第97話「風のやんだ土地」
夕方、台所で味噌汁をつくっていると、スマホが鳴った。柚希からのメッセージだった。
『あの風の子、元気にしてる?』
『ああ。今日も肩の上でくるくる回ってた』陸はコンロの火を弱めて返す。
『いいなあ。あたしは今夜から夜勤、しばらく潜れないの』少し間があって、もう一通。『次の大物、あたし抜きで先に行っちゃうの、ずるいからね。ちゃんと写真送って』
『わかった。無理すんなよ、夜勤』
陸は苦笑して、鍋に蓋をした。
その夜、ログインすると、拠点の焚き火のまわりに、見慣れた顔がぜんぶ揃っていた。宗介に、大和、雪乃、静、ハル。少人数の夜が続いていたぶん、その賑わいが、やけに懐かしく感じられた。
「よう。この前は、各自ばたばたして悪かったな」宗介が剣を担いで笑う。「少人数で、張り合ったんだって?」
「爺さんが剣抜いたって聞いたぞ」大和が身を乗り出す。「見たかったなあ、それ」
「見せ物ではないわ」焚き火の定位置から、ガロードがふんと鼻を鳴らした。だが、その口元はどこかやわらかい。
陸の肩の上では、あの風の子が、うれしそうにくるりと舞っていた。丘での夜から、この子はときどき拠点へ遊びに来るようになったのだ。もう、あの荒れた風の面影はどこにもない。
「待たせたな」
さやりと風が渦を巻き、ゼフィロが姿を現した。
「例のでかい風の淀み。ようやく場所が掴めたぜ」ゼフィロは西の空を指さした。「ここからずっと西。もう何年も、誰も近づかなくなった土地だ。……正直、あんまり気持ちのいい場所じゃない。それでも行くか?」
「行く」陸は即答した。
そのとき、拠点の中央にそびえる世界樹が、ざわりと枝葉を鳴らした。風もないのに、その葉は、西のほうへとかすかになびいている。
「あの樹が、風を欲しがっているね」シィラが目を細めた。「あの土地の風がよみがえれば、世界樹もまた一段、育つだろうさ」
ダンジョンの奥で本源を解き放って以来、世界樹はずいぶん背を伸ばした。太い幹は、大人が何人かで手をつないで、ようやく囲めるほどになっている。それでも、天を衝く伝説の大樹には、まだほど遠い。ようやく木陰を落とす、一本の若木。育てる旅は、まだ道半ばだった。陸は幹にそっと手を当てて、頷いた。
「よし。行こう」
風の子は、当然のように陸の肩に乗ったままだった。行く気まんまんらしい。
ゼフィロが起こした追い風に乗り、アルシオンが翼を広げた。純白の天馬の背に陸たちを乗せ、夜の空を西へと駆けていく。眼下を、森が、川が、山が、次々と流れ去った。ファストトラベルでは味わえない、風を切る高揚があった。
やがて、その土地が見えてきた。
アルシオンが高度を下げるにつれ、陸は妙な息苦しさを覚えた。空気が、澱んでいる。雲は凍りついたように動かず、月明かりさえ、どんよりと濁って見えた。
地に降り立つと、その異様さはいっそう際立った。
風が、ひとつも吹いていない。
枯れた草原が、ぴくりとも揺れずに広がっている。朽ちかけた風車が、羽を止めたまま傾いていた。陸の襟元で、あれほどはしゃいでいた風の子が、きゅっと縮こまった。同じ風の眷属だからこそ、この死んだような静けさが、たまらなくこわいのだろう。物見やぐらに掛かった古い布は、垂れ下がったきり、ぴくりともしない。物音ひとつしない、死んだような静けさだった。
「……気味が悪いな」大和が身震いした。
「風がまったくない」シィラが杖を握りしめる。「これは、自然に止まったんじゃない。何かが、この土地の風を、丸ごと押さえ込んでいる」
「髪が広がらなくて楽ちん――なんて、言ってる場合じゃなさそうだね」ハルが軽口を叩きかけて、口をつぐんだ。
そのときだった。澱んだ空気の底から、ずるり、と黒い靄をまとった獣たちが這い出してきた。落ちくぼんだ眼で、こちらをぎらりと睨む。
「来るぞ!」宗介が地を蹴った。
ザンッ――《断空》の一閃が、先頭の一体を空間ごと薙ぐ。大和が《竜帝の盾》を掲げ、突っ込んできた二体をガキィンッと弾き返した。静の《具現》が石の杭をゴゴッとせり上げて足止めし、ハルが《影天蓋》で敵の位置を影に浮かび上がらせる。
「そこっ」
夜空からアルシオンが急降下し、風の刃で一体を斬り裂いた。すかさずサンダーウルフが地を駆け抜ける。バチバチッと雷が走り、触れた獣が痺れて崩れ落ちた。
ガロードは剣を抜かない。ただ静かに佇むだけで、将の覇気が澱みの獣を竦ませ、その足を鈍らせる。
「……こいつらも」陸は倒れていく獣を見て、眉をひそめた。「澱んだ空気にあてられて、苦しんでるのか」
獣たちを退けて奥へ進むと、土地のいちばん深い窪地に、それはあった。
山のように、巨大な影。
きつく翼をたたみ、背を丸めて、うずくまっている。全身に、薄青い風をまとった、途方もなく古い存在だった。だが、その風はまとわりついたまま、少しも流れようとしない。淀んで、凍りついている。
これが――この土地の風を、止めているものだった。
陸の襟元から、風の子がそっと顔をのぞかせ、悲しげに身を震わせた。同じ風でありながら、これほど大きく、これほど疲れきった存在を、初めて見たのだろう。
陸が一歩踏み出すと、巨体がわずかに身じろぎした。ざわりと、弱い風が押し返してくる。近づくな、と拒むように。だが、そこに敵意はなかった。あるのは、ただ深い、深い疲れだけだった。
「陸、気をつけろ」ゼフィロの声が、めずらしく低い。「そいつは……昔、この空を治めていた、風の主だ。おれも、久しく見ちゃいない」
陸はそっと目を閉じ、《幻視》を、その巨体の奥へと向けた。
流れ込んできたのは、まぶしい光景だった。大きく広げられた翼。そこから生まれる豊かな風が、空を渡り、種を運び、はるか遠くの船の帆を押していく。土地は緑に満ち、人々はその風を仰いで暮らしていた。
だが、次の瞬間。
その風が、ふくれあがった。翼が起こす風は嵐となり、荒れ狂い、渡っていったその先で――何かを壊した。ひとの営みを。大切ななにかを。
そして映像は、閉じるように暗転する。たたまれていく、大きな翼。うずくまる、巨大な背。深い、後悔の色。
陸は目を開けた。胸が、痛いほど締めつけられていた。
「……そうか」陸は、うずくまる巨体を見上げた。「お前、自分の風で何かを壊しちまったんだな。それがこわくて。だから二度と飛ばないと決めて――ずっと、翼をたたんだままでいるんだ」
巨体が、びくりと震えた。図星だったのだ。答えるかわりに、その背が、いっそう深く丸まっていく。まるで、世界から自分を隠すように。
「でもな」陸は静かに続けた。「お前が飛ばないと、この土地の風は、死んだままだ」
その言葉に、風の主が、低くうめいた。ざわり、ざわりと、まとった風が苦しげに揺れる。わかっている。わかっているのだ。それでも、この存在は、もう二度と、あの翼を広げるのがこわいのだ。
まだ、届かない。あの守り人がそうだったように。凍りついた後悔は、一日で溶けるものではない。
「わかった。今日は、ここまでにしよう」陸は退かず、けれど無理には踏み込まず、静かに告げた。「でも、俺は逃げない。何度でも来る。お前が、自分の翼をもう一度信じられるまで」
風の主は、答えなかった。ただ、うずくまったまま、動かない空の下で、じっと世界を拒みつづけていた。
拠点への帰り道、陸は何度も振り返った。あの止まった風を、どうすれば、もう一度巡らせてやれるのか。答えは、まだ見えなかった。
その夜、めいめいが光の粒になって、夜気に溶けていく。陸も静かに目を閉じ、その輪郭を風にまぎれさせた。
開発室のモニターに、西の果ての一点が、赤く灯っていた。
「巨大な、未登録の風属性の反応です」こはるが画面に見入る。「しかも、その周囲一帯……風のデータが、完全に停止してます。こんなの、初めて見ました」
「止まった風、か」三浦が腕を組んだ。「あの子は、また厄介なものを見つけたな。……いや。見つけずには、いられないんだろう」
ヘッドセットを外すと、夜の部屋は、しんと静まりかえっていた。
陸はスマホを手に取り、柚希へメッセージを送った。夜勤中の彼女には、きっと明日まで届かない。
『でっかい風の主に会った。翼をたたんで、ずっと動かないんだ。……かわいそうな奴だった』
窓を開けると、夜風がひとすじ、頬をなでて通り過ぎた。あの土地には、この風すら、吹いていないのだ。
待ってろ。今度こそ、お前の空に、風を返しに行く。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
少人数の夜を越えて、いよいよ新章の本筋――「風」の旅がはじまりました。道案内はもちろん、噂好きのゼフィロです。ギルドのみんなも戻ってきて、拠点がまた賑やかになりましたね。
たどり着いたのは、風がぱたりとやんでしまった土地。そこにいたのは、翼をたたんで動かなくなった、巨大な風の主でした。かつて自分の風で何かを壊してしまい、それがこわくて二度と飛べなくなった――。誰かを傷つけるのがこわくて動けなくなる気持ちは、少しだけ、わかる気がします。
凍りついた後悔は、一日ではとけません。次回、陸はあの翼を、もう一度ひらかせることができるでしょうか。
星マークとブックマークで応援していただけると、とても励みになります。次回もどうか、見守っていてください。




