第98話「もう一度、空へ」
昼下がり、コーヒーを淹れていると、スマホが震えた。夜勤の休憩中なのだろう、柚希からのメッセージだった。
『昨日のメッセージ、見たよ。あの風の主さん……翼をたたんで、動かないって』少し間があって、もう一通。『なんだか、泣きそうになっちゃった。今夜も夜勤でごめんね。あたしのぶんまで、助けてあげて』
『ああ、まかせろ』陸はマグを片手に返した。『今度は、あいつが笑ってる写真を送るよ』
その夜。ログインした陸を、拠点で仲間たちが待っていた。宗介たちも、ガロードも、シィラも。肩の上では、風の子が、いつになく真剣な顔で羽をふるわせている。
「今夜こそ、あいつを起こしに行くか」ゼフィロが西の空へ顎をしゃくった。
拠点にそびえる世界樹が、かさりと枝葉を鳴らし、その葉先を西へとなびかせた。まるで、まだ見ぬ風を、待ちわびるように。
ふたたびゼフィロの風とアルシオンの翼に乗り、一行は夜空を西へ渡った。
風のやんだ土地は、あいかわらず死んだように静まりかえっていた。だが今日は、澱みの獣たちも姿を見せない。ユニコーンが角に淡い光を灯し、よどんだ空気をそっと押し払いながら、道を照らしていく。
窪地の底で、風の主は、今日もうずくまっていた。きつく翼をたたみ、背を丸めたまま。
陸は、その巨体の前に立った。そして目を閉じ、《幻視》をもう一度その奥へと沈めた。今度は、もっと深く。
――流れ込んできたのは、あたたかな暮らしの記憶だった。
この土地には、かつて、風とともに生きる人々がいた。丘には風車が回り、軒には風鈴が鳴っていた。子どもたちは凧をあげ、主の風のなかで笑いころげていた。主は、その笑い声が、なによりも好きだった。だから毎日、豊かな風を送りつづけた。
だが、ある嵐の夜。
主の風は、ふくれあがった。抑えのきかない大嵐となって里を呑みこみ、風車をなぎ倒し、家々を吹き飛ばした。そして――あのかけがえのない笑い声を、根こそぎ奪っていった。
自らの翼が、いちばん大切なものを壊してしまった。その日から、主は己の翼を呪った。二度と飛ぶまいと誓い、この窪地に背を丸めたのだ。以来ずっと、風の絶えた土地でたったひとり、自分を罰しつづけている。
陸は目を開けた。頬に、いつのまにか涙がつたっていた。
「……そうか」声が、震えた。「お前、自分の風で大事なやつらを失っちまったんだな。だから、二度と飛ばないって決めた。もう、誰も傷つけないように」
主が、ぐぅ、と低くうめいた。図星だったのだ。丸めた背が、いっそう縮こまる。
「でもな」陸は、うずくまる巨体を見上げた。「お前が翼をたたんでいるあいだも、この土地は風のないまま枯れつづけてる。お前が守りたかったものが……今も、苦しんでるんだ」
主の翼が、びくりと震えた。
「一度の嵐が、なかったことにするわけじゃない。お前がそれまで運んだ、たくさんの種も。押してやった、たくさんの帆も。あの子たちの、笑い声も。ぜんぶ、お前の風が、この世界にくれたものだ」
それでも、主は動かなかった。こわいのだ。また、あの翼が、誰かを――。何百年分の後悔が、その翼を、鎖のように縛りつけている。
そのときだった。
陸の襟元から、風の子が、ふわりと飛び出した。まっすぐに、主のたたまれた翼のそばへ舞い上がる。そして、あたたかくやわらかな風で、その古い翼をそっと撫でた。
「……こいつも昔、ひとりぼっちで、荒れた風になったんだ」陸は静かに言った。「傷ついて、こわくて、近づくものみんなを拒んでた。でも、また、こんなにやさしい風に戻れた。……怖い風ばかりじゃないんだ。お前が吹かせてきたのは、ずっと、こういう風だったんだろう」
主が、ゆっくりと顔を上げ、小さな風の子を見つめた。その濁っていた目に、かすかな光が、ともる。
「もう一度、飛んでみないか」陸は、両手を広げた。「今度は、お前ひとりじゃない。空の下で、俺たちが見てる。だから――もう、こわがらなくていい」
長い、長い沈黙が流れた。
やがて。
きし……り、と。何百年ものあいだかたく閉ざされていた翼が、ためらいながらひらいていく。たたまれていた薄青い風が、ほろほろと解けだした。
風が、動いた。
主が、大きく翼を広げた。おそるおそる、一度、羽ばたく。ばさりと、死んでいた空気が、ふわりと揺れた。もう一度。もう一度。そしてついに、その途方もない巨体が、ゆっくりと宙へ舞い上がった。
ゴォォォ――!
止まっていた世界が、いっせいに動きだす。生き返った風が、土地じゅうを吹き抜けていく。傾いた風車が、ぎぎ、と軋みながら回りはじめた。垂れていた布がはためき、凍りついていた雲が流れ、枯れ草がいっせいにそよぐ。ユニコーンの光が土地を清めると、乾いた大地のあちこちに、みずみずしい緑の芽が点々と萌えだした。
主は、澄んだ夜空を舞った。おそるおそる、けれど確かに。かつてのように種や風を、土地じゅうへ運びながら。その風は、もう嵐ではなかった。やさしく、あたたかい、いのちの風だった。
「そうだ。それでいい」陸は空を見上げ、涙をぬぐって笑った。「……おかえり」
主が一度、陸たちの頭上を、大きく旋回した。ありがとう、とでもいうように。それから悠々と、星のまたたく空の高みへと昇っていく。もう、うずくまってはいなかった。
「風が、還ったね」シィラが、まぶしそうに空を仰いだ。
「……あいつが、また飛ぶ日が来るとはな」ゼフィロが、めずらしくしんみりとつぶやいた。「長生きは、してみるもんだ」
拠点へ帰り着くと、世界樹が、待っていた。よみがえった風の糧を浴びて、また一段、大きくなっている。枝がのび、葉が繁り、幹がひとまわり太くなっていた。それでも、天を衝く伝説の大樹には、まだ遠い。育てる旅は、道半ばだった。豊穣の精霊が、うれしそうにその幹をぐるぐると回っている。
「大地、水……そして、風か」陸は、伸びた枝を見上げてつぶやいた。「お前、いったい、どこまで大きくなるんだろうな」
その言葉に、ガロードがふと、育ちゆく世界樹へ目をやった。何か言いかけて、けれど今日は、口をつぐむ。ただ、その目の奥で、消えない影が静かに揺れていた。
その夜も、めいめいが光の粒になって、夜気に溶けていく。陸も静かに目を閉じ、その輪郭を、還ったばかりの風にまぎれさせた。
開発室のモニターでは、西の一帯を覆っていた停止データが、すっかり消えていた。
「風が……全域で、巡りはじめました」こはるが息をのむ。「止まっていた土地の風が、ぜんぶ。それに合わせて、世界樹の成長値が、また跳ね上がってます」
「大地、水、そして風か」三浦が腕を組み、育ちゆく大樹のデータを見つめた。「あの子がひとつ解くたびに、あの樹が、育っていく。……育った先に何があるのか。それを知ってるやつは、まだ、どこにもいないんだよな」
ヘッドセットを外すと、窓の外の夜風の音だけが、かすかに聞こえていた。
陸はスマホを手に取り、さっき撮った一枚を、柚希へ送った。夜空を悠々と舞う、あの風の主の姿を。
『約束の写真。あいつ、また飛べるようになったよ』
しばらくして、夜勤の合間なのだろう、短い返信が届いた。
『……よかった。ほんとに、よかった。この写真、宝物にする』少し遅れて、もう一通。『次の旅は、絶対いっしょに行くからね』
窓を開けると、夜風がやわらかく、部屋のなかへ吹きこんできた。どこか遠くの空でも、あの主がいまごろ、気持ちよさそうに風を運んでいるだろうか。
まだ見ぬどこかに、うずくまっている力が、きっとある。次はどんなやつに、会えるだろう。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
「風」の旅、決着です。翼をたたんでうずくまっていた、あの巨大な風の主。かつて自分の風で、いちばん大切なものを壊してしまった――だから二度と飛ぶまいと、何百年も自分を罰しつづけていました。
けれど、傷つけるのがこわくて動きを止めることは、守ることにはならないんですよね。止まった風は、土地を枯らしてしまう。陸が差し出したのは、剣ではなく言葉でした。そして、かつて荒れた風だった風の子が、「やさしい風にもどれるよ」と、その翼をそっと撫でてくれました。
大地、水、そして風。ひとつ解くたびに、世界樹はまた一段、大きくなっていきます。育った先に、いったい何が待っているのか。ガロードの目の奥の影が、少しだけ気になりますね。
星マークとブックマークで応援していただけると、とても励みになります。次の旅も、どうか見守っていてください。




