第90話「地底の水鏡」
その日の夕方。陸が夕飯の支度をしていると。スマートフォンが鳴った。柚希からの電話だ。
「陸くん! 聞いて、やっと、明日、休みもらえたの!」
その弾んだ声に、陸は、思わず笑った。あの石の守り手の写真を送って以来、柚希は、ずっと悔しがっていたのだ。
「おお。じゃあ、明日の夜は参加できるな」
「うん! 絶対、行く。あたし抜きで、進みすぎないでよ?」柚希が、念を押す。「あの遺跡の続き、すっごく楽しみにしてたんだから」
「わかってるって。……無理は、すんなよ」
電話を切って。陸は、なんだか、あたたかい気持ちになった。仲間が増えるというのは、やはり、いいものだ。
翌日の夜。二層の守り火のそばに、仲間たちが集まった。
青い炎の光を浴びて。今日は、柚希の姿もある。ひさしぶりのダンジョンに、その顔は、わくわくと輝いていた。
「はー、やっと来られた!」柚希が、大きく伸びをする。「石の守り手、あたしも戦いたかったなあ」
「次は、もっとすごいのが、いるかもしれないぞ」宗介が、にやりと笑う。「その弓の出番も、きっと、あるさ」
「うん! まかせて」柚希が、愛用の弓“射手の眼”を、ぽんと叩いた。
「それにしても」柚希が、あらためて、あたりを見回す。二層の守り火。青い炎が、静かに揺れている。「この火のおかげで、こうやって、途中から、合流できるんだもんね。……便利だなあ」
「古い人たちの、知恵だな」陸は、微笑んだ。この守り火がなければ。柚希のように勤めのある者は、遺跡の探索に加われなかっただろう。誰かを待ち、誰かと合流する。この、あたたかな火は。そんな場所でも、あった。
守り火から、先へ。一行は、さらに、地の底へと、進んでいった。
しばらく下っていくと。ふいに、視界が、大きく開けた。
「わあ……!」
思わず、柚希が、声を、あげた。
そこは、途方もなく広い、地下の大空洞だった。天井は、はるか高く、闇に霞んでいる。そして、その底には――鏡のように静かな水面が、どこまでも広がっていた。
地底湖だ。
青白い光を放つ苔や鉱石が、洞窟のあちこちに灯っている。その光が、水面に映り込み。まるで、地の底に、星空が沈んでいるかのようだった。
「きれい……」柚希が、うっとりと見とれる。「こんな場所が、地下にあったなんて」
「昔の人も、この水を大切にしてたんだろうな」陸も、その美しさに息を呑んだ。
そのときだった。リヴァイアが、うれしそうに、その身を、くねらせた。
「お、リヴァイア。……そうか、ここなら」
海龍のリヴァイアは、水のある場所でこそ本領を発揮する。乾いた遺跡の中では、拠点で留守番することも多かった。だが、この広大な地底湖なら、存分に、その力をふるえる。リヴァイアは、待ちきれないというように。ざぶんっと、水面へ身を躍らせた。
その、静けさを。破るように。
ゴパァッ――と。地底湖のあちこちから、水柱が噴き上がった。水面を割って現れたのは、ぬらぬらと光る、巨大な水棲の魔物たちだ。大蛇のような体を、くねらせて。一斉に、こちらへ襲いかかってくる。
「うわっ、出た!」大和が、盾を、構える。
「足場が、狭い! 気をつけて!」雪乃が、叫ぶ。
一行がいるのは、水面から突き出した、わずかな岩場だ。踏み外せば、水の中。そこは、水棲の魔物の庭だった。
「みんな、固まって! ばらけると、囲まれる!」宗介が、鋭く指示を飛ばす。
そのとき、一体の魔物が、水中から岩場に体当たりしてきた。ゴンッと、鈍い震動。足場が、ぐらりと傾ぐ。
「きゃっ……!」
足を滑らせた雪乃を、とっさに、大和が、腕を掴んで引き戻した。
「あぶねえ……! みんな、絶対、落ちるなよ!」
だが。
「リヴァイア、頼む!」
陸の、呼び声に、応えて。地底湖の、王が、動いた。
ザバァァンッ! と。リヴァイアが、水面から躍り上がる。その巨体が、青白い光をまとい、襲いくる水棲の魔物へと突進した。ドプンッと、一体を水中へ押し込み。長い尾をしならせて、バシャァッと薙ぎ払う。水を得た海龍は、まさに無敵だった。
一体の大蛇が、リヴァイアの首に巻きつこうとする。だが、海龍は、ぐるんと身をひるがえし。ゴパァッと水柱を噴き上げて、その大蛇を振りほどいた。そのまま、鋭い牙で、ガプンッと噛みつき、水中深くへと引きずり込んでいく。
「すごい……リヴァイアが、あんなに!」柚希が、目を、見張る。
地の底の水を得て、ふだんは、おっとりした海龍が。まるで別の生き物のように躍動している。その姿は、頼もしく、そして、どこかうれしそうでもあった。
「柚希、上だ! 岩場に、上がってくるやつがいる!」
「わかった!」
柚希が、弓を構えた。“射手の眼”。ぎりり、と弦を引き絞る。岩場を這い上がろうとする水の魔物。その眉間めがけて、ヒュンッ、と矢を放った。
ズドッ! 矢は、狙いたがわず、魔物の眉間を射抜いた。魔物が、ぐらりと崩れ、水中へと沈んでいく。
「よし、命中!」
「さすが、柚希! 腕、鈍ってないな」宗介が、笑いながら。水面から跳ねてきた一体を、ザシュッと斬り伏せる。
続けざまに、柚希の矢が、宙を舞う。ヒュッ、ヒュッと。二の矢、三の矢が、水棲の魔物を、的確に射抜いていった。しばらくゲームに入れなかったとは、思えない。その腕は、少しも衰えていなかった。
大和が、盾で、魔物の突進を受け止め、ドゴンッと弾き返す。静が、《具現》で足場を広げ、味方の体勢を支えた。雪乃の回復魔法が、傷ついた仲間を癒やしていく。
ガロードは、剣を抜かない。だが、岩場に這い上がろうとする魔物へ、鋭い一瞥をくれる。将の覇気にあてられて、魔物が、ひるんだ。その隙を、すかさず、柚希の矢が射抜いていった。
「主は、指揮に専念せよ」ガロードが、静かに言った。「露払いは、我らの役目だ」
そして。
「ユニコーン。……水を清めてやってくれ」
陸が頼むと。純白のユニコーンが進み出た。その角から、清らかな光が放たれる。淀んでいた地底湖の水が、その光に触れて、すうっと澄んでいった。すると、暴れていた水棲の魔物たちが、ふいに、大人しくなった。
「……こいつら、水の穢れにあてられて、荒ぶってたのか」陸は、気づいた。ユニコーンの浄化の光が、魔物たちの荒ぶる心を鎮めていく。「そうか。……お前たちも、被害者、だったんだな」
清められた魔物たちは。もう、襲ってはこなかった。静かに、水底へと帰っていく。リヴァイアも、ふう、と一息ついて、満足げに水面へ浮かび上がった。
「ふう……助かったな、リヴァイア。ユニコーンも」陸は、二体の神獣を労った。
戦いのあとの地底湖は。ふたたび、鏡のような静けさを取り戻していた。青白い光が、澄んだ水面に映り込み、いっそう美しく輝いている。
「さて。……この湖、どうやって、渡るかな」
対岸へと続く道は、水面の向こうだ。歩いては渡れない。だが、よく見ると。水面には、点々と、古い石の足場が沈んでいた。
「これ……昔の人が作った、渡りの道かな」ハルが、覗き込む。
「ようだね」シィラが、頷く。「だが、水に、沈んでいる。……このままでは、渡れないよ」
そこで、リヴァイアが、ひと役買った。海龍が、水面を、ゆるやかに押し上げると。沈んでいた石の足場が、ひとつ、またひとつと、水面から顔を出す。古代の、渡りの道が、よみがえったのだ。
「よし、いける! みんな、足元に、気をつけて」
一行は、その石の道を、慎重に渡っていった。青白く光る水面を、踏むように進む。まるで、星空の上を歩いているかのような。そんな幻想的な道行きだった。
足元の水面には、青白い光の粒が、ゆらゆらと揺れている。柚希が、そっと手を伸ばして水に触れると。ぽちゃん、と澄んだ音が響き、波紋が、静かに広がっていった。その、ひとつひとつが。まるで、古い民の遺した記憶のように思えた。
「なんだか……この場所、生きてるみたいだね」柚希が囁く。
「ああ」陸も、頷いた。長いあいだ忘れられていた、地の底の水。それでも、この湖は。ずっと静かに、ここで澄み続けていたのだ。誰にも見られなくても。その美しさを、失わずに。
やがて、対岸に、たどり着くと。そこには、また、古い壁画が残されていた。
「これは……」陸が、その壁画を、見つめる。
壁画には、ひとりの女性が描かれていた。古い装束をまとい、両手で、大きな光る球を抱いている。あの、“大地の力の本源”だ。彼女は、その本源に寄り添い、まるで我が子のように、それを守っていた。
「この人……本源を守る、守り人みたいだね」柚希が、呟く。
「ああ」シィラが、頷いた。「古い民は、本源から力を奪いすぎた。……だが、この守り人だけは。最後まで本源のそばに残り、それを守り続けたのだろう」
壁画は、続いていた。人々が、豊かさに酔い、われ先にと、本源から力を汲み取っていく。その傍らで、守り人だけが、必死に手を広げ、人々を押しとどめようとしている。もう、やめて。これ以上奪えば、この土地が死んでしまう、と。
だが、誰も。その声に、耳を、貸さなかった。
「……止められなかったんだ」陸は、その壁画を見つめた。「たったひとりで。必死に止めようとして。……でも、届かなかった」
だが、次の、壁画は。もっと、悲しいものだった。
人々が去り、涸れ果てた土地。そのなかで、守り人は、ただひとり。本源を抱いたまま、うずくまっている。誰にも看取られることなく。長い長い孤独の中で。
「……守り人は、どうなったんだ?」大和が、不安そうに、訊く。
「わからない」シィラは、静かに首を振った。「けれど。……本源が、まだ、この、いちばん奥にあるのなら。もしかしたら」
そのさきを、シィラは言わなかった。だが、みんなの胸に、同じ予感がよぎった。
――本源のそばには、まだ。あの、守り人が、いるのかもしれない。
たったひとりで。何百年も。誰にも忘れられたまま。
「……行かないと、だな」陸は、静かに言った。その声には、いつものあたたかさがあった。「もし、まだ、その人がいるなら。……ひとりに、しておけない」
忘れられた、泉の主。涸れた土地。そして、この、守り人。……この土地の、悲しみは、すべて、繋がっていた。そのいちばん奥に。きっと、最後の、答えが、待っている。
もし、その守り人が、いまも、たったひとりで本源を抱いているのなら。どれほど長く、どれほど寂しく、その時を過ごしてきたのだろう。想像すると、陸の胸が、きゅっと痛んだ。
「必ず、会いに行くからな」陸は、地の底の闇の奥へ、そっと語りかけた。「もう少しだけ、待っててくれ」
その対岸の片隅に。また、あの青い炎が灯っていた。三層の守り火だ。
「今日は、ここまでだな」陸は、微笑んだ。「次は、いよいよ、いちばん奥かもしれない」
一行は、守り火のそばで、ほっと一息ついた。柚希が、その幻想的な地底湖を、名残惜しそうに見つめる。
「来られて、よかった。……ほんと、きれいだったなあ」
「写真、いっぱい撮っといたよ」陸が、笑う。「今度は、その目で見られて、よかったな」
「うん!」柚希が、うれしそうに頷いた。その横顔は、この地底湖の水のように、澄んでいた。
そして、柚希が、宗介たちが。守り火のそばで、ひとり、またひとりと、光の粒になって消えていく。今日の探索は、ここまで。陸も、最後に、ひとつ息をついて。そっと、目を閉じた。次は、この火から、また始められる。
青い炎が、静かに揺れる。地の底の、いちばん奥へ。そして、そこに眠る悲しみへと。あと、もう少し。一行の旅は、その核心へと近づいていた。
その頃、開発室では。
「三浦さん。例のプレイヤー、三層まで到達しました」こはるが、モニターを見て言った。「地底湖の、エリアです」
「ずいぶん、早いな」三浦が、感心する。「で、最深部は?」
「はい……」こはるの表情が、少し曇った。「あと、ひとつ下の層で、最深部です。そこに……ずっと動かない、大きな反応が、ひとつあります」
三浦が、モニターを覗き込む。最深部に、ぽつん、と灯る、ひとつの反応。それは、まるで、長いあいだ、そこでじっと動かずにいる、何か大きな意思のように見えた。
「……なんだろうな、これは」三浦が、呟く。「設定資料にも、はっきりとは載ってない。ただ、“本源を守るもの”、とだけ」
彼は、その静かな反応を見つめた。長い長い眠りの中にいる、何か。それが目を覚ましたとき、あの子たちは、いったい、何を見るのだろう。
「なあ、こはる」三浦が、ぽつりと訊いた。「この最深部の反応……“本源”のデータと、なにか繋がってるか?」
「はい。……ぴったり重なってます」こはるが、頷く。「まるで、本源を抱きかかえるみたいに。……この反応が、本源を包み込んでるんです」
三浦は、しばらく黙り込んだ。本源を抱く、何か。それが守るためなのか、あるいは、離すまいとしがみついているのか。画面越しには、わからない。
「……もうすぐ、だな」三浦は、静かに、呟いた。その声には、期待と、ほんの少しの緊張が、にじんでいた。
ヘッドセットを外すと。柚希から、すぐにメッセージが届いた。
『今日、ほんっとに、楽しかった! あの地底湖、一生、忘れないと思う。次で、いよいよ、最後なのかな。……なんだか、ちょっと、どきどきするね』
その文面に、陸も、静かに頷いた。地の底で、たったひとり待っているかもしれない、守り人。その人に会いに行く日が、もう、すぐそこまで来ている。
『ああ。……次は、大事な回になりそうだ。柚希も、来られるといいな』
そう返して、陸は、窓の外の夜空を見上げた。この星空の、ずっと下。地の底の、いちばん深くに眠る悲しみ。それを思うと、胸が、静かに疼いた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ダンジョン編、三話目です。今回、たどり着いたのは、地の底に広がる、美しい地底湖でした。星空を沈めたような、幻想的な光景を、想像していただけたら、嬉しいです。
そして、久しぶりに、柚希が、合流! 前回、悔しがっていた彼女も、今回は、しっかり、弓で、大活躍でした。水を得た、リヴァイアの、大暴れも。書いていて、楽しかったです。乾いた遺跡では、留守番の多かった彼ですが、地底湖では、まさに、水を得た魚。存分に、暴れてもらいました。
対岸で見つけた、壁画からは。この土地の、いちばん深い、悲しみが、見えてきました。……本源を、守り続けた、ひとりの、守り人。彼女は、いまも、地の底で、たったひとり、なのかもしれません。
次は、いよいよ、最深部。この、長い旅の、答えが、待っています。陸は、そこで、何を、するのか。……もちろん、彼のことですから。きっと、いつもの、やり方で。どうぞ、見守っていてください。
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