第82話「調べの笛」
朝から、しとしとと雨が降っていた。
陸が、たまった資源ゴミを出しに階段を下りていくと、踊り場で傘を片手にした柚希と鉢合わせた。これから、遅番の出勤らしい。
「あ、陸くん。おはよ」
「おはよう。……今日は、遅番か」
「うん。夕方から」柚希が、こくりと頷いた。それから、少しだけ恨めしそうに陸を見る。「昨日のダンジョン、あのあと、みんなで戦利品の自慢大会だったんでしょ。あたし、途中で落ちちゃったから、悔しくてさ」
昨夜の探索は、日付が変わる少し前にログアウトした。柚希は遅くまで起きていられず、宝を確認したところで先に眠りについたのだ。
「大丈夫だって。柚希のぶんも、ちゃんと確保してある」陸は笑った。「あの弓、すごいらしいぞ。“絶対に外さない”って」
「それ、逆に、つまんなくない?」柚希が、むうと唇を尖らせた。「あたしは、自分の腕で、狙って当てたいの」
その返しが、いかにも柚希らしくて、陸は思わず噴き出した。
「まあ、今夜は遅番だろ。慣らしは、また今度、柚希の休みにでもやろうぜ」
「うん、そうする」柚希が、名残惜しそうに頷いた。「あたしが行くまで、あの弓、大事にしまっといてね。……あと、みんなによろしく」
傘を広げて雨の中へ踏み出しながら、ひらひらと手を振る。「じゃ、いってきます」
その背中を見送って、陸も部屋へ戻った。今夜は柚希抜きか、と少し寂しく思う。だが、こればかりは仕方ない。彼女には、彼女の、守るべき仕事があるのだ。
その夜、ログインした陸は、いつものようにステータスを開いて――ぴたりと手を止めた。
「……あれ?」
数字が、上がっていた。
レベル41。昨日まで、たしか40だったはずだ。画面の隅には、小さな通知が灯っている。“探索達成報酬が、確定されました”。
「ああ、そうか」陸は、ぽんと手を打った。あの深い迷宮を踏破したことで、たまっていた経験値が、いま一気に確定したらしい。「上がってたのか」
のんきに呟いて、焚き火のほうへ歩いていく。すると、そこにいた宗介たちが、なにやらざわついていた。
「おい、陸。お前も見たか、これ」宗介が、自分のステータスを指して言う。その顔が、こわばっていた。「俺たち、Lv.40になってるぞ」
「あ、ほんとだ」陸は、のぞき込んで頷いた。「よかったな。大台じゃん」
「よかったな、じゃない!」大和が、頭を抱えた。「四十って……とんでもない数字なんだぞ。前に、頂点超えとか言われたときで、三十五だ。それを、五つも上に……!」
「人類が、到達したことのない領域よ」雪乃が、青い顔で言った。「これ、また大騒ぎになるんじゃ」
「っていうか、柚希のやつ、42になってるぞ」ハルが、フレンドの一覧を見て素っ頓狂な声をあげた。「あの子、いつもちゃっかり、あたしたちより上だよね……」
「あいつは、朝の空き時間にこまめに稼いでるからな」宗介が、苦笑した。「相変わらず、抜け目ない」
静は、いつものように無言だが、その目が、ほんの少しまんまるだった。自分のステータス画面をじっと見つめて、何度も数字を確かめている。よほど、信じられないらしい。
そのなかで、陸だけが、のんびりと構えていた。数字が一つ増えたくらいで、いつもの自分と何が変わるわけでもない。腹が減れば飯を食うし、眠くなれば眠る。むしろ、みんなが元気にレベルを上げられたことのほうが、素直に嬉しかった。あの深い迷宮を、誰ひとり欠けることなく、越えてこられた。その証が、この数字なのだから。
「まあ、細かいことは、いいじゃないか」陸は笑った。「それより、昨日の武器、慣らそうぜ。せっかくだからさ」
拠点の広場で、さっそく、新装備の試し撃ちがはじまった。
まず、大和が、例の大盾を構える。試しに、と大和が地面を軽く小突いただけで、地響きとともに、あたりの地面がぼこりと陥没した。
「……え」大和が、自分の盾を、まじまじと見た。「軽く、叩いただけだぞ?」
「盾で、地面が割れるって……」宗介が、呆れて言った。「防具の域を、超えてないか、それ」
「宗介の剣も、大概だよ」ハルが、指さす。宗介が試しに振った剣は、遠くの岩を、その斬撃の余波だけでまっぷたつにしていた。触れても、いないのに。宗介自身が、いちばん、ぎょっとした顔をしている。
「……なんだこれ。手応えが、なさすぎる」宗介が、剣を見つめて呟いた。「振っただけで、当たってもいない岩が、切れるのか」
雪乃が、白い杖をそっとかざす。しおれかけていた広場の草花が、みるみる生気を取り戻し、いっせいに花を咲かせた。「まあ……ふふ、これは、癒しにいいわね」
静が、腕輪をつけたまま、小さく指を鳴らす。ぼん、と、いつもの何倍もの炎が、遠くの的を跡形もなく吹き飛ばした。静は、ふうと息をつくと、こくりと満足げに頷いた。無口な彼女なりの、上機嫌のサインだった。
ハルは、外套をひるがえして、静の放った余波の炎に、わざと身をさらしてみせる。だが、炎は、彼女の体を、するりとすり抜けた。焦げひとつ、つかない。「うわ、ほんとだ。状態異常も、ダメージも、ぜんぶなかったことにされる。……これ、無敵じゃない?」
どれもこれも、規格外だった。
「うちの拠点、戦力だけなら一国の軍隊くらい、あるんじゃないか?」宗介が、乾いた笑いをこぼす。
「大げさだなあ」陸は笑った。だが、まわりの顔を見ると、誰も冗談だと思っていないようだった。むしろ、控えめに言ったほうかもしれない、という顔だ。
焚き火のそばでは、ガロードが、その騒ぎを目を細めて眺めていた。
「たいした武具だ。……だが、宝に振り回されるなよ、若いの」ガロードが、静かに言った。「刃の切れ味より、それを握る者の心のほうが、ずっと大事だ。……それは、うちの主が、いちばんよく知っておる」
その言葉に、みんなが、ふっと笑った。シィラも、煙管をくゆらせながら、うんうんと頷いていた。歴戦の二人に言われると、妙な説得力があった。
「そういや、陸は試さないのか」宗介が、剣を鞘に納めながら訊いた。「お前のドロップも、なんか、あっただろ」
そういえば、と陸は、自分の手のなかの品を思い出した。武器でも、防具でもない、あの古い笛だ。
「俺のは、これだからな。……戦うための、ものじゃない」
“調べの笛”。吹けば、その音が、あらゆる獣の心をやわらかくほぐす。そんな、いかにも自分らしい品だった。
「せっかくだ。ちょっと、吹いてみるか」
陸は、その笛をそっと口にあてた。息を吹き込むと――ひゅうう、と。澄んだやさしい音色が、夜の拠点に流れていく。
その音を聞いた瞬間、拠点の神獣たちが、いっせいに顔を上げた。
湖のほとりで寛いでいたリヴァイアが、うっとりと目を細めて、長い首をこちらへ伸ばしてくる。昨日のダンジョンは、水がないからと留守番だった海龍だ。その青白い鱗が、笛の音に合わせるようにほのかに明滅していた。空の高みを駆けていたアルシオンも、羽をたたんで、ふわりと陸の隣へ舞い降りる。こちらも、地下では出番がなかったぶん、甘えるように陸の肩へ頬を寄せてきた。
小夜が、五本の尾を、ゆらゆらと揺らして目を細める。モフは、ぐるぐると喉を鳴らし。グランは、その大きな体をぺたりと地面に伏せて、うっとりと聞き入っている。フェニクスが、頭のうえで、ぷすぷすと機嫌よさそうに炎をこぼした。みんなが、その音色に誘われるように、陸のまわりへ寄り集まってくる。
「わ……なにこれ、すごい」大和が、目を見張った。
それだけでは、なかった。
拠点の外の、森のほうから。木々をかき分けて、野生の魔物たちまでもが、そろりそろりと顔を出しはじめたのだ。ふだんは、人を警戒して、決して姿を見せない獣たち。それが、みな、うっとりとした顔で笛の音に聞き入っている。角の生えた大鹿も、毛むくじゃらの熊のような魔物も。敵も味方もなく、ただその調べに、心を預けていた。
「おいおい、なんだこの光景」宗介が、唖然とした。「森じゅうの魔物が、集まってきてるぞ」
「敵意が、まるでないね」ハルが、感心して言う。「これじゃ、戦うも、なにも……」
陸は、笛を吹きながら、なんだか可笑しくなってきた。伝説の武器で一国の軍隊なみの戦力を得た仲間たちの、その真ん中で。自分だけが、笛を吹いて、魔物と仲良くなっている。
でも――と、陸は思う。これでいい。これが、自分だ。
強い武器も、高いレベルも。あるに越したことはない。けれど。陸が、いちばん大事にしたいのは、きっとこういうことだった。目の前の誰かと、そっと心を通わせること。おびえた獣に大丈夫だよ、と手を伸ばすこと。それが、力ではなく信頼で、ここまで来た自分のやり方だから。
笛の音が、雨上がりの夜空に、いつまでもやわらかく響いていた。その音に包まれて、神獣も、魔物も、仲間たちも。みんなが、穏やかな顔で同じ時間を分かち合っていた。
拠点の中央では、先日植えたばかりの世界樹の苗が、その調べを浴びて、うれしそうに二枚の葉をそよがせている。まるで、この笛の音が、育っていくための栄養だとでもいうように。陸は、それを見て、ふっと目を細めた。この小さな樹も、いつか大きくなったら、こんなふうに、みんなをその葉陰に集めるのだろうか。
ひとしきり吹いて、陸が笛を下ろすと。集まっていた魔物たちは、名残惜しそうに、ぺこりと頭を下げて、また森へと帰っていった。
「……いい笛だな」陸は、しみじみと、その古い笛を撫でた。
きっと、あの迷宮の宝のなかで。この笛は、ずっと、自分を吹いてくれる誰かを待っていたのだろう。武器を振るう者ではなく。ただ、生き物の心に、寄り添える者を。
なんだか、その気持ちが、少しだけわかる気がした。
ふと、陸は、ここに柚希がいないことを、惜しく思った。この光景を見せたら、きっと、あの子は、目をきらきらさせて喜んだだろうに。集まった魔物の一匹一匹に、名前でもつけはじめたかもしれない。
「……今度、柚希にも、聞かせてやらないとな」陸は、笛を見て、ひとり呟いた。
次の休みには、あの弓の慣らしもある。そのついでに、この笛も吹いてみよう。あの子のことだから、また「自分の腕で仲良くなりたい」なんて、言うかもしれないが。それはそれで、いかにも柚希らしくて、悪くない。
「さあて」陸は、みんなを見回した。「じゃあ、慣らしの続きと、いくか。今度は、みんなの新装備で、ちょっとした腕試しでもしようぜ」
「よし、来た!」大和が、盾を構える。「見てろよ、この威力!」
こうして、レベルアップの夜は、賑やかに更けていった。強くなった仲間たちと、心を和ませる笛と。そのどちらもが、この大きな家の、かけがえのない宝だった。
その頃、開発室では。
「三浦さん……とうとう出ちゃいました」こはるが、モニターを見つめて、ごくりと唾を飲んだ。「あのギルド、全員のレベルが……Lv.40の大台を超えました。狙撃手の子に至っては、42です」
三浦が、コーヒーカップを片手にモニターを覗き込む。そこに並んだ数字は、このゲームの歴史上、誰も見たことのない領域に達していた。
「四十、ねえ」三浦は、ふうと息を吐いた。「前人未到の三十五を、あの子たちが超えたときもたまげたが。……今度は、そのはるか上か」
「これ、ランキングに載せていいんでしょうか」こはるが、おそるおそる訊く。「載せたら、たぶん、サーバーが、問い合わせでパンクします」
「そっとしておけ」三浦は、苦笑した。「本人たちは、どうせ、気にしちゃいない。……見ろ」
モニターのなかでは、規格外の装備を手にした一団の、そのど真ん中で、リーダーらしき青年がのんきに笛を吹いている。集まった魔物たちが、うっとりとその音に聞き入っていた。世界最高の戦力を誇る一団の拠点は、いまや、どんな戦場よりも、のどかな音楽会の会場だった。
「世界最強の戦力を、そろえておいて」三浦は、ふっと笑った。「やってることが、魔物との、音楽会とはな」
アルテのログが流れた。
アルテのログ:
「深い迷宮を越えた者たちに、
大いなる力が、宿った。
誰も届かなかった、はるかな高みへ。
伝説の刃も、難攻の盾も。
そのすべてを、手にしてなお。
男が選んだのは、一本の、古い笛だった。
その音色に、獣が集い、魔物が微笑む。
力ではなく、心で、世界とつながる。
それが、この最弱だった男の、
いちばん強い、生き方だった。」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
前回の、ダンジョン探索の翌日。今回は、その「ごほうび」を、みんなで味わう回でした。
まずは、レベルアップ。あの深い迷宮を踏破した経験値が、一気に確定して、ギルドのみんなが、ついにLv.40の大台を突破します。かつて「頂点超え」と言われたのが、Lv.35。それを、さらに、はるかに超えていく。……もっとも、当の本人たちは、陸をはじめ、あまりピンときていないようですが。そのあたりの温度差も、この物語の、お決まりの味わいです。
そして、手に入れた伝説の装備の、試し撃ち。盾で地面が割れ、剣の余波で岩がまっぷたつ。もう、なにがなんだか、という規格外っぷりを、楽しんでいただけたら嬉しいです。
そんな中で、陸が手にしたのは、戦うための道具ではなく、獣の心をほぐす、一本の笛でした。最強の武具に囲まれながら、ひとり、魔物と音楽会。……でも、それこそが、陸の選んできた道の、たどりついた形なのだと思います。力ではなく、心で、つながること。
にぎやかで、あたたかい、ごほうびの夜を。のんびり味わっていただけたら幸いです。続きも、どうぞよろしくお願いします。
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