第96話「風が凪ぐまで」
風の中の影が、ほんの少しだけ、おずおずと陸のほうへ身を寄せた。
その一歩に、どれほどの勇気がいっただろう。陸は差し出した手を、ぴくりとも動かさなかった。急かせば、また逃げてしまう。ここまで来たのだ。あとは、この子が自分で決めるのを待つだけだった。
「こわかったよな」陸はやわらかく笑った。「よく、出てきてくれた」
だがその瞬間、影がまたびくりと震えた。
ビュッ――!
ためらいの裏返しのように、小さな風の刃が四方へ散る。信じたい。でも、こわい。その狭間で、この子はまだ大きく揺れていた。
「させんっ」
ガロードの剣が閃いた。ガキンッ、ガキィンッと、陸へ迫る刃を二度、三度、続けざまに打ち払う。老騎士は一歩も動かず、ただ主の前に壁となって立ちつづける。
「陸くん、後ろは任せて!」
柚希が背中合わせに回り込み、逸れた風の刃を弓の腹で受け流した。狙って射るのではない。ただ、陸が心を届けるための、わずかな時間を守るために。シィラの張った風の壁が、残る刃をドンッと受け止める。
「大丈夫だ」陸は退かなかった。肩ではフェニクスが、じっとあの子を見守っている。「まだ、迷ってるだけだ」
長い夜だった。月はとうに天の高みへ昇り、丘の草も仲間たちも、みな夜露に濡れている。それでも誰ひとり、この場を離れようとは言わなかった。だからこそ陸は、ここで引くわけにはいかなかった。
腰に手をやる。指先が触れたのは、あの古い笛だった。“調べの笛”。獣の心を、やわらかくほぐす音色。陸はゆっくりと唇にあて、静かに息を吹き込んだ。
ふ――、と。
風にのって、やさしい音色が丘に流れた。争うでも、ねじ伏せるでもない。ただ寄り添うだけの、あたたかな調べ。荒れていた気流が、その音を追いかけるように、少しずつほどけていく。
『……この、音』
風の中から、幼い想いが心に届いた。陸は笛を下ろし、《心話》で、そっと語りかける。
「お前はきっと、また置いていかれるのがこわいんだよな。だから傷つく前に、自分から拒んじまう」
風がしん、と静まった・・・・
仲間の風にはぐれ、この丘に置き去りにされた、あの日。追いかけても、呼んでも、もう届かなかった。その悲しみが、この子を長いあいだ縛りつけていた。
「でもな。俺は、お前を置いていったりしない。無理に連れて行きもしない。ただ、そばにいたいだけなんだ」
かつて自由に空を駆けていた風が、今はこの小さな丘から一歩も動けずにいる。その心細さが、陸には他人事とは思えなかった。誰かに拒まれるのがこわくて、自分から殻に閉じこもってしまう気持ちを、陸も知っている。
陸はもう一度、手をのばした。
「だから――この手を、とってくれないか」
長い、長い沈黙があった。月明かりの下、風の中の影が、ためらいながら、ゆっくりと形をとっていく。淡く光る、小さな風の子だった。透きとおった体に、心細さと、かすかな期待をにじませている。
そして。
その小さな手が、おそるおそる、陸の指先に触れた。
指先に、ひやりと、けれど確かな重みが乗った。逃げようとしない。もう、拒んでいない。
その瞬間、丘を荒らしていた風が、ふわりと凪いだ。張りつめていた夜が、ようやくほどけた。陸の胸に、じんわりと熱いものがこみ上げる。
「よくやったな、主よ」ガロードがふっと息をつき、剣を鞘に納めた。シャッ、と澄んだ音が、静かな夜に溶けていく。
「陸くん……!」柚希が弓を下ろし、目をうるませた。「よかった……ほんとに、よかった」
風の子は、陸の手のひらの上で、まだ小さく震えていた。ひとりでいることに、慣れすぎてしまったのだ。
そこへ、ふわりと舞い降りるものがあった。アルシオンだ。同じ風を宿す天馬が、風の子にそっと鼻先を寄せる。まるで、こう告げるように。おまえは、ひとりじゃないと。
風の子が、はっと顔を上げた。仲間だ。同じ、風の。
「そうだ」陸は微笑んだ。「もう、ひとりぼっちじゃない。空を駆けたくなったら、いつでも駆けていい。寂しくなったら、いつでも帰ってこい。ここに、お前の居場所がある」
風の子の体から、こわばりがすうっと抜けていった。淡い光が、うれしそうに、ちらちらと瞬く。
その時だった。凪いだはずの風が、今度はやさしく丘を渡りはじめた。
とだえていた小鳥の声が戻り、身をひそめていた獣たちが、そろそろと森から顔を出す。淀んでいた風の流れが、この一帯にゆっくりと巡りはじめたのだ。
「風が、通ったね」シィラが空を仰いだ。「この子の心がほどけて、止まっていた流れがまた動きだした」
肩の上でずっと気を張っていたフェニクスが、ほっとしたように、ぽすんと羽をたたんだ。森の緑が、夜風にさわさわと揺れる。長いあいだ息をつめていた土地が、ようやく深く息を吸いこんだかのようだった。
さやさやと、心地よい風が丘を吹き抜けていく。
その風にのって、ふわりと現れた者がいた。噂好きの風の神、ゼフィロだ。
「やれやれ。ここまで派手にやってくれると、さすがに気づくさ」ゼフィロは風の子を見て、目を細めた。「よう、ちびすけ。ずいぶん久しぶりに、まともな風が吹いたな」
「ゼフィロ。知ってる子なのか」
「風の眷属さ。この世界のあちこちを巡る、大きな風の、ほんのひとかけらだ」ゼフィロは肩をすくめた。「だがな、陸。ひとつ言っておく。この丘の淀みは、ほんの前触れにすぎん」
風がざわりと鳴った。
「もっと遠く。ずっと大きな風の流れが、どこかで淀んで、うずくまっている。この子の比じゃない。世界樹が育って、おれの耳もよくなったんでな。その気配が、ここまで届くようになった」ゼフィロはにやりと笑う。「次は、おれが道案内してやる。腕のいい風読みが、ひとりいることだしな」
陸は静かに頷いた。まだ見ぬどこかで、風が、うずくまっている。ならば、放ってはおけない。
「ああ。よろしく頼む」
風の子が、陸の肩の上で、ちいさくくるりと舞った。まるで、次の旅を楽しみにするみたいに。
長い夜が、ようやく明けようとしていた。
「また来る」陸は、丘に残る風の子に手をふった。「今度は、みんなを連れて」
うん、とでもいうように、淡い光がひとつ、瞬く。それを見届けて、陸はそっと目を閉じた。
体が、ほろほろと光の粒になってほどけていく。ガロードが、シィラが、柚希が、めいめいに淡い光となって夜気に溶けた。最後に陸の輪郭も、丘の風にまぎれるように消えていく。あとには、凪いだ夜と、やさしく巡りはじめた風だけが残った。
開発室のモニターに、鎮まっていく風のデータが映っていた。
「拠点近くの、風属性エネルギー体……完全に安定しました」こはるが息をつく。「荒れていた風の流れが、正常に巡りはじめてます。それに……老騎士キャラクターが、剣を納めました」
「そのまま消えてもおかしくない、不安定なデータだったのにな」三浦が画面を見つめる。「今回も、殴って消すんじゃなく、寄り添って解いたか。あの子らしい」
こはるが、別のウィンドウに目をとめた。マップのずっと果て。かすかだが、たしかに、何かが渦を巻いている反応があった。
「三浦さん、これ……」
「ああ」三浦の口元がゆるむ。「次の風だな。さあ、あの子は、どこまで行くのか」
ヘッドセットを外すと、部屋には夜明け前の静けさが満ちていた。
陸が息をつくのとほとんど同時に、スマホが小さく震えた。柚希からだ。
『おつかれさま。あの子、最後、笑ってた気がする』
『ああ。俺もそう思った』陸は返した。『二連休、初日から朝まで付き合わせて悪かったな』
『ううん。すっごく、いい夜だった』少し間があって、もう一通。『次の風の旅も、絶対いっしょに行くからね』
陸は、ふっと笑った。窓の外では、夜明け前のやわらかな風が、カーテンをそっと揺らしている。
まだ見ぬどこかで、うずくまっている風がある。今度はその風に、手をのばしに行こう。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
少人数別動隊編、これで完結です。九十四話から続いた長い夜が、ようやく明けました。陸がのばしつづけた手を、風の子がとってくれましたね。力でねじ伏せるのではなく、ただ「ひとりじゃない」と伝えつづけること。あの守り人のときと同じ、陸のやり方です。
剣を振るいつづけたガロードも、静かに刀を納めました。老騎士が剣を抜くのは、こういう夜だけ。次に鞘走るのは、いつになるでしょうか。
そして最後に顔を出した、風の神ゼフィロ。今回の淀みは、ほんの前触れだといいます。次はいよいよ、大きな風の流れを取り戻す旅がはじまります。どこかで、風がうずくまっている。……放ってはおけませんね。
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