第70話「予兆」
古戦場から帰って、数日が過ぎた。
インターホンが鳴ったのは、陸が在宅の仕事をひと区切りつけた、昼下がりのことだった。ドアを開けると、柚希が立っている。夜勤明けらしく、少しだけ眠そうな顔をしていた。
「これ、おすそ分け」柚希はコンビニの袋からプリンをひとつ取り出して、陸に押しつけた。「二個入り、買っちゃったから。一人だと多くて」
「……律儀だな」陸は苦笑した。「この前のコーヒーの礼、まだ気にしてるのか」
「べつに。ただのプリンだってば」
そんな軽口を叩き合うのが、古戦場から帰ってきてからの数日で、すっかり当たり前になっていた。隣の部屋の住人と、廊下でプリンを分け合う。ただ、それだけのこと。長い戦いをようやく越えて、こういう当たり前が戻ってきたのだ。
「今日はもう休みだから、あとでログインするね」柚希は大きなあくびをした。「その前に、ちょっと寝る」
「おう。おやすみ」
柚希がひらひらと手を振って、自分の部屋へ戻っていく。その背中を見送ってから、陸も自室に戻った。もらったプリンを冷蔵庫にしまい、仕事の残りを片づける。夜になれば、いつものメンバーが拠点に集まるのだろう。世界を救っただの、神獣が九尾になっただの、そんな大それたことのあとでも、結局みんなでやるのは火を囲んで笑うことだ。あの宴会の余韻は、まだどこかに残っていた。
平和だな、と陸は思う。しばらくは、こういう日が続けばいい。仕事もちょうど山を越えたところで、久しぶりに心にゆとりがある。そんな穏やかな日々が、いまはやけにありがたく感じられた。
その平和に小さな綻びが混じりはじめたことに、陸が気づいたのは偶然だった。
仕事の合間に掲示板を眺めていると、妙な書き込みがぽつぽつと目についたのだ。晴れていたはずの空に、急に雪が舞った。倒したばかりのボスが、なぜか少し離れた場所にもう一度現れた。夜にしか出ないはずの魔物を、真昼の街道で見かけた。どれも笑って読み飛ばせる程度の、ささいな不具合報告だ。この手のゲームに、バグはつきものだから。
けれど、いつまで経っても運営からの告知はなかった。修正の予告もなければ、メンテナンスの予定もない。まるで運営自身、何が起きているのか掴めていないかのようで、それがいちばん不気味だった。
そして、ひとつだけ引っかかることがあった。その手の報告が、どれも決まって同じ方角のことばかりだったのだ。エデルハイム東部――ちょうど、陸たちの拠点があるあたり。それに、遠く西の海でも妙な噂が立ちはじめていた。海が真夜中に光るだの、漁のNPCが沖を見つめたまま動かないだの。
「……気のせい、かな」
胸の奥がなんとなくざわつく。陸はその感覚を振り払うように、その夜もいつものようにログインした。
拠点にログインすると、いつもの顔ぶれがもう火のまわりに集まっていた。宗介が退屈そうに剣の手入れをして、雪乃とハルが何かの雑談で笑っている。大和はモフの腹を枕にして、堂々と昼寝していた。少し離れたところで、シィラが薬草を選り分けている。思えば最初は、陸と小夜だけの小さな焚き火だった。それがいつのまにか、こんなに賑やかになっている。
「よう、遅かったな」宗介が顔を上げた。
「ちょっと仕事が長引いてさ」陸は苦笑した。「そっちは平和そうだな」
「おかげさまでな。あの古戦場のあとだと、暇なくらいがちょうどいい」
まったくだ、と陸も思う。小夜がとことこ駆け寄ってきて、足元にすり寄ってきた。抱き上げると、いつものように喉を鳴らして目を細める。あの九尾の巨狐と同じ子だとは、やっぱり思えない。ただの甘えん坊の子狐だ。
「あ、陸くん。おそーい」
少し遅れて、柚希もログインしてきた。昼間に言っていたとおり、ひと眠りしてきたらしい。さっき玄関で見たときより、ずっとすっきりした顔をしている。この数日、こうしてみんなで顔を合わせるのが当たり前になっていた。長い戦いを越えて、ようやく手に入れた、なんでもない日々。陸は、この時間がけっこう気に入っていた。
その平和を破ったのは、大和の間の抜けた声だった。
「……なあ。あれ、なんだ?」
昼寝から身を起こした大和が空の一点を指さしている。みんなの視線が、つられてそちらへ向いた。夕暮れの、少し高いところ。そこに、淡い光がいくつか浮かんでいた。
星にしては、大きい。それに、色が違う。ひとつひとつが、微妙に異なる色みを帯びていた。青、赤、緑、金。数えてみると七つあった。
「なんだろ、あれ。イベント?」ハルが首をかしげる。
「運営からの告知は、来てないぞ」宗介が眉を寄せた。
「掲示板でも話題になってた」雪乃が思い出したように言った。「昨日の夜くらいから見えるって。でも、誰も正体はわからないみたい」
「まあ、そのうち消えるんじゃないか?」大和はまだ、あまり気にしていない様子だ。
七つの光はゆっくりと、ほんの少しずつ位置を変えているようだった。動いているのかどうかも判然としないほど、それはゆっくりとした動きだ。まるで、何かを待っているみたいに。きれいだ、と思う。それなのに、どこか落ち着かない。
陸がその光を見上げていると、腕のなかの小夜がもぞりと身じろぎした。見ると、さっきまで甘えていた子狐が、じっと光を見つめている。喉の奥で、低く、聞いたことのない声で鳴いていた。甘えるのでも、威嚇するのでもない。強いて言うなら、それは怯えに近い声だった。
「小夜?」
陸が名を呼んでも、小夜はその光から目を離さない。ふと気づけば、ほかの神獣たちも様子がおかしかった。フェニクスが落ち着きなく火のまわりを飛び回り、サンダーウルフが七つのうちの一つを睨んで低く唸っている。木陰にいたユニコーンだけが、静かに、けれどまっすぐにその光を見上げていた。
陸は、腕のなかで強張っている小夜をそっと撫でた。いつもならそれだけで安心して目を細める子が、今日はちっとも落ち着かない。小さな体は、まだかすかに震えている。
「大丈夫だよ」できるだけ優しく、陸は声をかけた。「俺が、そばにいるから」
その言葉に、小夜はほんの少しだけ陸の胸に体を寄せた。それでも視線は、やっぱり空の光に向いたままだった。まるで、そこにいる“誰か”から目を離すのが怖い、とでもいうように。
陸の胸の奥で、掲示板を見たときのざわつきが、また頭をもたげた。同じ方角。拠点の真上。そして、神様の眷属である神獣たちの、怯え。ばらばらだった小さな違和感が、いやな形でひとつに繋がりかけている。
このまま、ただ眺めているわけにもいかなかった。異変の正体を、少しでも確かめておきたい。
「明日、ちょっと見に行ってみないか」と陸は言った。「掲示板で、いちばん噂になってる場所へ。何か、わかるかもしれない」
「賛成」柚希が頷く。「もやもやしたまま待ってるの、性に合わないし」
宗介たちも、異存はないようだった。
翌日、陸たちは街道沿いの丘へ向かった。掲示板で、異変の噂がいちばん多い場所だ。
そこは、一見すると、なんの変哲もない野原だった。けれど、近づくにつれて空気が変わっていくのがわかった。音が少しずつ遠のいていく。鳥の声も、風のざわめきも、まるでその一帯だけが世界から切り離されたように、しんと静まりかえっている。足を踏み入れると、肌がぴりぴりと粟立った。理由もなく、ここにいてはいけない、と体が訴えてくる。そんな場所だった。
野原の真ん中に、狼型の魔物が一頭、立っていた。よく見かける、ただの狼型の魔物だ。けれどそれは、前脚を上げた姿勢のまま、ぴくりとも動かない。まるで、時間だけがそこで止まってしまったかのように。
「……寝てる、のか?」大和が恐る恐る近づく。
反応はなかった。大和が槍の石突きで軽くつついても、その魔物は動かない。目も、こちらを映していない。ただ、その輪郭がときおり、古いテレビの砂嵐のようにちらりと乱れた。
「気持ち悪いな、これ」宗介が顔をしかめる。
陸はそっと《幻視》を使ってみた。相手の本質や感情まで視えるはずのその力が、この魔物にはうまく届かない。視ようとする先に、そもそも何も“いない”みたいだった。ただの魔物のはずなのに、そこにあるのは、魔物のかたちをした、空っぽの穴。背筋がぞっとして、陸は思わず後ずさった。
「気をつけて」とシィラが鋭い声で言った。「あれは、たぶん斬っても突いても、手応えがない。中身が“無い”んだ。私たちのいつものやり方が、通じるかどうか」
その言葉が終わるより先だった。狼のかたちをした穴がふっと消えた。倒したときの、光の粒になって散る演出もない。ただ、最初からそこに何もいなかったかのように、音もなく消えてしまった。あとには、色の抜けた草地だけが残されている。その草の色も、しばらくするとじわじわと、元の緑に戻っていった。
「なに、今の……」雪乃の声が、かすかに震えた。
シィラが無言でしゃがみ込み、草地にそっと手をかざした。古の術師の目が、鋭く細められる。
「……ここだけ、世界の織り目が緩んでいる」ぽつりと、彼女は言った。「布の糸が一本、抜け落ちたみたいに。まるで、世界そのものが、ほんの少しほつれかけているような」
その言葉の意味を正確に理解できた者は、たぶんいなかった。それでも、その場にいた全員が、背筋に冷たいものを感じていた。言葉にはうまくできなくても、本能のほうがはっきりと告げている。これは、放っておいてはいけないものだ、と。
丘を離れるとき、陸はもう一度空を見上げた。七つの光は、昨日よりもほんの少しだけ、輪を狭めているように見えた。ゆっくりと確実に、ひとつの場所へ――自分たちの拠点へと、寄り集まってきている。
まだ、何が起きているのかはわからない。それでも、これがただの不具合でないことだけは、もう疑いようがなかった。空に集う七つの光。神獣たちの怯え。世界のほつれ。そのすべてが、まっすぐに陸のいる場所を指している。
「陸くん」隣に来た柚希が、静かに言った。「なんか……嫌な予感がする」
「ああ」陸は頷いた。「俺も、同じ」
柚希はしばらく黙って空を見上げていた。それから、ぽつりと言う。
「せっかく、平和になったのにね」
その声には、少しだけ寂しさが混じっていた。長い戦いをようやく越えて、みんなで笑える日々が戻ってきた。それが、また揺らぎはじめている。陸にも、その気持ちは痛いほどわかった。
「大丈夫だよ」と陸は言った。根拠はなかったけれど、そう言いたかった。「なんとかする。今度も、きっと」
「うん」柚希はふっと笑った。「陸くんが言うと、なんとかなりそうな気がしてくるから、不思議」
火のそばに戻ってからも、神獣たちは落ち着かないままだった。小夜は陸の膝の上で、ずっと空のほうを気にしている。何かを待っている。あるいは、何かが近づいてきているのを感じている。
その夜、拠点の空には、変わらず七つの光が浮かんでいた。ただ静かに、しかし確実に、少しずつ輪を狭めながら。
陸はしばらく、その光を見上げていた。すると、ほんの一瞬――気のせいかもしれない。七つの光のうちの一つが、ほかよりも強く、ちりっと明滅した気がした。まるで、こちらの視線に気づいて応えるように。あるいは、どこか苛立つように。
腕のなかで、小夜がびくりと身を震わせる。
「……何が、来るんだろうな」
陸の呟きに、答える者はいなかった。ただ七つの光だけが、その答えを知っているかのように、静かに、そこで輝いていた。
嵐の前の、あまりにも静かな夜だった。
その頃、開発室でも、三浦たちは首をかしげていた。
「先週から、ずっとこの調子です」こはるがモニターを指した。「七体の神AIの座標が、少しずつ一点に寄っていってます。それも、ぴたりと同じ方角へ」
「例の、あの子の拠点だな」と三浦が腕を組む。
「はい。それと時期を同じくして、細かい異常の報告が増えはじめてます。地形の一時的な乱れ、魔物の挙動のバグ……いまのところは、どれも小さなものですが」
佐々木が難しい顔でモニターを覗き込んだ。
「妙だな。神AI同士は、干渉しないように設計したはずなんだ。それが、まるで示し合わせたみたいに、一か所へ集まろうとしてる。……何を、しようとしてるんだ、こいつらは」
「あの……一つ、気になることが」こはるが、少し言いにくそうに口を開いた。「収束の中心にいる、あのプレイヤーのアカウントなんですが。この一年で、七体の神AIすべてと深く関わってるんです。眷属のNPCを、六体も連れている。こんなプレイヤー、ほかに一人もいません」
「六体、な」三浦が眉を寄せた。「それが、この収束と関係あると思うか」
「わかりません。でも、無関係だとも思えなくて」
答えられる者は、まだ誰もいなかった。異常の規模は、いまはまだ小さい。けれど、そのグラフは緩やかに、しかし着実に、右肩上がりの線を描きはじめていた。
「しばらく、注意して見ておこう」三浦が言った。「……何も起きなければ、それでいい。そう祈っておくさ」
アルテのログが流れた。
アルテのログ:
「七つの灯が、空の高いところで、
ゆっくりと、身を寄せ合いはじめた。
まだ、何も起きてはいない。
空は静かで、火はあたたかく、
子狐は、いつものように甘えている。
けれど、眷属たちは知っている。
主が近づいてくる、その気配を。
そして、集まりすぎた光が、
やがて何をもたらすのかを。
これは、嵐の前の、
いちばん静かな夜の話。」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
古戦場編が終わり、今回から新章「異変編」の幕開けです。とはいえ今回はまだ、その入り口。大きな事件は起こさず、じわじわと忍び寄る不穏の気配だけを描きました。晴れた空に降る雪。同じ場所に二度現れるボス。止まったまま消える魔物。ひとつひとつは笑い飛ばせる小さな異常でも、それが全部、陸たちの拠点の方角を指しているとしたら――そう考えると、少し背筋が寒くなりませんか。
空に浮かぶ七つの光の正体には、勘のいい方はもうお気づきかもしれません。それが何なのか、なぜ集まってくるのか、そして神獣たちが何に怯えているのか。その答えは、次回以降、少しずつ明かしていきます。次回、この静けさが少しずつ形を変えはじめ、陸たちは“いつものやり方が通じない”敵と向き合うことになります。穏やかな日常が、ゆっくりと軋みはじめる。そんな新章の、静かな幕開けの回でした。
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