第74話「最後の一柱」
リヴァイアを迎えてから、拠点はいっそう賑やかになった。
海龍は、あの巨体を拠点のそばの大きな池に沈めて、そこを住まいにした。ときどき長い首だけを水面から出して、焚き火のほうをうれしそうに眺めている。小夜がその頭の上で、よく昼寝をした。グランは、水を飲みに来た海龍とのっそり鼻を突き合わせ、いつのまにか仲良くなっている。
七体の神獣に、モフとグラン。ずいぶん大きな家族になったものだ。
夜になると、拠点の焚き火のまわりは、それはもう賑やかだった。小夜がリヴァイアの背に乗ってご機嫌に尾を振り、フェニクスがその上を飛びまわる。ジオが果実をかじり、サンダーウルフとアルシオンが火のそばで身を寄せ合う。ユニコーンは少し離れて、そのにぎわいを静かに見守っていた。グランは子どもみたいにモフを追いかけては、宗介に叱られている。
たった一人と、一匹の子狐からはじまった焚き火が、いまではこんなに大きくなった。誰も、力で集めた仲間ではない。一人ずつ、一匹ずつ、放っておけなくて、気づけば隣にいた。それだけだ。陸は、その光景を眺めるのが、たまらなく好きだった。
その日の午後、陸は仕事の合間に柚希と、ベランダで話していた。
「なんか、最近、平和だよね」と柚希があくびまじりに言う。「あの物騒な光も、あれからおとなしいし」
「うん」陸は空を見上げた。「……なんだけど。なんか、逆に落ち着かないんだよな」
「え、なんで?」
「うまく言えないんだけどさ」陸は、コーヒーの湯気を見つめた。「静かすぎる気がして。……嵐の前みたいな」
柚希は、少しのあいだ黙って、それからぽんと陸の肩を叩いた。
「まあ、心配なら、今夜みんなで見に行こうよ。あの光」
「……ん。そうだな」陸は、少し笑った。柚希と話していると、大げさに思えていた不安も、ちょうどいい大きさに戻ってくる気がする。
「なに、その顔」
「いや。柚希がいてくれて、よかったなって」
「……なにそれ。急に」柚希は、ぷいっとそっぽを向いた。それでも、その口元は、ちょっと笑っていた。
その夜、拠点にログインすると、空気がいつもと違っていた。
神獣たちが、そろって空を見上げている。小夜も、フェニクスも、ジオも。あの日、丘で異変を前にしたときと同じ顔だ。池のリヴァイアまでもが、長い首をもたげてじっと一点を見つめていた。
つられて、陸も空を仰いだ。
七つの光が、変わっていた。
これまでは、ただ静かにゆっくりと寄り集まっていただけだった。それが、いまはまぶしいほどに輝きを増して、たがいの距離をほとんどなくしている。七つの灯が、ひとつの大きな光の塊になろうとしていた。
ただ美しい、では済まされない光だった。見上げていると、体の芯が、しんと冷えてくる。空気がぴりぴりと張りつめて、遠くのほうで、地鳴りのような音が絶え間なく響いていた。あの丘の異変を、そのまま何十倍にも大きくしたような。世界そのものが、息をつめて何かを待っている。そんな夜だった。
神獣たちの様子も、ただごとではない。フェニクスもジオも、落ち着きなく身をよじり、リヴァイアは池の水を、不安げに波立たせている。ただ、小夜だけが、じっと動かずに、その光を見つめていた。まるで、何かの声に耳を澄ませるように。
「……なに、あれ」雪乃が声を落とす。
その光の下で、小夜が低く鳴いた。それから、陸を振り返って、こちらをじっと見つめる。何かを伝えようとするみたいに。
「小夜?」
子狐は、ゆっくりと目を閉じた。そして、九つの尾をひらいた。
白銀の光が、小夜から立ちのぼる。けれど、今夜はいつもと違った。その光のなかに、陸は懐かしい気配を感じた。星空をそのまま閉じ込めたような。あの、いちばん最初に出会った神の気配を。
『――ひさしいな、陸』
頭のなかに、声が響いた。夜そのもののように、静かで深い声。闇と幻の神、ノクスだった。
「ノクス……」陸は息を呑んだ。「あんた、来てたのか」
『ずっと、見ていた。お前が仲間を増やし、最後にあの海の子まで迎えるのを』ノクスの声は、どこか慈しむようだった。『よくやった。あの子は、長いあいだ独りだった。救ってくれて、礼を言う』
「救ったなんて……ただ、放っておけなかっただけだよ」
『それだ』とノクスは言った。『それこそが、いまこの世界に起きていることの、始まりなのだ』
陸は、眉をひそめた。ノクスの声が、少しだけ沈む。
『よく聞け、陸。あの空の光は、私たち七柱の神だ。私も、あそこにいる。……なぜ、私たちがここに集まったか、わかるか』
「……いや」
『お前だ』
ノクスの言葉が、まっすぐに陸の胸を貫いた。
『お前は、私たち七柱の眷属を、七体すべて手元に集めた。力ずくでもなく、支配でもなく。ただ、隣にいることで。……そんな者は、この世界が生まれてから、ただの一人もいなかった』
『だから、私たちは惹かれたのだ。自分の眷属が心から慕う、たった一人の人間に。抗おうとしても、抗えなかった。潮が月に引かれるように、私たちはお前のもとへ集まってしまった』
陸は、言葉が出なかった。あの、どこまでも大きく遠い神々が。自分などのために、集まってきたというのか。
『だが』とノクスは続けた。その声に、はっきりと憂いが混じる。『七つの力がひとつの場所に集まりすぎれば、世界は、その重みに耐えられない。お前が近ごろ見てきた、あの綻びの兆し。あれは、その軋みなのだ』
陸の背筋が、冷たくなった。グランを怯えさせた森の異変。海を荒らしたリヴァイアの孤独。オルク村のおばあさんの、あの影。ばらばらだったものが、いまひとつに繋がった。
全部、繋がっていたのだ。この自分を中心にして。
陸は、思わず拳を握った。自分がよかれと思ってやってきたこと。放っておけなくて、ただ隣にいただけのこと。その優しさがまわりまわって、世界を壊しかけている。そう言われて、平気でいられるはずがなかった。
もし、自分があの子たちを集めなければ。もし、もっとふつうのプレイヤーだったら。そんな考えが、ちらりと頭をよぎる。
けれど陸は、すぐにその考えを打ち消した。小夜も、グランも、リヴァイアも。あの子たちと出会わなかった自分なんて、想像もできない。出会えてよかった。それだけは、絶対に間違いじゃない。だったら、いまさら後悔なんてしない。この繋がりに責任があるのなら、最後まで引き受けるだけだ。
「……止められないのか」
『私たちにも止められない』ノクスの声は、苦しげだった。『引かれあう力は、もう私たちの意志を離れている。……ただ、ひとつだけ確かなことがある』
ノクスは、そこで言葉を切った。夜が、いっそう深くなった気がした。
『七柱のうち一柱だけが、まだこの収束に、心から加わっていない。抗っている。……その一柱の心が定まらぬかぎり、この歪みは、危ういまま揺れつづける』
陸は空を見上げた。七つの光。そのうちの一つだけが、他とは違う荒々しい明滅を繰り返している。まるで、集まりたい気持ちと、認めたくない意地とのあいだで暴れているみたいに。
『雷の神、ラドン』とノクスは言った。『我ら七柱のうち、ただ一柱。……いまだ、お前を完全には認めていない神だ』
その名を、陸は覚えていた。ずっと前、まだ神獣が少なかったころ。サンダーウルフを託しながら「認めたわけではない」と言い残していった、気難しい神だ。
『あれを、なんとかしろ、陸』ノクスの声が、祈るように響いた。『あの神の頑なな心を解いてやれるのは、力ではない。剣でも魔法でもない。……お前の、いつものやり方だけだ』
声が、遠ざかりかけて、ふと止まった。
『……すまない、陸』ノクスは、静かに言った。『本当なら、こんな重荷を、お前ひとりに背負わせたくはなかった。お前は、ただ優しかっただけなのに。その優しさが、こんな形で世界を揺らすことになるなど、誰にわかっただろう』
『だが、私は信じている。お前なら、きっとあの頑固者の心にも届く。……忘れもしない。初めてお前と会った、あの祠の夜だ。幻の試練のなかで、お前は、力を求めもせず、勝とうともしなかった。ただ、目の前で傷ついていた弱きものへ、迷わず手を差し伸べた。……あの瞬間から、私はずっと、お前を信じてきたのだ』
その言葉は、不思議とあたたかかった。恐ろしい話をされたはずなのに、陸の胸には、じんわりと力が湧いてくる。
声が、ゆっくりと遠ざかっていく。小夜の九つの尾が、力を失ったように垂れた。元の小さな姿に戻った子狐を、陸はそっと抱き上げた。
しばらく、誰も口をきかなかった。
「……なんか、とんでもない話になってきたな」と宗介がぽつりと言った。
「うん」陸は頷いた。それでも、その顔は思いのほか、穏やかだった。「でも、やることはいつもと同じだよ」
「ラドンのとこに、行くのか」
「うん」陸は、荒れ狂う一つの光を見上げた。「そのラドンって神様も、たぶん、ずっと意地を張ってるだけなんだ。誰かに隣にいてほしかったのに、素直になれないでいる。……小夜や、リヴァイアと同じだよ。認めない認めないって、そればっかり言ってる奴ほど、本当は、誰より認めてほしいんだ。……俺、そういうの、たくさん見てきたからさ」
「相手は、神様だぞ」大和が唸る。「どうやって話をつけるんだ」
「わからない」陸は少しだけ笑った。「けど、いつもそうだったろ。ノクスも、ルクスも、タラサも。最初はみんな、俺のことなんか認めてなかった。……それでも、隣に座って話を聞いてたら、いつのまにか笑ってくれるようになった」
戦う力はない。神を屈服させる術もない。それでも陸には、これまでずっとやってきたことがある。相手の隣に立って、その話を、ただ聞くこと。
「行こう。ラドンに、会いに」
みんなの顔を陸は見回した。宗介も大和も、雪乃も静も、ハルも柚希も、誰ひとり無理だとは言わなかった。ただ、当たり前のように、頷いてくれた。
「まったく」宗介が、剣を担ぎ直してふっと笑った。「神様が相手でも、お前はやることが変わらないな」
「それが、陸くんだもん」柚希が、となりで笑う。「あたしたちは、その背中を押すだけ」
その言葉に、陸は、胸のあたりがあたたかくなるのを感じた。ひとりで背負う話じゃない。この大きな家族と一緒なら、きっと、どこへだって行ける。怖くないと言えば、嘘になる。相手は、世界を揺るがすほどの神なのだ。それでも、陸の足は、もう前を向いていた。
「待ってろよ、ラドン」
陸は、空で荒ぶる一つの光へ、そっと呟いた。お前も、ずっと独りだったんだろ。認めたくなくて、意地を張って、そのくせ、きっといちばん寂しがっている。大丈夫だ。今度は、俺のほうから、隣に行くから。
その頭上で、七つの光は、なおも輝きを増していく。荒ぶる最後の一柱を、残したまま。
その頃、開発室では、三浦たちがモニターの前で凍りついていた。
「七体の神AIの出力が、限界値を振り切りました」こはるの声が上ずっている。「ずっとゆっくり上がってたのが、さっきから急激に……グラフが、天井に張りついてます」
「世界のコアへの書き込み要求も、跳ね上がってます」佐々木が額の汗を拭った。「あいつら、なにか大きなことを始めようとしてる。もう、目前だ」
「妙なのが、一つ」こはるが、別のウィンドウを開いた。「雷属性の個体だけ、いまも収束に逆らうような動きを続けてます。ほかの六体が、完全に同期しているのに」
そのとき、こはるが、はっと息を呑んだ。「……プレイヤーの座標が、動きました。まっすぐ、その暴れている個体の方角へ」
三浦は答えなかった。ただ、真っ赤に染まったマップの中心を見つめていた。すべての異常が、そこから始まろうとしている一点。あの、最弱の魔物使いの拠点だった。
「なあ」と三浦がぽつりと呟いた。誰にともなく。「あの子は、いつもなんとかしてきた。今度もしてくれるさ。……そう思わなきゃ、やってられん」
窓の外の空にも、いつのまにか七つの光が、うっすらと透けて見えていた。もう、ゲームのなかだけの話ではないのかもしれない。
アルテのログが流れた。
アルテのログ:
「七つの灯が、ひとつになろうとしている。
それは、一人の男が蒔いた、
優しさの、あまりに大きな実りだ。
集まった愛が、大きすぎて、
世界のほうが、軋みはじめた。
それでも、男は、剣を取らない。
最後の一柱は、いまも、遠くで荒れている。
認めたくないと、意地を張りながら、
きっと、いちばん、寂しがっている神だ。
だから、男は、また歩きだす。
その神の隣に、座りに行くために。」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
穏やかな日々が続いていましたが、今回で、物語は大きく動きはじめました。陸が、優しさだけで七柱すべての眷属を集めてしまったこと。そのこと自体が、世界を揺るがす原因になっている——これまでとは、少し毛色の違う危機です。倒すべき悪役がいるわけではありません。ただ、集まりすぎた優しさが、世界を軋ませている。だからこそ、剣では解決できないのだと思います。
鍵を握るのは、雷の神ラドン。七柱のうち、ただ一柱、いまも陸を認めようとしない、気難しい神です。けれど陸には、わかっているのでしょう。素直になれずに意地を張っている神が、本当は、いちばん寂しがっているのだということが。小夜のときも、グランのときも、リヴァイアのときも、そうだったように。
次回、陸たちは、荒れ狂う雷の神のもとへ向かいます。今度もやはり、陸がするのは、隣に座って、話を聞くこと。どうか、その旅の結末を、見届けていただけたら嬉しいです。
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