第91話「いちばん奥の、ひとり」
その日の昼下がり。陸が仕事の合間に、コーヒーを淹れていると。スマートフォンが震えた。柚希からだ。
『ごめん! 今夜、また、急な夜勤が、入っちゃって……。いちばん、大事なとこ、なのに』
その、悔しさのにじむ文面に。陸は、少し笑って返した。
『気にすんな。……たぶん、今夜で全部終わるわけじゃ、ないと思う。お前が来られる日まで、待つよ』
『ううん、それは、だめ! 進めるとこまで進んでて』柚希の返信は、速かった。『でも……もし、その守り人さんに会えたら。あたしからも、よろしくって伝えて。ずっとひとりで、頑張ってきたんだよね、って』
その優しい言葉に、陸の胸が、あたたかくなった。まだ会ってもいない相手を、柚希は、もう気にかけている。
『ああ。……ちゃんと、伝えるよ』
『それでね』柚希の、メッセージは、続いた。『次の、次の休み。絶対、絶対、取るから。もし、まだ、その守り人さんのことが片づいてなかったら。……あたしも、一緒に、行きたい。だめ、かな?』
その、まっすぐな、言葉に。陸は、胸が、熱くなった。ずっと、ひとりだった、守り人。そこへ、向かおうとする仲間が。ひとり、また、ひとりと。手を、挙げてくれる。
『だめなわけ、ないだろ』陸は、返した。『……きっと、あんたの、その気持ちが。あの人には、いちばん、必要なんだ』
そう返して。陸は、静かに、その夜を、待った。
夜。三層の、守り火のそばに、仲間たちが、集まった。
「柚希は、今夜も、夜勤か」宗介が、言う。
「ああ。……でも、伝言を預かった」陸は、頷いた。「守り人に会えたら。“ずっとひとりで頑張ってきたんだね”って、伝えてくれ、って」
「……あいつ、らしいな」宗介が、ふっと笑った。「よし。じゃあ、その伝言、届けに行くか」
守り火から、さらに奥へ。一行は、地の底の、いちばん深くへと進んでいった。
道は、次第に、荘厳な様相を帯びていった。
地底湖の幻想的な光景とも、違う。そこは、まるで、古い神殿の中枢のようだった。磨かれた石の回廊。天井には、精緻な彫刻が施され。ひとつひとつの柱が、はるか高くまでそびえている。
「……静かだね」ハルが、囁いた。
たしかに。ここまで、いた魔物の気配が、ぱたりと消えていた。まるで、この、いちばん奥だけは。何か神聖なものによって、守られているかのように。
だが、その静けさが。ふいに、破られた。
回廊の奥から。ずずっ、と。黒い靄のようなものが、湧き出してきた。それは、渦を巻き、人の形とも獣の形ともつかぬ、影の魔物へと凝っていく。
「……なんだ、こいつ」宗介が、剣を、構える。
『気を、つけな』シィラが、鋭く、言った。「これは、魔物じゃない。……この、いちばん奥に澱んでいた、“悲しみ”そのものだ。長い孤独が、形を成してしまった、なれの果てさ」
悲しみが生んだ、影。それが、侵入者を拒むように。ぶわり、と、こちらへ押し寄せてきた。
「なら……その、悲しみを、鎮めるまでだ」
陸が、呼んだ。
「小夜、頼む」
陸の影から。ふわり、と、九尾の子狐の小夜が、姿を現した。その五本の尾が、やわらかく揺れる。小夜は、闇を司る神獣。そして、荒ぶる心を鎮める力を、持つ。
小夜が、こくん、とひとつ鳴いた。すると、その身から、やわらかな銀色の光が放たれる。ふわぁ……と。その光が、黒い靄を包み込んでいった。
だが、靄は、なおも暴れた。ゴォッと、渦を巻き、小夜の光を振り払おうとする。よほど深い悲しみが、そこには澱んでいるのだ。
「小夜だけじゃ、足りないか。……ノクス様!」
陸の、呼び声に、応えて。夜の神、ノクスが、姿を現した。慈愛に、満ちた、賢者の、神。その、静かな、まなざしが。黒い靄を、そっと、見つめる。
『……かわいそうに』ノクスの低い声が、響いた。『これほどの悲しみを、たったひとりで抱えてきたのか』
ノクスが、手をかざす。小夜の光と、ノクスの力が重なり合い、黒い靄を、優しく優しく包んでいった。靄は、なおもゴォッとあらがい、ぶわりと膨れ上がる。だが、その暴れようは。まるで、泣きじゃくる子供のようでも、あった。
「大丈夫だ」陸も、そっと、語りかけた。「もう、ひとりじゃ、ないから」
その言葉に応えるように。小夜が、こくん、ともう一度鳴いた。銀色の光が、いっそう強く、あたりを満たす。やがて。暴れていた靄は。ふっ、と力を失い、淡い光となって消えていった。まるで、長い涙が、ようやく乾いたかのように。
「……行こう」陸は、静かに、言った。「この奥に、いる」
そして。一行は、ついに。いちばん奥の、広間へと、たどり着いた。
そこは、円形の、広い、空間だった。壁には、無数の古い文字が刻まれ。天井のはるか上からは、ひとすじの淡い光が降りそそいでいる。地の底とは思えない、荘厳さだった。中央に、古い祭壇がある。そして、その上に――ひとつの、大きな光る球が、鎮座していた。
「あれが……大地の力の、本源」
陸は、息を呑んだ。だが。その光は、ひどく弱々しかった。本来なら、こうこうと輝いていたはずの、力の源。それが、いまは、くすんで。今にも消えてしまいそうな。そんな儚い光しか、放っていなかった。
「あんなに、弱って……」雪乃が、痛ましそうに呟く。「本源が、あの状態じゃ。世界樹に力が届くはずも、ないね」
そうだ。この弱った本源こそが。世界樹が育たない、いちばん深い原因だったのだ。
そして。その本源を。抱きかかえるように。
ひとりの、女性が、うずくまっていた。
古い装束をまとった姿。壁画で見た、あの守り人だ。長い髪が、床に広がり。その顔は、うつむいて見えない。彼女は、両腕で本源をしっかりと抱きしめ、誰にも渡すまいとするように。じっと、うずくまっていた。
「……あなたが、守り人、ですね」
陸が、そっと、声を、かけた。一歩、踏み出す。
その、瞬間。
「――来るな」
低い、女性の、声が、響いた。同時に。守り人の体から、ぶわりと、力があふれ出す。ビュオッと。烈しい、風が、巻き起こり。陸を、押し戻した。
「うわっ……!」
「陸くっ……陸!」
大和が、とっさに盾をかざす。ドンッと、その風の力を受け止めた。だが、風は、なおも渦を巻き。石畳の破片を巻き上げて、ビュンビュンと、あたりに叩きつける。守り人のまわりに。渦を巻く、力の防壁が。誰も近づけまいとするように、荒れ狂っていた。
「宗介、無理に踏み込むな!」シィラが、叫ぶ。「あれは、攻撃じゃない。……ただ、拒んでいるんだ。怯えた獣が、牙を剥くように」
ガロードも、剣の柄から、静かに手を離した。「……なるほど。これは、我らの出る幕では、ないな」老騎士は、一歩退いて、陸を見た。「主よ。ここから先は……お前の、領分だ」
たしかに。その風には、害意がなかった。ただ、必死に、近づくものすべてを、遠ざけようとしている。それは、攻撃というより、悲鳴に近かった。
「……渡さない」守り人が、うずくまったまま、呟いた。掠れた、声だった。「これは……もう、誰にも、渡さない。……また、奪われるくらいなら」
「奪いになんて、来てない」陸は、風にあらがいながら叫んだ。吹きつける風が、頬を切る。それでも、陸は、一歩も退かなかった。「俺たちは、ただ……あんたに、会いに、来たんだ」
だが、守り人は、聞いて、いなかった。ただ、ふるえる腕で、本源を、いっそう強く抱きしめる。その姿は、何かに怯える幼子のようでも、あった。
陸は、そっと目を閉じた。そして、《幻視》で、彼女の心の奥を、覗き込んだ。
流れ込んできたのは。あまりにも、深い、悲しみだった。
かつて、この土地が豊かだった頃。守り人は、本源とともに人々を見守っていた。人々は、本源の恵みに感謝し、守り人を慕っていた。幸せな日々だった。
だが、人々は。次第に欲を出した。もっと、もっと、と。本源から力を奪いはじめた。守り人は、必死に止めた。これ以上は、土地が死んでしまう、と。……だが、誰も。もう、彼女の言葉を聞かなかった。
「もう、じゅうぶんだろう」と、守り人は、訴えた。だが、人々は、笑って、言った。「お前は、力を、独り占めしたいだけだ」と。あれほど慕ってくれた人々の、その変わりよう。守り人の胸は、引き裂かれるようだった。
そして。土地は涸れ、人々は去っていった。あれほど慕ってくれた人々が、守り人を置き去りにして。ひとり、また、ひとりと。誰も、振り返りさえしなかった。
最後に残ったのは。弱りきった本源と、裏切られた守り人。ただ、ふたりだけ。
守り人は。それでも、本源を守り続けた。もう誰も来ない、地の底で。いつか、また誰かが、この恵みを正しく使ってくれる日を、待って。
だが。何百年たっても、誰も来なかった。来るのは、力を奪おうとする者ばかり。そのたびに、守り人は、彼らを退け、いっそう深く心を閉ざしていった。その、あまりにも長い孤独の中で。彼女の心は、少しずつ凍りついていった。
――もう、誰も、信じない。
――もう、誰にも、渡さない。
そうして。守り人は。本源を、抱えたまま。悲しみの、殻に。閉じこもって、しまったのだ。
「……そうか」陸は、目を開けた。その瞳が、潤んでいた。「あんた、ずっと……たったひとりで守ってきたんだな」
裏切られても、忘れられても。それでも、彼女は、役目を投げ出さなかった。恨みではなく、ただ、いつか来る誰かのために。何百年も、待ち続けた。そのけなげさが、陸には、たまらなく切なかった。
「……もう、大丈夫だ」陸は、静かに、風の防壁へ語りかけた。「あんたは、もう、じゅうぶん頑張った。……今度は、俺たちが」
だが。守り人の、心の扉は。まだ、固く、閉ざされたままだった。何百年もの、孤独が。そう、簡単に、溶けるはずも、ない。渦巻く、風は。なおも、陸を、拒み続けている。
「……今日は、ここまでみたいだね」シィラが、静かに言った。「あの、心の氷は。一日で、溶かせる、ものじゃ、ない」
陸は、しばらく、そのうずくまる背中を、見つめていた。あと、少し。あと、少しで、手が届きそうなのに。
「……なあ」陸は、風の防壁の向こうへ、静かに話しかけた。「あんたを置いていった人たちの、ぶんまで。……俺が謝る。ごめんな、ひとりにして。ずっと寂しかったよな」
その言葉に。渦巻く風が、ほんの一瞬、ゆらいだ気がした。だが、すぐに、また固く。守り人は、心を閉ざしてしまう。何百年もの、孤独が。そう、簡単に、溶けるはずも、ない。
「……今日は、ここまでみたいだね」シィラが、静かに言った。「あの、心の氷は。一日で、溶かせる、ものじゃ、ない。……焦っては、いけないよ」
「わかってる」陸は、頷いた。無理にこじ開けては、いけない。それでは、力ずくで本源を奪った、あの人々と、同じになってしまう。
「……待っててくれ」陸は、守り人へ、静かに、誓った。「必ず、また、来る。次は……あんたの、その、凍った心ごと。あっために、来るから」
その言葉が届いたのか、どうかは、わからない。ただ、守り人は。ほんの少しだけ、抱きしめる腕の力を、ゆるめたような。そんな気が、した。
一行は、いったん、引くことにした。この、いちばん奥にも。ぽつりと、青い、守り火が、灯っていた。まるで、守り人の、そばに、寄り添うように。誰にも看取られない、彼女の、たったひとつのあたたかさのように。
「次で……決着だな」宗介が、呟く。
「ああ」陸は、頷いた。次こそ、あの凍った心を、溶かしてみせる。その決意を胸に。一行は、守り火のそばで、静かにログアウトした。
その頃、開発室では。
「三浦さん。……あのプレイヤー、最深部に、到達しました」こはるの声が、緊張していた。
三浦が、モニターに駆け寄る。そこには、本源の反応と、それを抱く、もうひとつの反応が映っていた。
「これは……キャラクター、なのか?」三浦が、目を、みはる。「こんな、キャラクター、実装した、覚えが……」
「いえ。……たぶん、これも」こはるが、首を振った。「あの遺跡が目覚めたときに、一緒に生まれた存在だと思います。……設定の断片だけを頼りに、“本源を守るもの”として」
三浦は、そのうずくまる反応を、じっと見つめた。長い長い孤独のデータ。それは、誰にも見つけられることなく、ずっとここで待っていた。
「……あの子なら」三浦は、ぽつりと呟いた。「あの子なら、きっと。……あの子を救ってやれる、気がするよ」
長いあいだ、誰にも必要とされなかった、ひとつの命。それが、いま、ようやく。見つけてもらえようと、している。
その、最後の、扉が。ひらくのは。もう、すぐ、だった。
ヘッドセットを外すと。窓の外には、静かな夜が、広がっていた。
陸は、しばらく、天井を、見上げていた。まぶたの裏に、まだ、あのうずくまる背中が、焼きついている。ずっと、ひとりだった、守り人。その凍った心に。どうすれば、届くのか。
ふと、スマートフォンに、柚希からのメッセージが、届いた。『守り人さん、どうだった?』その一言に。陸は、少し、迷って、返した。
『……まだ、届いてない。でも、次は、必ず。柚希も、一緒にな』
送信して。陸は、そっと、こぶしを、握った。次こそ。あの人を、ひとりに、しない。その思いを、胸に、抱いて。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ダンジョン編も、いよいよ、大詰めです。今回、ついに、最深部へ。そして、本源を抱く、守り人と、対面しました。
彼女は、かつて、人々に、裏切られ。土地が涸れても、たったひとり、本源を、守り続けてきました。……その、あまりに長い孤独が。彼女の心を、凍らせて、しまっています。「もう、誰にも、渡さない」。その言葉は、裏を返せば。「もう、誰にも、裏切られたくない」という、悲鳴、なのかもしれません。
陸は、その悲しみを、幻視で、知りました。けれど、心の氷は。一日では、溶けません。今回は、届かなかった。……でも、彼は、必ず、また来ると、誓います。「凍った心ごと、あっために来る」。……陸らしい、言葉ですね。
そして、柚希は、今回は、夜勤で、来られませんでした。でも、「守り人さんに、よろしく」という、優しい伝言を。次こそ、彼女も、一緒に。この長い旅の、決着を。見届けられると、いいですね。
次回、いよいよ、ダンジョン編、クライマックス。凍った心は、溶けるのか。どうぞ、見守っていてください。
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