第71話「臆病な巨獣」
古戦場の一件から、しばらく経った。
あれ以来、拠点には穏やかな時間が戻っていた。空の高いところの七つの光は相変わらずそこにあるけれど、それ以上のことは何も起きない。掲示板の異変の噂も、少しずつ下火になっていた。陸の頭の隅には、まだ小さな棘のように、あの丘の記憶が引っかかっている。それでも、毎日おびえて暮らすわけにもいかない。
その日の午後は、一年でいちばん眠くなるような、のんびりした陽気だった。
在宅の仕事にひと区切りつけて、陸はコーヒーを淹れに立った。マグカップ片手に、なんとなくベランダへ出ると、隣の部屋のベランダに柚希がいた。手すりにもたれて、ぼんやり空を眺めている。
「お、めずらしいな。今日は休みか」
「ん……夜勤明け。さっき帰ってきたとこ」柚希が大きくあくびをした。「眠いのに、なんか目が冴えちゃって」
「わかる。それ、いちばんつらいやつだ」
「でしょ」
二人して手すりにもたれて、ぬるい風にあたる。とくに話すことがあるわけでもない。ただ、隣にいるだけ。それでも、こういう時間が、陸はけっこう好きだった。
「そういえばね」柚希が思い出したように言った。「昨日の患者さん、退院するとき、わざわざお礼を言いに来てくれたの。それだけで、夜勤続きの疲れが、ぜんぶ吹き飛んじゃった」
「いい話だな、それ」
「でしょ? だから看護師、やめられないんだよね」
へへ、と笑うその顔が、ずいぶん嬉しそうで、陸もつられて笑ってしまう。
「で、陸くんは。今日、ログインする?」
「するつもり。宗介たちも暇そうだしな」
「じゃ、あたしも行こうかな。ちょっと寝てから」柚希が伸びをした。「なんか久しぶりに、のんびりしたい気分。物騒なのは、しばらくお腹いっぱい」
「奇遇だな。俺も、まったく同じこと思ってた」
その夜。ひと眠りした柚希と合流して、陸はいつものようにログインした。今日は、みんなで気楽なことでもしたい気分だった。
拠点に顔を出すと、宗介が一枚の依頼票を手にうんうん唸っていた。
「お、陸。ちょうどいいとこに」宗介が票をひらひらさせる。「これ、名指しでお前宛てだぞ」
受け取って読んでみる。近くの村――エルデという小さな農村からの依頼だった。畑のはずれに、見たこともない巨大な魔物が居ついてしまって、村人が困っている。何日も、そこから動かない。怖くて畑にも近づけない。だから、どうにかしてほしい。
「討伐依頼か」大和が腕まくりをして身を乗り出した。「久しぶりに、暴れられるな」
「それがさ」宗介が依頼票の下のほうを指した。「ここ、読んでみろよ」
そこには、小さな字でこう書き添えられていた。
――できることなら、あの子を傷つけずに。
「あの子?」と柚希が首をかしげる。「魔物のこと、だよね。ずいぶん優しい言い方」
「で、なんで俺、名指しなんだ?」
陸が訊くと、宗介は肩をすくめて笑った。
「有名なんだろ。魔物と仲良くなる、変わり者のテイマーってな」
その言い方に、みんなが小さく笑った。悪い気はしなかった。
村までは、のんびり歩いて半日ほどの道のりだった。街道沿いのなだらかな丘を越えていく。空は高く、風はやわらかい。異変のことなんて、こうしていると別の世界の話のようだった。陸の肩では、小夜がうとうとと船を漕いでいる。その後ろを、モフがのっしのっしとついてくる。
「しかし、傷つけずにって言われてもなあ」歩きながら、大和が首の後ろをかいた。「相手が暴れる魔物だったら、どうすんだよ」
「そのときは、陸くんがなんとかしてくれるでしょ」柚希が、あっさり言う。
「おい、丸投げか」
「だって、そういう依頼なんだもん」
のんびりした言い合いに、宗介が笑った。こういう、なんてことのない道中が、陸は嫌いじゃなかった。強い敵も、切羽詰まった事情もない。ただ、頼まれごとをひとつ片づけに行くだけ。それだけのことが、いまはずいぶん贅沢に思えた。
エルデ村に着くと、村長らしき老人が腰を低くして出迎えてくれた。
「よく来てくださった。いやあ、本当に困り果てておりまして」
案内されたのは、村はずれの麦畑の一角だった。近づくにつれて、みんなの足取りが自然と慎重になる。そして、それを目にした瞬間、大和が「うおっ」と声を上げた。
大きかった。
家一軒分は、ゆうにある。岩のようにごつごつした背中には、緑の苔と小さな若木まで生えている。太い四本の脚に、丸太のような角。まるで歩く山だ。討伐と聞いて意気込んでいた大和の顔から、すうっと血の気が引いていく。
「……これ、無理じゃね?」
「情けないこと言うな」宗介が剣を抜きかけて――けれど、その手が途中で止まった。「……いや、待て。あれ、なんか様子が変じゃないか?」
身構えていた全員が、あらためてその巨獣をよく見た。たしかに、変だった。あれだけの巨体なら、近づく人間をとっくに威嚇していてもおかしくない。なのに、その巨獣は――
だが、陸の見ているものは少し違った。
その巨大な体は、麦畑のすみで、できるだけ小さくなろうとするように丸まっていた。太い脚で顔を隠し、ときおり、びくりと体を震わせている。近づく足音に気づくと、あの巨体からは想像もつかないほど頼りない声で、細く鳴いた。
怖がっている。陸には、ひと目でわかった。
「みんな、ちょっと待ってて」
陸は武器を持たない手を軽く上げ、ゆっくりと一歩ずつ、巨獣のほうへ歩いていった。
「陸くん、危ないよ」
「大丈夫」振り返らずに、陸は答えた。「あの子、たぶん、誰かを傷つける気なんてないから」
巨獣まで、あと数歩。相手の大きな目が、こちらを捉えた。その瞳の奥を、陸はそっと《幻視》で覗いてみる。
そこに映っていたのは、暴力でも敵意でもなかった。ただ、途方に暮れた深い不安だけ。この子は、迷子なのだ。行き場をなくして、たったひとりで震えている。古戦場のとき、小夜が見せたのとどこか似た顔だった。
「怖かったんだな」
陸は、巨獣の前にそっとしゃがみ込んだ。見上げるほどの相手に、あえていちばん低い姿勢で。
「もう大丈夫だよ。誰も、君を傷つけない」
巨獣はしばらく、警戒するように陸を見下ろしていた。それから、おそるおそる、大きな鼻先を陸のほうへ近づけてくる。ふう、とあたたかい息が、陸の髪を揺らした。陸は動かない。ただ静かに、その鼻先に手のひらをそっと添えた。
その瞬間、巨獣の体から、ふっと強張りが抜けた。
陸は、しばらくそのまま動かずにいた。何を急ぐでもなく、ただ、そばにいる。ときどき「大丈夫」とだけ、小さな声で繰り返した。どれくらい、そうしていただろう。やがて巨獣は、ごろんと大きな体を横たえて、陸のすぐ隣に頭をあずけてきた。まるで、ずっとそうしたかった、とでもいうように。長いあいだ張りつめていたものが、ようやくほどけた音がした気がした。
「……すごい」
後ろで見ていた村人たちから、ため息のような声が漏れる。何日も誰も近づけなかった巨獣が、いまは大きな犬みたいに、陸へ頭をすり寄せていた。
「陸くん、あいかわらず、そういうとこほんとすごいよね」柚希が、あきれたように、でも嬉しそうに笑った。
事情は、なんとなくわかった気がした。
陸は巨獣の鼻を撫でながら、その心にもう一度、そっと耳を澄ませた。この子は、遠い森の奥から来たらしい。長く暮らした棲み処で、あるとき、ぞわりと嫌な感じがした。空気が薄く濁るような。世界がどこか歪むような。理由もわからず、ただ怖くて逃げて、この村までたどり着いた。
その"嫌な感じ"の正体に、陸は、心当たりがあった。けれど、いまは口にしなかった。頭の隅の棘が、少しだけちくりと痛む。異変は、こんなところにも静かに手を伸ばしているのかもしれない。
それでも、と陸は思う。いまは、この子だ。
「なあ」陸は、巨獣の目をまっすぐに見た。「行くところが、ないんだろ。よかったら、俺たちと来ないか」
巨獣が、きょとん、と首をかしげる。
「うちには、賑やかな仲間がたくさんいる。こいつも、いるぞ」
陸が振り向くと、いつのまにかモフが、巨獣の足元までのこのこ歩いてきていた。小さなモフが、大きな巨獣をまんまるの目でじっと見上げる。巨獣も、不思議そうにモフを見下ろした。しばらく二匹は見つめ合って、やがてモフが、ぽふんと巨獣の脚に体をあずけた。まるで、大丈夫だよ、とでも言うように。
巨獣の目が、ゆっくりと細くなる。
「無理にとは言わない」陸は、静かに続けた。「嫌なら、断っていい。でも、もしひとりが寂しいなら――」
最後まで言い終わる前に、巨獣はその大きな頭を、陸の胸にぐいと押しつけてきた。あんまり強かったので、陸は尻もちをつきそうになる。それでも、笑ってしまった。答えは、聞くまでもなかった。
陸のなかで、あたたかい手応えが、ひとつ増える。テイムが、成った。モフに続いて、二匹目。自分の意志で選び、相手にも選んでもらった、新しい仲間だ。
「よろしくな」陸は、巨獣の額を、こつんと自分の額に合わせた。「そうだ、名前。……君は、大きいのに臆病で、優しいから」
少し考えて、陸は言った。
「グラン、なんてどうだ」
巨獣――グランが、嬉しそうに、ぶるると鼻を鳴らした。気に入ってくれたらしい。
その大きな図体で、グランはぐりぐりと陸に頭を擦りつけてくる。あんまり甘えるので、陸はとうとう、草の上に押し倒されてしまった。
「ちょっ、重い、重いって」
笑いながら、陸はその大きな顔を両手でわしわし撫でてやった。ついさっきまで、たったひとりで震えていた子だ。もう、寂しくない。それだけで、今日ここへ来た甲斐があった気がした。
「すっかり懐かれちゃったね」柚希が二人を見て、くすくす笑った。
「まあ、こうなると思ってたけどな」宗介も肩をすくめて、剣を鞘に収めた。結局、一度も抜かずじまいだった剣を。
村は、大騒ぎになった。あれほど恐れられていた巨獣が、まさかこんなに大人しい子だったとは。しかもグランは、お礼のつもりか、その大きな体で村の壊れかけた水車小屋を、軽々と直してみせた。子どもたちが、おそるおそるその背中の苔にさわりにくる。グランは、くすぐったそうに目を細めていた。
はじめは遠巻きにしていた村人たちも、じきに、その優しい目を見て安心したらしい。ひとりの女の子が、摘んだばかりの花をそっとグランの鼻先に差し出した。グランがそれをぱくりと食べてしまって、女の子が「あーっ」と笑う。畑を荒らすと恐れられていた大きな影は、いつのまにか、村の子どもたちのいちばん大きな遊び相手になっていた。
村長が、何度も何度も頭を下げた。
「なんとお礼を言えばいいか。討伐なんて、とんでもない。あの子は、村の宝になりますよ」
帰り道は、行きよりもずっと賑やかだった。
グランの広い背中に、みんなで乗せてもらう。高い視界から見る夕暮れの丘は、いつもの景色とはまるで違って見えた。柚希が歓声を上げ、大和が「これ、移動が楽でいいな」と現金なことを言って、宗介に小突かれる。陸の肩では小夜が、モフはグランの背中で、それぞれ気持ちよさそうに揺られていた。
「いい一日だったな」と宗介が言った。
「うん」陸は、夕日を見ながら頷いた。「たまには、こういうのもいいな」
戦うでもなく、世界を救うでもなく。ただ、困っている誰かを助けて、寂しい子に居場所をひとつあげられた。陸がこの世界でずっとやりたかったのは、本当は、こういうことなのかもしれない。強くなくても、できることはちゃんとある。そう思えるだけで、胸の奥があたたかくなった。
ただ、その胸の隅には、まだ小さな棘が残っている。グランを怯えさせた、あの"嫌な感じ"。遠い森で、静かに広がりつつある何か。それが、いつか、こののどかな日々にも手を伸ばしてくるのだとしたら――。
陸は、ちらりと空を見上げた。七つの光は、今日も変わらずそこにある。少しだけ、輪を狭めながら。
「……ま、今日は、いっか」
陸はその考えを、ひとまず夕日の向こうへ追いやった。せっかくの、いい一日だ。心配ごとは、また明日でいい。グランの背中は、あたたかかった。
拠点に着くと、留守番していた神獣たちが、新入りを興味津々で出迎えた。フェニクスがグランの頭の上をくるくる飛び回り、ジオが挨拶がわりに蔦をそっと絡める。サンダーウルフだけは遠くから警戒していたが、グランがあんまりのんびりしているので、そのうち諦めたように、隣で丸くなった。
グランはその大きな体を、焚き火のそばに横たえた。さっそく背中の苔を寝床にして、小夜とモフがよじ登っていく。にぎやかな拠点に、また一人、大きな家族が増えた。その光景を眺めながら、陸はあたたかい気持ちで火にあたっていた。
その頃、開発室では、こはるが小さな異常値をひとつ見つけていた。
「三浦さん。西の古い森のエリアで、ごく弱い綻びの反応が出てます。……でも、規模はほんとに小さくて。しばらくすると、消えたり、また出たり」
「ふうん」三浦がモニターを覗き込んだ。「例のプレイヤーが、また何か拾ってきたみたいだな」
画面の隅では、あの拠点のアイコンに、新しい仲間の登録がひとつ増えていた。大きな、穏やかな魔物のデータ。
「まったく、あの子は」三浦が少しだけ笑った。「世界がこんなときでも、やることは変わらないな」
七つの光は、モニターの中で、あいかわらずゆっくりと寄り集まっている。急いではいない。まるで、その日が来るのを、静かに待っているみたいに。
アルテのログが流れた。
アルテのログ:
「大きくて、臆病な子がいた。
行き場をなくして、独りで震えていた。
誰も、その子を斬らなかった。
ただ一人の男が、隣にしゃがんで、
君は、もう独りじゃないと、そう伝えた。
世界の空には、まだ七つの灯。
けれど今日のところは、
あたたかい背中に揺られて、
みんなで、家へ帰るのだった。」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
異変編、少し肩の力を抜いた回でした。前回まで、なんだか物騒な話が続いていたので、今回は、陸がいちばん陸らしくいられる、穏やかなクエストを書きたかったのです。斬らなくても、追い払わなくても、隣にしゃがんで話を聞けば、それだけで解決することがある。臆病な巨獣グランは、そんな陸の優しさが迎え入れた、モフに続く二匹目の家族になりました。
もちろん、グランを怯えさせた"嫌な感じ"の正体は、みなさんお察しのとおりです。のどかな日々の裏で、異変は、静かに、けれど確かに、広がりつつあります。それでも、いつも大きな戦いばかりでは、陸も、読んでくださるみなさんも、疲れてしまいますから。ときには、こんなあたたかい寄り道の回も、書いていけたらと思います。
グランの背中の乗り心地は、きっと、最高です。次回も、のんびり見届けていただけたら嬉しいです。
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