第29話 兵どもが夢の跡①
※
青空の下、荒野の途切れる崖際。手には赤いルビーの指輪。
背中と腰に双剣を携えた男は革のマントをはためかせながら、その美しく輝く強敵の遺品をジッと見つめた。最近ようやく慣れてきた片方だけの視界で。
やがて目を切り、眼下に広がる湖へと投げ捨ててから手を合わせる。
「なんまんだぶなんまんだぶ……」
略式だがこれで良し。坊さんなど呼べぬのだから。
すると、背後から。
「ナンマンダブ?」
静かな水面に一雫。
いつも突然だな、こやつ。
「死者への祈りだ。せいぜい成仏しろよ、とな」
「ジョー・ブッツ?」
「無理やり名前にするでないわ」
振り返り、フードを被る相手へ隻眼でジロリ。黒いローブに灰銀の四肢。松明持ちの騎士と呼ばれる悪魔、フェオだ。これが悪魔とは。
前世含め、一番笑える話だった。
「ジョーブツ……いや、ジョウブツか。食事もジョウブツするのか?」
「何がどうしてそうなったおぬし」
本来は神の槍と呼ばれ、人々はそれを忘れてしまっているのだとか。赤い眼をした砂漠の民いわく。
しかしもっと昔に悪魔の名として呼ばれていたのも事実らしく、むしろそっちが先だそうだ。
「トールもそうやって手を合わせていた。食事の前に」
「それは、まぁ、成仏を願っていると言えなくもないが……」
「ナンマンダブは言ってなかった」
六百年前の終末戦争にて、人々は救い主である神の槍を知った。それ以前は噂が独り歩きして、剣のような松明を持つ悪霊と見なされていたとのこと。
「ええい面倒くさいやつめ。それは日々の糧に対する感謝で、何かしら敬意を込めて言うとったろうが」
「ああ、そういえば」
おそらく白い着物の幽霊のそばに火の玉が浮かんでいるようなものだったのだろう。
それにしても、だ。
「確か、いただきマンモス?」
何度でも言おう。これが悪魔とは。
「化け物の、正体見たり、枯れ尾花……か」
「? それは?」
「俳句だ。風流人の知り合いに前世で――」
「バイク?」
「――もう良いわ」
呆れながらフェオに背を向け、再び眼下の湖を見渡す。
聖なる狂気。『正義』の変身能力を有するあの聖騎士と戦い、この片目が奪われた場所を。
そしてその魂が、眠りにつく場所を。
「……何を考えている、ガルド」
詰問口調の名前呼びに、男は軽く肩をすくめた。
狂気に堕ちる以前。あの聖騎士とは――――彼とは、友人だった。
「何も。ただ、どうしてこうなったのか、とな……」
フェオの仕事、ひこーきとやらを作ろうとする青年の記憶消去に付き合った折のこと。そこで出くわした聖騎士が彼であり、最初は襲われるも紆余曲折を経て酒を酌み交わすことに。彼が件の青年の親友だったからだ。しかも、異端認定された青年の処刑役でさえあったらしい。
「ならいい。まさか遺体の一部でも見つけて弔う気かと思った」
「塵ひとつ残しておらぬわ。それにもしそうだとして、そんなに悪いことか?」
「俺は知らない」
ひこーきのことも忘れ、異端認定が取り下げられた親友に彼は喜んだ。友を失わず、殺さないで済んだことに感謝された。フェオもそれに満足していた。今思えば自らの過去と重ねていたのだろう。
しかし、三つ子の魂百までとはよく言ったもの。
「ただ、皆はどう思うかな」
「……わかっておる。あやつは、人を殺しすぎた」
結局、記憶を消されてもひこーき作りを再開してしまった親友を、彼が処刑することとなった。『正義』に固執し始めたのはそれからという話だ。フェオも呵責の念に苛まれた。
さらに、悲劇はそこから。
「きっと誰も、あやつが浮かばれることなど望まぬだろう。しかしだな、罪を憎んで人を憎まずという教えもあって――」
「ない」
彼の恋人は元々、彼が処刑した親友の恋人だった。記憶消去の際に出会ったので覚えている。ひこーき作りの青年から贈られた赤いルビーの指輪を大切そうにする、荒事とは無縁の女子。
それが反トール教の地下組織に属し、聖騎士である彼から得た情報を横流ししていた事実には耳を疑ったものだ。
「やつに、同情の余地などない」
だが、納得もした。復讐だったのだろう。摘発された組織の関係者として彼も疑われ、聖騎士としての地位を失いかけたのだから。恋人を自ら処刑することにより破門は免れたらしいが、あるいはそれこそが彼女の復讐だったのかもしれない。
そして彼は、聖なる狂気に目覚めた。『正義』という名の。
「フェオよ、それは……」
「ない」
「まだ何も言うとらんわ」
「ない」
「……やれやれ」
頑固な童になってしまったフェオにとって、彼女を殺した点だけは許せなかったらしい。
どれほど憎まれようとも、決してトール教に、女神に剣を向けないこやつには。
(指輪で許せよ、わしの相棒はきかん坊でな。今度は酒ぐらい持ってきてやるわ)
男は脇に置いていたずた袋を肩にかけ、別れを口にした。
「さらばだ、強敵よ。いつか――――」
※
「――――なんだ? この羽根ペンは」
怖い女の人の声。まだ夢の中なのかどうか、リアにはわからなかった。
でも、座っている。座り心地の良い椅子。なのに、気分が悪い。豪奢な肘掛けに置いた手が動かない。力が入らない。
人差し指にはまるルビーの指輪の輝きだけが目に入った。
「おい見張り番、これは貴様のか!?」
「は……え? と、とんでもないですフリスト様! ご命令どおり中には一歩も入っておりません!」
「ならばなぜこんなものが落ちている!」
そして正面。赤い絨毯が長く敷かれた先の、重厚な両開き扉。声の反響具合でしか広大さを察せぬ真っ暗な室内に、唯一の明かりを差すわずかな隙間。
その向こうにいる誰かを激しく責め立てる長い桃髪の女性の手には、ムニンがくれたカラスの羽根ペン。リアはまどろみの中で理解した。
「チッ……次はないぞ、蟻一匹通すな」
「ハッ!」
あれは記憶の羽根で、さっきのはガルドの記憶。見せてくれたんだ。
この赤いルビーの指輪にまつわる、悲しい記憶を。
「……あの、フリスト様? 本当によろしいのですか?」
ぼんやりとした視界の中でフリストが扉を振り返る。横に長い耳がピクリ。
「何がだ」
「いえ、その……神の子様をお迎えできるのは喜ばしいことですが、聖都本部に報告もしないというのはやはり――」
「次はない」
――ブシュ。
「私、そう言ったわよねぇ……?」
閉じかけの隙間からもれる明かりと鮮血。ゴトンと落ちる丸い何か。
「おい、誰かいるか! これを片付けておけ!」
蹴飛ばされ、磨かれた廊下を赤く汚して転がるそれは、人間のあた――
――ギィ……バタンッ。
訪れる暗闇。
思考が途絶、拒絶。
――コツ、コツ……。
近付く足音に知覚する本能。恐怖。
――コッ、コッ……。
わずかな段差。登ってくる。怖い。
リアは逃げようと必死にもがいたが、目覚めた意識に未だ眠る肉体はついてこれず。逃げたい、怖い。ヤダ。
そうしているうちに、耳元。
「あぁ、この聖痕……」
こびりつくような嬌声に、凍りつく意識。心臓。
「何度見ても間違いない……これが『座標』、真実との接点。トール様が望んだ番の巫女の証……」
生理的な嫌悪感。
それが、さらに増した。
「……でもね? あなたじゃあ、ないの」
間近でささやく唇に、耳の縁をなぞられる。湯浴み着のような薄い布地の上を手が這いずり、胸を触られる。乱暴に、爪を立てられる。
「お前じゃないんだよ小娘ぇ……!」
痛い。怖い、怖い、怖い。泣き叫び、いよいよ恐慌をきたす意識の中、片隅で悟る。
フェオは間違っていた。
「お前でも、同族でもない……私だ」
番の巫女の存在をトール教が知らなかったのは、十年前にこの人の記憶を消したからではない。
「スルーズ様とひとつになり、トール様からの寵愛を受けるのは私なんだ! アハッ、アハハハハハハッ!」
今も、昔も。
この人はただ、自分の欲望のためだけに。
「誰にも奪わせない! この小娘は、トール様は、アハァッ……!」
這い寄る舌。
鳥肌ごと、首筋をザラリ。
「私の、私だけの……あら?」
限界だった。もう。
ヤダ、ヤダ、嫌だ。
「……も・し・か・し・て?」
豪華絢爛な椅子に座る身を清められた少女。虚ろな目からは涙がこぼれ、物言えぬ唇が青く小刻みに震える。
その恐怖による痛々しい様を深淵のような暗闇は覆い隠してくれたが。
――ギョロ。
深淵から、大きな金銀妖瞳がのぞいていた。
「お前、起きてるなぁ?」
鼻と鼻が触れ、口と口が息を交わし、眼球が眼球を押し潰さんばかりの距離。
置き物のようだったリアの全身が震え出すと、フリストは小さく笑って顔を離した。
「ごめんなさい、まだ寝ていると思ったの。そんなに怖がらないで」
落ち着いた声。頬を優しく撫でる手。
気が触れそうになる。
「私もこんなことしたくないのよ? でも人質が取れなかったから、眠らせておくしかないと思って。あなたをさらったガキは使えそうにないしね……ああ、なんて忌々しいっ!」
浮き沈みの激しい、その一貫性のない人物像に恐怖心が増す。
「スルーズ様のご意志に直接触れておきながらあの気色悪さ、本来ならバラバラに切り刻んで燃やし尽くしてやるものをぉ……!」
――ボッ……!
燃え上がる記憶の羽根ペン。真っ暗な部屋で、一瞬だけ照らし出される女の顔。
人喰いの鬼婆。そんな言葉が浮かんだ。
「あら、また怖がらせちゃったかしら? じゃあお詫びにぃ、お姉さんがイイコト教えてあげるわ!」
助けて、誰か。そう思った時、コツコツと響く足音の中、右手に熱を感じた。
耳元には吐息。
「あなたはね、呪われているの……」
暗示のような言葉に耳を貸さず、右手の甲に神経を集中。つながっている。誰かと。
フェオだ。
「これから先、あなたの周りでは多くの人間が死ぬわ。大切な人間だけじゃない、あなたの近くに居合わせただけの他人すらも」
ピンチの時には俺を呼べ。あの魔法、まだ有効なんだ。
「例えば、そうねー……豪華客船に乗ったり孤島の館に招待されたりしたら、決まって誰かが殺されたりぃ? フフ、あなたが殺すわけではないけど、あなたが殺したも同然なの。なぜだかわかるぅ?」
しかし、リアは呼べなかった。フェオの名を。
口が動かせず。
「あなたが『座標』で、物語の観測地点だからよ。そしてあなたはこの先、死者を踏みにじりながら歩いていくの。その道が血塗られているとも知らず、のうのうと幸せにね……」
心が、それを拒否した。
「ま、別に決まってるわけじゃないらしいけどぉ、人が死ぬほうが演出的に盛り上がる……ヤダ待って、じゃあさっきのも!? 首ちょんぱしたのは私だけどぉ!?」
周囲を回りながら楽しげにしゃべっていた女が。
愉快さに居ても立っても居られず、あごをグイッと持ち上げてきた女の妄言が。
「そこの見張り番、あなたのせいで死んだんじゃないのぉ!?」
なぜか、事実のように感じたからだ。
「あーかわいそう! あーかわいそう! あの男にも家族や友人だっていただろうに、とんだ死神ね!」
自分が、殺した。自分のせいで。己を責める罪悪感が、ポロポロこぼれる涙の粒を一筋の線に変え、頬を伝った。
爛爛と輝く左右色違いの大きな瞳。
「ねぇ死神さん、どんな気持ち? ねぇねぇ今どんな気持ちぃ!? ぜひ教えてくれるかしら遺された妻や子どもにいるか知らないけどもっともらしく伝えとくからさぁ!?」
死にたい。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。
消えたい、この世界から。
「あぁ、そんなに泣かないで。大丈夫よ、もうすぐ私があなたを救ってあげるわ。だってトール様を喚んだら――」
呼べない。フェオも、誰も。
そんな資格ない。
「――ヒロイン、用済みだもの」
――私なんか、この世界に要らない。
「……しかし、私も鬼ではありません。あなたが眠っているうちにすべてを終わらせてあげましょう。女神スルーズ様の名の下に――――『我は問う、悪戯忘れし夜の名を』」
どうせ、騎士にはなれない。
「――――『眠りの喜び』」
それにフェオは、王子様にはなってくれない。
「……ではオヤスミなさい、お姫様?」
――私は、要らないお姫様役だ。
やがて、がらんどうな室内には静寂が訪れた。光なき少女の瞳を映すように真っ暗で、その空虚な心を映すように虚無の闇が広がっていた。
しかしそこに舞い降りる、燃やされたはずの記憶の羽根ペン。力なく座る少女のそばに落ちたそれを、ヒョイ、と拾い上げる人物。
少女の父親によく似た男。
『……さて、どうしたものか』
その姿はまた、クルス家の墓所に建てられた初代剣聖の石像。『剣帝』として神格化された少女の先祖にもよく似ていた。




