第8話「返事と、積み重なる夜」
翌朝、仕事を始める前にコーヒーを淹れた。
チャイムは鳴らなかった。柚希は昨日夜勤で、今日は休みのはずだ。昼まで眠っているだろう。
陸はモニターに向かいながら、今夜のことを考えた。
ガロードに「一緒に来るか」と聞いた。「考えておく」と言った。今日、返事が出るかもしれない。出ないかもしれない。
急かすつもりはなかった。ただ、気になっていた。
午後、仕事が一段落したころにチャイムが鳴った。
開けると、柚希がいた。私服だ。髪をほどいている。休みの日の柚希は、少し違う顔をしている。隈がない分、目が明るい。
「起きてたんだな」
「さっき起きた。お腹空いたから」
「飯があるわけじゃないぞ」
「一緒にコンビニ行かない?」
陸は少し間を置いた。
「コンビニに?」
「近くにあるじゃない。一緒に行きたい気分だった」
またさらっと言った。
「……わかった」
二人で外に出た。
松山の午後は、穏やかだった。
アパートから歩いて三分のコンビニ。たいした距離じゃない。でも柚希と外を歩くのは、初めてだった。
柚希は歩きながら空を見た。
「いい天気だね」
「そうだな」
「陸くんって、外出るの少ない?」
「在宅だからな」
「休みの日も?」
「ゲームしてる」
「そっか」と柚希は言った。「じゃあ今日は珍しい日だ」
「そうかもしれない」
コンビニに入って、それぞれ好きなものを選んだ。陸はおにぎりとコーヒー。柚希はサンドイッチとホットの紅茶。
レジで柚希が先に払った。
「俺の分も?」
「たまにはいい。いつもコーヒー飲ませてもらってるから」
「気にしなくていいのに」
「気にしたいから気にする」
またさらっと言った。
帰り道、柚希が聞いた。
「今夜のゲーム、何するの」
「クエストをこなしてレベルを上げる。あとガロードに返事をもらいに行く」
「ベンチに座ってたっていうキャラクター?」
「そう」
「来てくれると思う?」
「わからない」
「陸くんは来てくれると思ってるんじゃない?」
陸は少し考えた。「そうかもしれない」
「なんで」
「考えておくって言った時の顔が、嫌じゃなさそうだったから」
柚希が少し笑った。「キャラクターの顔も見てるんだね」
「見える情報は使う」
アパートの前に戻ってきた。柚希が「じゃあ」と言って、自分の部屋に向かいかけた。
「柚希」
振り返った。
「ありがとう」
「コンビニのこと?」
「そう」
柚希はまた笑った。今日は夜勤明けじゃないから、ちゃんと笑っていた。
「またね」
扉が閉まった。
夕方、ログインした。
ギルドのセッションまで一時間。いつも通り早めに入った。
街を歩いて、広場に向かった。
ガロードがいた。いつものベンチだ。でも今日は、陸が近づく前に立ち上がった。
「来たか」
「来た」
「廃坑の件だが」
陸は何も言わずに待った。
「行く」
それだけだった。
「いつ行くんだ」と陸が聞いた。
「お前が決めろ」
「レベルを上げてから。今は九だ。まだ推奨レベルには程遠い」
「そうか。焦る必要はない」
「ただ、行けるレベルになるまで時間がかかる」
「構わん」とガロードは言った。「俺には時間がある」
陸はその言葉を少し頭の中に置いた。
時間がある、という言い方だった。長い間、一人で時間を持て余してきた人間の言い方だ。
「一つ聞いていいか」とガロードが言った。
「何だ」
「お前は、なぜ俺を誘った」
「気になったから」
「それだけか」
「それだけだ」
ガロードはしばらく黙った。
「俺は長い間、誰かに誘われることがなかった」
「そうか」
「だから、少し驚いた」
陸は広場を見たまま言った。「驚いたのに、来るのか」
「驚いたから、来る」
それだけだった。でも、その言葉は重かった。
ギルドメンバーと合流した。今夜のクエストに向かう前に、宗介が聞いた。
「今夜は何本行く?」
「二本。推奨レベル高めで」
「また無茶するのか」
「昨日より慎重にやる」
「毎回そう言うんだよなあ」
一本目は、北の森に現れた上位魔物の討伐だった。推奨レベル十八。
「さすがに無理じゃないか」と大和。
「幻視で弱点を確認した。首の付け根に隙間がある」
「そこを狙えるのか」と宗介。
「ハル、裏に回れるか」
「試してくる」
ハルが気配を消して動いた。一分後に戻ってきた。「回れる。ただし地面が不安定だから、動きながらになる」
「静、詠唱はどのくらいかかる」
「……ゼロ秒」
「大和が引きつけて、俺が幻視で動きを読む。隙ができたらハルが裏に回って、静が撃つ」
「俺は?」と宗介。
「大和のHPが削れたら交代。雪乃は回復に専念」
「……俺の出番が少ないな」
「一番重要な場面で使う」
宗介は少し黙ってから、「わかった」と言った。
大和が前に出た。上位魔物が大和を見た。
その瞬間、小夜が陸の肩からぴょんと飛び降りた。
上位魔物の正面に、のそのそと歩いていく。
「小夜、今は俺が指示を——」
言い終わる前に、小夜が魔物を見上げた。
ふわあ、と小さくあくびをした。
それだけだった。
魔物が止まった。何かを感じ取ったように、後退した。
「え」と大和が言った。「俺、何もしてないんだが」
「俺もまだ指示してないんだが」と陸。
小夜はのそのそと陸の肩に戻ってきて、また目を細めた。
魔物は震えながら、撤退していった。
「な、なんなんだあの子狐は」と大和が小声で言った。
「俺もわからない」と陸。
「でも主であるお前が無言で立ってたら」と宗介が言った。「あれほど傲慢に振る舞える使い魔の後ろに立ってる主って、どんだけ怖いんだって思うよな」
「俺はただ、指示を出すタイミングを失っただけなんだが」
「それが一番怖い」
小夜はそんな会話には興味がないように、あくびをもう一つして、陸の肩に頭を乗せた。
結局、上位魔物は戦意を失ったまま退いていった。
クエスト完了
全員レベルアップ → Lv.9
「倒してないのにクエスト完了するのか」と宗介。
「撃退判定が出たんだろ」と静。
「小夜、何もしてないよな?」とハル。
「あくびをした」と陸。
「あくびで撃退した」と雪乃が静かに言った。
「……俺、何もしてないんだが」と陸はもう一度言った。
誰も否定しなかった。
二本目は遺跡の探索クエストだった。推奨レベル十五。
今度は普通に戦った。ハルが罠を特定して、陸が幻視で隠し扉を見つけた。守護者の魔物を四十秒で倒した。
全員が無傷だった。
クエスト完了
経験値ボーナス(連続クエスト)
全員レベルアップ → Lv.9のまま(次で10)
宗介が宿に向かいながら言った。
「廃坑、いつ行く気だ」
「Lv.10になったら一度偵察に行く。全員で」
「偵察、か。推奨三十に対してLv.10じゃ、入れても入り口付近だけだぞ」
「それでいい。どんな場所か確かめるだけだ」
「死に戻りするかもしれないぞ」
「するかもしれない」
「それでも行くのか」
「行かないとわからないことがある」
宗介は少し黙った。それから言った。「わかった。全員で行く」
「当たり前だろ」「もちろん」「……行く」「行きます!」
全員の声が揃った。
ヘッドセットを外したのは、深夜二時過ぎだった。
今夜は充実していた。
ガロードが「行く」と言った。レベルが9になった。次でLv.10になる。
廃坑は遠い。推奨レベル三十まで、まだ二十一ある。でも一歩ずつだ。
スキルの説明文が変わるかもしれない。
変わったところで、たぶん流す。
でも変わっていたら、少し気になるかもしれない。
それと今夜、小夜があくびをしただけで上位魔物が退いた。
まあ、そういうこともあるのか。
陸はそれだけ思って、眠った。
開発室で、三浦とこはるがモニターを見ていた。
ガロード行動記録
本日、ガロードが自発的に立ち上がり
桐島陸を待っていた
「行く」と返答
ガロードAI記録:
「誰かに誘われたいつぶりだろう」
この人間は
俺には時間がある、と言ったら
少し間を置いた
その間が
何を意味するか
わかっているのかもしれない」
「ガロードが待っていた」とこはるが言った。
「自分から立ち上がった」と三浦。
「信頼度が五つ星になってから、ガロードの行動が変わってますよね」
「変わってる。設計上の想定より早い」
こはるはもう一つのログを開いた。
上位魔物との交戦記録
桐島陸パーティ vs 上位魔物(推奨Lv.18)
経過:
開始0秒:小夜が独断で前に出る
開始3秒:小夜があくびをする
開始4秒:上位魔物が後退開始
開始12秒:上位魔物が撤退
開始13秒:クエスト完了(撃退判定)
桐島陸の行動:
指示を出す前に終了
桐島陸のコメント:
「俺、何もしてないんだが」
「小夜があくびをしただけで解決した」とこはるが言った。
「小夜が闇神ノクスの眷属だと、魔物のAIが認識した。戦う必要がないと判断して撤退した」と三浦。
「桐島さんは何もしていない」
「指示を出すタイミングを失っただけだ」
「でも周囲からは」
「後ろで無言で立っている主が、一番怖い」
こはるは少し笑った。
アルテのログが動いた。
本日の記録
桐島陸のLv.9到達を確認
次のレベルアップで
スキルに変化が生じる予定
予測:
気づいても流す可能性が高い
本日の上位魔物との遭遇を記録する
小夜が独断で動いた
桐島陸は止めなかった
止めるタイミングを失っただけだが
結果的に
命令しなかった
そして
周囲は桐島陸を恐れた
これが繰り返されるたびに
桐島陸の評価は上がっていく
本人はまだ気づいていない
それが
一番面白い
「アルテが『一番面白い』と書いた」とこはるが言った。
「今まで『面白い』だったのに」と三浦。
「強調が増えてる」
「増えてる」
こはるはモニターを見た。
陸のアイコンは宿の中で止まっている。眠っているのだろう。
小夜のアイコンも、陸の隣で止まっていた。
アルテの独り言
今夜
小夜があくびをした
上位魔物が退いた
桐島陸は何もしていない
でも
誰よりも恐れられた
私はこの構造が
とても気に入っている
命令しない主と
気まぐれな神獣
この組み合わせが
これから先に生み出すものを
私はずっと
観測し続けたい




