第95話「風の中で、手をのばす」
風は、なおも渦を巻いていた。
あの黒い影を包み込むように、丘の上で荒ぶり続けている。陸たちがここへ来てから、もうどれくらい経っただろう。それでも、誰ひとり引こうとはしなかった。
森の梢の向こうには、いつのまにか月が高く昇っている。夜はすっかり深まっていた。それでもこの風の丘だけは、時が止まったように、ずっと荒れ狂い続けている。
いつものギルドの仲間がいれば、宗介や大和が前に出て、もっと楽に立ち回れたかもしれない。だが今夜は、この少人数だ。だからこそ、ひとりひとりが、自分にできることを、精いっぱいやるしかなかった。
「陸くん、大丈夫?」弓を握りしめたまま、柚希が声をかける。
「ああ、まだいける」陸は風に目を細めながら頷いた。
あの風の中でうずくまる影は、きっと助けを待っている。近づけば拒まれる。だが、放ってはおけない。無理に踏み込めば、もっと怯えさせてしまう。かといって引いてしまえば、あの子はまた、ひとりだ。
「相手の正体は、まだわからん」ガロードが剣を構えたまま言った。「だが、主が向き合うと決めたなら。儂はここで、風を防ぎ続けるだけだ」
「私もまだまだいけるよ」シィラが杖を掲げる。「この風、古い力だけど……押さえ込めないほどじゃない」
神獣たちも身構えていた。フェニクスは陸の肩でじっとあの影を見つめ、小夜やジオトレントたちも、いつでも動けるよう気を張っている。心強い顔ぶれだった。
渦を巻く風の中心で、黒い影はずっとうずくまっている。まるで時が止まったかのように、ただひとり、風に震えていた。
誰もいない丘の上で、ひたすら世界を拒むように風を吹き荒れさせている。その姿は、見ているだけで胸が痛んだ。あんなに小さな体で、どれほどの寂しさを抱えているのだろう。
「……なあ」陸は静かに丘を登りはじめた。「俺は、ちゃんとお前と話がしたいんだ」
ゆっくりと、一歩ずつ、風の渦に近づいていく。
「陸くん、気をつけて!」柚希が弓を構える。
「わかってる」
陸はそっと目を閉じ、《幻視》を、渦巻く風の奥へと向けた。
流れ込んできたのは、断片的な映像だった。
――どこまでも続く、青い空。その空を気持ちよさそうに渡る風に寄り添って、小さな風の精のような存在が、仲間たちとじゃれあっていた。空を渡り、野を越え、海をなでて、どこへでも行ける。何にも縛られない。それが風の生き方だった。
だが次の瞬間、その風の精は、ひとりぼっちになっていた。
いつも一緒だった仲間の風たちが、ある日ふっと、遠くへ去ってしまったのだ。呼んでも、追いかけても、もう届かない。この子だけが、この丘に置き去りにされた。
行き場を失った心細さと悲しみが、ぐるぐると渦を巻き、やがて、近づく者すべてを拒む荒れた風になってしまった。傷つきたくない。もう、置いていかれたくない。その恐れが、この子を丘に縛りつけていたのだ。
かつて、あんなに自由だった風が。空の果てまで駆けていた風が。今はただ、この小さな丘から、一歩も動けずにいる。誰かに、また置いていかれるのが、こわくて。それは、涸れた土地でひとり本源を抱えていた守り人の姿と、寂しいほどに、よく似ていた。
「……そうか」陸は目を開けた。胸が締めつけられる。「お前、ひとりになっちまったんだな。こわくて、たまらないんだろう。あんなに自由に、空を駆けていたのに」
陸はさらに一歩踏み出し、そっと手を差し出した。
「もう大丈夫だ。俺と、一緒に――」
その瞬間だった。
ビュオオオッ――!
渦巻く風が、突然、爆発的に荒れ狂った。陸の差し出した手を拒むように、烈しい風の刃が四方へと吹き荒れる。
「うわっ……!」
「陸くん!」
陸の体が風にあおられ、後ろへ飛ばされそうになる。近づかれたことで、かえって怯えが爆発してしまったのだ。
『もう、いやっ! 置いて、いかないで!』
風の中から、声にならない悲鳴のような想いが、陸の心に流れ込んできた。この子は思っているのだ。近づいてくる者は、みんないつか、自分を置いていってしまう、と。だから傷つく前に、自分から拒んでしまう。
「主っ!」
刹那、陸の前にガロードが躍り出た。
シャアッ――と剣を抜き放ち、振り抜いた刃が、陸に迫る風の刃をガキィンッと弾き返す。
「下がっておれ、主よ! ここは危ない!」
だが、風はいっそう激しさを増していく。ゴォッ、ゴォッと、無数の風の刃が渦を巻いて、一行めがけて殺到する。まるで透明な剣の雨だった。
「させないよっ!」
シィラが杖を振るった。ドンッと風の壁が立ちはだかり、飛来する刃を受け止める。だが風の勢いはそれを上回っていた。壁がみしみしと軋み、ぴしりと亀裂が走る。
「くっ……これは、思ったより手強いね!」シィラが歯を食いしばる。「古い風の力だ。ただの魔物じゃない!」
それでもシィラは、次々と魔法を重ねて壁を張り直した。ひとつが砕ければ、すぐに次の壁を。古の術師の意地が、かろうじて後方の守りを保っている。
フェニクスが羽ばたいた。ゴォッと灼熱の炎が渦巻く風へ放たれ、炎と風がぶつかってボォンッとめくれ上がる。一瞬、荒れる気流が乱れ、風の刃があらぬ方向へ逸れた。だがそれもつかのま、風はすぐに勢いを盛り返す。
「柚希、無理に近づくな!」ガロードが叫ぶ。「風上から射よ!」
「わかった!」
柚希が風上へ回り込み、ヒュンッと矢を放つ。だが渦巻く気流に押し流され、狙いは大きくそれてしまう。それほどまでに、この風は荒れ狂っていた。
「もう一本っ!」
それでも柚希は諦めない。風の流れを読み、今度は渦の動きに合わせてヒュッと放つ。矢は渦のすきまを縫って、風の刃のひとつを辛うじて射抜いた。
猛る風のなかを、ガロードは一歩も退かなかった。飛来する風の刃を右へ左へと斬り払う。ズバッ、ガキンッ、ガキィンッ――と、老騎士の剣が嵐のなかで閃きつづける。陸と柚希とシィラ、そのすべてを庇うように、たったひとりで矢面に立ちつづけた。鬼気迫るその太刀筋は、まさに一騎当千。長い戦場を渡ってきた老兵の、真骨頂だった。
「主よ! 儂が風を抑える!」風の唸りに負けじと、ガロードが叫んだ。「そなたは……あの子の心に届かせろ! できるのは、そなただけだ!」
その言葉に、陸ははっとした。
そうだ、ここで引いてはいけない。この荒れ狂う風は、攻撃ではない。近づくな、という、あの子の必死の悲鳴なのだ。あの守り人がそうだったように、怯えている相手を、力でねじ伏せることはできない。
「ガロード、頼む! もう少しだけ、時間をくれ!」
「応とも!」
陸は吹き荒れる風のなかへ、ふたたび足を踏み出した。風の刃が頬を切る。それでも、一歩、また一歩と、渦の中心へ進んでいく。
「聞いてくれ!」風に負けじと、陸は叫んだ。「俺は、お前を捕まえに来たんじゃない! お前がひとりぼっちで、寂しくて、こわいのを……知ってるから来たんだ!」
渦巻く風が、ほんの一瞬、びくりと震えた。
「無理に連れて行ったりしない! ただ、そばにいさせてくれ。お前がこわくなくなるまで、何度でも会いに来る!」
俺だって、と陸は思う。ひとりぼっちの心細さは、知っているつもりだ。誰かに拒まれるのがこわくて、自分から殻に閉じこもってしまう気持ちも。だからこそ、この子の震えが、他人事とは思えなかった。
その必死の呼びかけに、荒れ狂っていた風が、少しずつ、ほんの少しずつ、勢いを弱めていく。風の中心でうずくまっていた影が、おそるおそる顔を上げた――そんな気配がした。
「……そうだ。それでいい」陸はやさしく微笑み、もう一度、その影へと手をのばした。「怖くない。ほら」
あと少し。あと少しで、その手が届きそうだった。
だが、影はまだ迷っている。差し出された手を、信じていいのか。また裏切られるのではないか。そのためらいが、かすかな風となって、陸の指先を揺らしていた。
「焦るな、主よ」剣を構えたまま、ガロードが静かに言う。「あと一歩だ。その子も迷っておる。信じたいが、こわい。その狭間でな」
「ああ」陸は深く頷き、手をのばしたまま、急かさずに待った。あの子が自分から、その手を取ってくれるのを。
長い、長い逡巡のあと。
風の中の影が、ほんの少しだけ、おずおずと、その身を陸のほうへと動かした――。
風は、まだ完全には止んでいない。
けれど確かに、あの子の心は、ほんの少しだけこちらへ開きかけていた。何百年もの孤独がとけた、あの守り人のように。この子の凍えた心にも、きっと春は訪れる。
そう信じて、陸は手をのばしたまま、静かにその時を待った。荒れる風の音だけが、月の昇る夜の丘に、いつまでも響いていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
少人数別動隊編、二話目です。前回からの地続き。あの風の丘で、陸たちは引くことなく、影と向き合い続けます。
幻視で見えたのは、ひとりぼっちになってしまった風の精の悲しみでした。仲間とはぐれ、心細くて、こわくて。だからこそ、近づく者すべてを風で拒んでしまう。……あの守り人と同じですね。傷ついた心は、優しさすらこわいのです。
そして、荒れ狂う風のなかで、ガロードが剣を振るい、陸を守り抜きました。「あの子の心に届かせろ、できるのはそなただけだ」。戦えないはずの陸に、いちばん大事な役目を託す。この二人の信頼が、たまらないですね。
陸ののばした手は、あと少しで届きそうです。次回、この長い夜に、いよいよ決着がつきます。どうか見守っていてください。
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