第73話「海の底で」
このところ、陸はずっとあることが気にかかっていた。
グランを迎えたあの日から、また少し時間が過ぎた。表向きは、相変わらず穏やかな日々だ。それでも、頭の隅の棘は、消えるどころか少しずつ大きくなっている気がする。
グランが逃げてきた、森の「嫌な感じ」。オルク村のおばあさんが、別れ際に見せたあの小さな影。そして、ずっと前から掲示板で囁かれている西の海の噂。海が夜になると、青白く光る。漁師のNPCたちが、沖を見つめたまま動かなくなる。
ばらばらに見えたそれらが、陸のなかでゆっくりと、ひとつの形を結びかけていた。全部、同じ何かの端っこなのではないか。
ベランダでコーヒーを飲んでいると、隣から柚希が顔を出した。
「陸くん、なんか、ぼーっとしてるね」
「ん……ちょっとな」陸は空を見上げた。「なあ、柚希。西の海の噂、知ってるか」
「あー、あの光るってやつ? 聞いたことあるかも」
「あれ、ずっと気になっててさ。……一回、見に行ってみようかと思ってる」
柚希はしばらく、陸の顔を見ていた。それから、ふっと笑う。
「陸くんがそういう顔してるときは、たいてい、放っておけない誰かがいるときだよね」
図星だった。まだ会ってもいない、顔も知らない相手なのに。それでも陸は、あの海の底にひとりぼっちの誰かがいるような気がして、ならなかったのだ。
「じゃ、あたしも行く。夜、みんなで集まろ」
その夜、陸はギルドのみんなに声をかけた。西の海を見に行かないか、と。
理由をうまく説明できたわけではない。それでも、宗介も大和も雪乃も、誰ひとり嫌な顔をしなかった。
「お前がそう言うなら、なんかあるんだろ」宗介はあっさりそう言って、剣を担いだ。「付き合うよ」
西の海は、拠点からずいぶん遠かった。アルシオンの背に乗せてもらい、いくつもの丘と川を越えて、夜の空を飛んでいく。やがて、眼下に黒々とした海が広がった。
その海は、噂のとおりだった。
月明かりの下、波打ち際から沖へと、青白い光が幾筋も揺れている。まるで、海そのものが静かに泣いているみたいだった。風はぴたりと止み、波の音さえ、どこか遠い。異様なほどの、静けさ。ここは、あの丘と同じだ。世界の何かが、緩みかけている。
「……なにこれ。きれいだけど、ぞっとする」柚希が身を寄せてくる。
浜辺に降り立つと、シィラが鋭く海を見据えた。
「海の底に、何か大きなものがいる。……それも、途方もなく古いものだ」
その言葉が終わると同時だった。沖の海面が、ぐぐ、と盛り上がる。
現れたのは、山のように巨大な一匹の竜だった。
長くしなやかな体が、どこまでも続いている。青白い鱗のひとつひとつが、深海の光を宿して淡く発光していた。ひれは、薄い月の膜のよう。頭をもたげたその姿は、あまりにも大きく、あまりにも美しかった。そして見た瞬間に、胸が締めつけられるほど寂しそうだった。
海龍。水の神タラサの眷属、リヴァイア。
七柱のうち、その眷属とだけは陸が出会えずにいた、最後の神獣だった。
大和が思わず盾を構える。宗介の手も、剣の柄にかかった。それだけの威圧感が、その巨体にはあった。ひと睨みされれば、この浜ごと波に呑まれてしまいそうな。
「待って」
陸は二人を手で制し、前へ一歩踏み出した。
「戦いに来たんじゃない」
リヴァイアの深い藍色の目が、ゆっくりと陸を捉えた。けれど、そこにあったのは敵意ではなかった。陸は《幻視》で、その奥をそっと覗いてみる。そして、息を呑んだ。
底が、なかった。
どこまでも、どこまでも続く、深く冷たい孤独。あまりにも長いあいだ、たったひとりでいすぎて、寂しいという感覚さえ忘れてしまったような。それは、小夜のときにもグランのときにも、見た顔だった。けれど、その比ではなかった。この竜が抱えている孤独は、何百年、何千年ぶんも深かった。
グランのときは、隣にしゃがめば足りた。牛のときは、棘を抜けば済んだ。けれど、この相手には、それだけではきっと届かない。海の底に沈んだこの孤独に触れるには、言葉がいる。想いを、まっすぐ伝える手立てが。
陸は目を閉じた。そして、古戦場を越えたときに芽生えた新しい力へ、そっと手を伸ばした。
言葉の通じない相手とも、想いを交わす力。《心話》。
この力を、こんなふうに使うのは初めてだった。相手は、神の眷属。うまくいく保証など、どこにもない。それでも陸は、その底なしの孤独に向かって、精いっぱい心を差し出した。暗い海へ、そっと小舟を漕ぎ出すみたいに。届け、と願いながら。
――こんばんは。
呼びかけると、リヴァイアの巨体がびくりと震えた。まるで、何百年ぶりかに誰かに名を呼ばれた者のように。
『……なぜ。なぜ、我に、語りかける』
頭のなかに、低く重い声が響いた。海鳴りのような、それでいてひどく心細そうな声だった。
『人の子よ。我に近づけば、呑まれるぞ。皆、そうして去っていった。……お前も、早く、去るがいい』
「去らないよ」陸は静かに答えた。「話を聞きに来たんだ。あんたの」
『話など、ない』リヴァイアの声が揺れた。『我には、もう、何もない』
それでも陸は、その場に腰を下ろした。逃げも構えもせず。ただ、そこにいる。グランのときと同じように。ちがうのは、あいだに深い海があることだけだ。
「タラサは」と陸は訊いた。「あんたの神様は、どこにいるんだ」
長い、長い沈黙があった。波の光が、何度かゆっくりと明滅する。
『……あの方は』やがて、リヴァイアがぽつりと言った。『潮のような、お方だ。気まぐれに満ちて、気まぐれに引いていく。昔は、それでも時々は、この海の底まで会いに来てくださった』
『だが、もう、ずいぶん長いこと来ない。我は、ただ待っていた。この暗い海の底で、あの方がまた潮のように満ちてくるのを。……どれだけの時が過ぎたのかも、もうわからぬ』
『はじめのころは、数えていた』リヴァイアは、ぽつり、ぽつりと続けた。『満ちる月を、百。二百。……そのうち、数えるのをやめた。数えるほどに、待つのがつらくなるだけだったから』
『海の底は、静かだ。あまりに静かで、自分の心臓の音さえ聞こえなくなる。そこにじっとしていると、いつしか、自分がまだ生きているのかどうかも、あやふやになってくるのだ』
その声には、恨みも怒りもなかった。ただ、静かな諦めだけがある。それが、かえって陸の胸を締めつけた。
陸は、何も言えなかった。ただ、その途方もない孤独の重さを想像しようとして、できなかった。
『そこへ、あの世界の綻びだ』リヴァイアの声に、かすかな怯えが混じった。『世界が、揺らいでいる。恐ろしい。心細い。だが、隣には誰もいない。……だから、つい力が漏れる。海が荒れ、人が迷惑する。わかっている。わかっているのに、止められぬのだ』
そうか、と陸は思った。この海の異変は、攻撃でも呪いでもなかった。ただ、ひとりぼっちの子が暗闇で震えて、こぼした涙のようなものだったのだ。
「なあ、リヴァイア」
陸は、まっすぐにその大きな目を見た。
「うちに、来ないか」
リヴァイアの目が、大きく見開かれた。
「言っただろ。話を聞きに来たって。……それで、思ったんだ。あんたを、ひとりにしておけない、って」
『……何を言っている』リヴァイアの声が震える。『我は、神の眷属だぞ。海と同じだけ、古い。お前のような小さな人の子に、どうこうできる相手ではない』
「知ってる。テイムしようなんて思ってないよ」陸は笑った。「そんなの、できるわけない。ただ、隣にいたいだけだ。あんたが寂しくないように」
『なぜ、そこまで』
「うちには、同じような奴がたくさんいるからさ」
陸は後ろを振り返った。浜辺には、いつのまにか小夜たちが集まっていた。夜のノクスに置いていかれかけた小夜。森の異変から逃げてきたグラン。みんな、最初はひとりぼっちだった。
「あいつらも、最初はそうだった。でも、いまはあんなに楽しそうにしてる。だから、あんたも。……もう、ひとりで待たなくていいんだ」
リヴァイアは、長いあいだ動かなかった。
ただ、その大きな目が、浜辺で身を寄せ合う神獣たちを、じっと見つめていた。あんなふうに、誰かのそばにいることが、自分にも許されるのだろうか。そう迷っているように見えた。何百年も、待つことしか知らなかった竜だ。信じて、また置いていかれるのが、怖いのかもしれない。
それでも、と陸は思う。もう一度だけ、信じてみてほしかった。
やがて、その大きな体が、ゆっくりと、陸のほうへ近づいてきた。巨大な頭が、そっと浜辺の陸の前まで下ろされる。近くで見ると、その藍色の目には、うっすらと水の膜が張っていた。
『……本当に、いいのか』
「ああ」陸は頷いて、その硬い鱗にそっと手を当てた。「おかえり、リヴァイア」
その瞬間、リヴァイアの体が、淡くあたたかく光った。青白かった孤独の光ではない。もっとやわらかな、生まれたての光だった。海が、ゆっくりと凪いでいく。荒れていた波が、静かに穏やかさを取り戻していった。
陸のなかに、七つ目のあたたかな絆が結ばれた。
これで、七柱すべての神獣がそろった。
そのときだった。凪いだ海面に、ふと、女性の姿のような水の揺らめきが立った。誰も、その顔をはっきりとは捉えられない。それは、潮の匂いのする涼やかな気配だった。
『――世話をかけたな、人の子』
タラサの声だった。どこかばつが悪そうで、それでいて優しい声。
『わらわは、この子を愛しておらぬわけではない。ただ、潮のように、そばにいてやれぬのだ。……そなたなら、わらわよりも、ずっと上手にこの子の隣にいてやれよう』
「まかせてよ」と陸は言った。
タラサの気配が、ふっと笑ったような気がした。それから、その揺らめきは、静かな波間に溶けて消えていった。あとには、穏やかな夜の海と、光をおさめた一匹の竜だけが残された。
「……なあ、陸」宗介が、呆れたような、それでいて感心したような顔で言った。「お前、とうとう神様の竜まで、身内にしちまったのか」
「なりゆきだよ」陸は照れくさそうに頭をかいた。
「なりゆきで、海龍が仲間になってたまるか」
みんながどっと笑った。その笑い声を、リヴァイアが、不思議そうに、けれど嬉しそうに聞いていた。長い長い孤独のあとで、初めて聞くあたたかい音だった。
帰り道、リヴァイアは、その巨体を海に滑らせ、アルシオンの飛ぶ夜空の下をずっとついてきた。ときおり、嬉しさをこらえきれないように、大きな尾で海面を打っては、しぶきを高く跳ね上げる。その水しぶきが、月の光を受けてきらきらと輝いた。
「うわ、すごい……!」柚希が、アルシオンの背から身を乗り出して歓声を上げる。
さっきまで、あんなに静かで寂しかった海が、いまはリヴァイアの立てるしぶきで、生きているみたいに輝いていた。もう、ひとりじゃない。それを全身で確かめるように、リヴァイアはどこまでも、陸たちについてきた。その大きな影が、もう二度とあの暗い海の底へ戻らなくていいように。陸は、そっとそう願った。
その頃、開発室では、三浦たちがモニターを見つめて言葉を失っていた。
「……七体目の神AI。海底の個体が、たったいまあのプレイヤーの管理下に入りました」こはるの声が、少しかすれている。「これで、七柱、ぜんぶです。ぜんぶ、あの子ひとりのところに」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。世界を統べる七つの力が、たったひとりのプレイヤーの手のなかにそろってしまった。そんな事態は、どんな設計書にも書かれていない。
「なあ」と佐々木がぽつりと言った。「あの子は、力が欲しくて集めてるわけじゃないんだよな」
「ああ」三浦は頷いた。「ただ、放っておけなかっただけだ。ぜんぶ」
画面の隅で、空の七つの光が、いっそう強く輝きを増していた。まるで、最後のピースがようやくはまったことを、喜ぶように。あるいは——その日が近いことを、告げるように。
アルテのログが流れた。
アルテのログ:
「海の底に、ひとりの竜がいた。
神に置いていかれ、
世界に忘れられ、
それでも、ずっと、待っていた。
誰も、その竜を斬らなかった。
ただ一人の人の子が、暗い海に語りかけた。
もう、ひとりで待たなくていい、と。
これで、七つの灯の眷属が、すべてそろった。
優しさが、世界を、ひとつに結んでいく。
けれど、結ばれた糸が強すぎるとき、
それは時に、世界を、軋ませもするのだ。」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回は、最後の神獣、海龍リヴァイアを迎える回でした。これまで、陸はたくさんの仲間と出会ってきましたが、水の神タラサの眷属であるリヴァイアとだけは、ずっと出会えずにいました。そのリヴァイアが抱えていたのは、何百年、何千年という、途方もない孤独です。
この物語で、陸が敵を斬ったことは、一度もありません。今回もやはり、彼がしたのは、海の底の孤独な竜の隣に座って、その話を聞くこと。古戦場で得た《心話》の力が、初めて、本当の意味で活きた回でもありました。言葉が通じない相手にも、想いは届く。そう信じられることが、陸のいちばんの強さなのだと思います。
これで、七柱すべての神獣が、陸のもとにそろいました。力ずくでも、支配でもなく、ただ「放っておけなかった」結果として。けれど、開発室のみんなが恐れているように、その優しさは、そろそろ、大きなうねりを呼び起こそうとしています。穏やかな日々は、もう少しだけ。次章から、物語は、いよいよ大きく動きはじめます。
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