようにした。羊皮紙の大きな証書は村へ、小さく切った銅札は俺たちへ。銅札なら三匹で運べる。
「三匹必要なのか……」
ブラムが呟く。
放っておいてほしい。
「品物は明日の昼までに、村の倉庫へ運ばせる。そこから先はどうする?」
俺は村の裏手にある古い貯蔵穴を指した。人間の倉庫から、地下水路へ近い中継所まで村人に運んでもらう。そこからは俺たちが小分けにして運ぶ。
「運送も仕事のうちですな」
村長が笑った。
「もちろん手伝おう。昨日、命を預け合った仲だ」
ありがたい。
俺たちだけなら、塩一袋を運び終えるころに季節が変わる。
ブラムは鉄箱の蓋を閉じた。
「金を持てねえ冒険者は初めて見た」
俺は触角を立てる。
今、聞き捨てならない言葉があった。
「冒険者?」
オルドが聞き返した。
「大型魔物を倒し、素材を売り、取り分を決めた。やってることは冒険者だろうが」
ブラムは俺たちを見下ろした。
「街へ来る気があるなら、登録試験を受けてみるか?」
冒険者。
その響きに、仲間たちの触角が一斉に上がった。
村を出る。
街へ行く。
依頼を受ける。
知らない場所で、知らない仕事をして、もっと暮らしを豊かにする物を手に入れる。
俺の胸に、新しい道が開いていく。
「大将、登録試験ってどんなことするんだ?」
「知らん」
「知らないのに顔が輝いてるぞ」
「知らないから輝いてるんだよ」
その横で、チュウタは砂糖壺の絵を抱えて転がっていた。
「俺たち、金持ちだ!」
「金貨一枚も持てなかったけどな!」
金持ちになった実感は、まだない。
だが翌日。
村へ運び込まれた塩の大袋と、布の山と、道具の箱を見た瞬間。
俺たちは知ることになる。
人間の金貨二十四枚が、ゴキブリにとってどれほど恐ろしい量なのかを。




