第67話「九つの尾」
小夜が陸の肩でもう一度鳴いた。
さっきまでの子狐の声ではなかった。腹の底に響く、低く長い唸り。空気が震える。肩から伝わってくる小さな体が、燃えるように熱かった。
五本の尾が揺れる。その付け根から、一本、また一本と、新しい尾がほどけるように生まれていく。六本。七本。淡い金色の光をまとって。
「小夜」と陸は呼んだ。
その声に、小夜が一度だけ振り向いた。金色の目が、陸を見る。
陸は、小さくうなずいた。この子とのあいだに、テイムのような繋がりはない。小夜は使役した魔物ではなく、最初の夜から自分で隣にいてくれた神獣だ。命じることなど、できない。それでも、想いは届くと信じていた。出会った日から、ずっとそうしてきたように。
行ってこい。お前はお前のままでいい。どれだけ大きく強くなっても、俺の知ってる小夜だ。
小夜の目が細くなった。笑った、のかもしれない。
そして、跳んだ。
陸の肩を蹴って宙へ。光が目を灼くほどに強くなる。誰もが腕で顔をかばった。その光の奥で、小さな子狐の体が、みるみるふくれ上がっていく。八本目の尾。九本目の尾。九つの金色の尾が、扇のように開いた。山のように大きな白銀の狐が、噴き上がる黒い靄と正面から向かい合っていた。
封印を司る、神の眷属。その本来の姿だった。
誰もが、息を呑んでいた。肩でうとうとしていたあの子狐が。あくびひとつで魔物を退けていた、あの小さな獣が。いまは見上げるほどに大きく、白銀の毛並みを薄闇のなかで輝かせている。九つの尾がそれぞれに意志を持つように、ゆらりと揺れた。
「あれが……小夜?」と大和が呆然と呟いた。
「ずっと、あの子のなかに眠っていた」とシィラ。「封印を司る、ノクスの眷属。本来なら、こんな姿、軽々しく見せるものではない」
陸だけが驚いていなかった。むしろ誇らしかった。大きくなっても小さいままでも、小夜は小夜だ。肩の上がふいに軽くなって、少しだけ寂しい。それでも、よく頑張ったな、と思った。最初に森で出会ったときから、この子はずっと、この戦いのために、痛みのいちばん近くで耐えてきたのだから。
九尾の小夜が、黒い靄に向かって吼えた。
その声にびくりと退いた。これまで何をしても揺らがなかった魔の核が、怯んだのだ。封印そのものを司る存在の前で。
何十年ものあいだ、この魔は何ものも恐れずに膨らみ続けてきた。倒れても立ち上がる騎士たちを操り、抑えようとする者を呑み込んできた。その魔がいま、初めて退いた。自分を閉じ込めていた檻の主が、ようやく目を覚ましたからだ。
劣勢だった戦場の流れが、たったひと声で、ひっくり返った。
「いまだ」と宗介が言った。
炎が、空を焼いた。
フェニクスだった。普段の、頭の上のくしゃみのような炎ではない。広間の天井が赤く染まるほどの、本気の劫火。それが魔の核の片側をまるごと包んだ。
地が、隆起した。
ジオトレントの蔦が何十本も地面を突き破り、黒い靄の巨体に巻きついていく。森の獣が本気を出すと山が動く。その言葉のとおりだった。
そして、青白い雷が走った。
サンダーウルフ。狭い場所では振るえなかった力だ。けれどいま、相手は天井を突くほどの、ただ一体の大物。味方を巻き込む心配は、もうない。雷の巨体が、靄の中心を貫いた。
ずっと温存してきた力だった。拠点に置いてこられ、狭い乱戦で撃てずにいた神獣たちが、ようやくその本領を解き放っていた。
そしてその戦いの足元では、もう一頭の神獣が、別の仕事をしていた。
ユニコーンだ。額の角から、やわらかな光が広間いっぱいに広がっていく。魔の核が抜け出たあと、糸の切れた人形のように倒れていた鎧たち。その一体一体に、光がそっと触れていった。何十年も体を縛りつけていた呪いが、少しずつほどけていく。攻撃ではない。浄めだ。倒れた騎士たちが、ようやく戦いから降りていく。フェニクスたちが魔の核を抑えているあいだに、ユニコーンは置き去りにされていた人たちを、一人ずつ、長すぎた夜から連れ出していた。
一体の鎧が、崩れ落ちる前に、ほんの一瞬だけ、兜の奥に光を取り戻した。そしてゆっくりと、剣を手放した。何十年も握りしめてきた剣を。地に落ちたその刃は、もう二度と振り上げられない。安らかに、その鎧は動かなくなった。ようやく、終わったのだ。その一人にとっては。
そしてその隣でも、また一体。さらにその先でも。ユニコーンの光が触れるたびに、終われなかった者たちが、一人また一人と、静かになっていった。何十年も鳴りやまなかった剣戟の音が、少しずつ、薄れていく。
宗介の神速斬が、靄の腕を断つ。大和の竜炎が燃え上がる。静の消滅の爆炎が、靄の一部を防具ごと消し去った。ハルの影が、伸びてきた触手を地へ縫いとめる。雪乃は結界で味方を守りながら、聖なる鎖で靄の動きを抑え込んだ。
シィラの全属性魔法が、炎と氷と雷を同時に叩き込む。腰の曲がった老女は、もうそこにいなかった。背筋を伸ばし、若き日の宮廷魔導師の顔で、杖を振るっている。
「あそこ」と柚希が、高い石柱の上から叫んだ。「靄のいちばん濃いところ。あれが核だよ。みんな、あそこを狙って」
その一点へ、柚希の矢が吸い込まれていく。アルシオンが空を駆けて、味方の死角を埋めた。モフは誰も傷つけないまま、ただ壁になって、零れた攻撃から仲間を守り続ける。
九つの尾が、そのすべてを束ねていた。小夜が尾をひと振りするたびに、ばらばらだった攻撃に芯が通る。誰がどこを狙うべきか、絆の共鳴を通して、全員のなかに同じ像が結ばれていく。指揮官はいない。命令もない。それでもその場の全員が、ひとつの大きな生き物のように動いていた。
そして陸は――いつものように、何もしていなかった。ただその真ん中に立って、見ていた。みんなが噛み合っていくのを。最弱の魔物使いにできるのは、いつだってそれだけだ。きっかけを作って、あとは信じて見ていること。
開発室では、警報が鳴りやまなかった。
「経験値の流入が……桁が、おかしいです!」とこはるが叫んだ。「何十年ぶんの未処理の戦闘報酬が、いま一気に確定していってます。あの戦場が、ずっと終わらせられなかった戦いの……ぜんぶが、いっぺんに」
佐々木がコーヒーをこぼしたまま画面に張りついていた。「待て、これ一組のパーティの数字だぞ。大規模ギルドが何十人がかりで何ヶ月もかけて届く領域に……たった一晩で?」
モニターの数字が回るように上がっていく。31。33。36。止まらない。38。そして、超えた。これまで人類最強と呼ばれた、あのプレイヤーの35を。
「Lv.40」と三浦が呟いた。声がかすれていた。「前人未到だ。誰も届かなかった領域に……あの最弱職のギルドが、いま立った」
当の陸はといえば、戦いのさなかに開いた自分のステータス画面を見て、ぼんやり首をかしげていた。
「あれ。レベル、上がってる」
それだけだった。隣の石柱の上で、柚希が矢を放ちながら噴き出した。
「陸くん、それだけ?」
「いや、だって、急に」
「ほんと、あんたって人は」
宗介たちのところにも、同じ通知が降っていた。けれど誰も、立ち止まらなかった。レベルが上がったことを喜ぶ余裕など、いまはない。目の前の靄を抑えること。中にいる一人を、助け出すこと。それだけで全員の頭がいっぱいだった。強くなった実感よりも先に、まだ救えていない誰かのことが来る。このギルドは、いつもそうだった。
けれど、それでも。
あれだけの力を叩き込んでも、黒い靄は消えなかった。形を崩しながらも、まだそこに残っていた。そして、その中心。いちばん濃い闇のなかに、人の形をした影が、見えた。
「ロラン……!」とガロードが叫んだ。
陸にはわかってしまった。あれを力で消すことはできない。消してしまえば、中にいるロランごと、消えてしまう。
だから陸は、戦いの音のなかで、その影に向かって声をかけた。届くかどうかは、わからない。それでも。
「ロラン」と陸は呼んだ。ガロードの親友の名を、初めて自分の口で。「あんたのこと、ガロードからぜんぶ聞いた。仲間を逃がして、独りで残って、何十年も、あの黒いのを抑えてくれてたんだろ」
靄の中心の影が、わずかに揺れた。聞こえている。陸は確信した。
「もう、独りじゃないよ。ここにいる全員、あんたを迎えに来たんだ。だからもう少しだけ、堪えてて」
「シィラ」と陸は呼んだ。「あれ、倒すんじゃ、ないんだよね」
「ああ」とシィラが、杖を握り直した。「封じ直すしかない。あの日、私が逃げて、できなかったことを……今度こそ、最後まで」
シィラが杖を高く掲げた。全属性の光が、その身に集まっていく。何十年も自分を罰する道具だった杖が、いまは、贖いを果たすための杖になっていた。
九尾の小夜が、ゆっくりとシィラのそばへ降りた。九つの尾が、いっせいにシィラのほうへなびく。封印を司る眷属の力が、術師の魔法に、静かに重なっていった。
シィラの全身が、白銀の光に縁取られた。あの日、たった独りで魔を封じ、たった独りで罪を背負った老女。その隣に、いまは九つの尾の眷属がいる。前を向いた弟子がいる。背中を預けられる仲間がいる。何十年ぶりに、シィラは独りではなかった。
封印を、もう一度。ただし今度は、誰も置き去りにしないやり方で。
けれど、それは生半可な力では足りなかった。何十年も溜め込まれた瘴気。王国ひとつを呑もうとした魔の核。それを封じ直すには、あの日のシィラ一人ではとても足りない。だからこそ、いまなのだ。九つの尾と、全属性の魔法。神獣たちの本気と、ギルドの全員。前人未到まで駆け上がった、この一行でなければ届かない封印だった。
「みんな、あの渦を抑えて!」と雪乃が叫んだ。「封じきるまで、一秒でも長く!」
大和が盾を構え直す。宗介が前へ出る。静の魔法が、ハルの影が、柚希の矢が、膨れ上がろうとする靄を四方から押し戻していく。モフは零れた瘴気から陸を庇って、その巨体を盾にした。
けれど魔の核も、黙って封じられるのを待ってはいなかった。最後の力を振り絞るように、黒い靄がぶわりと膨れ上がる。中心のロランの影が、苦しげにもがいた。陸たちのほうへ、助けを求めるように、片手を伸ばして。
「急いで!」と柚希。「あの人、中の人が……っ」
ガロードが、一歩前へ出た。剣の柄に手をかける。けれど、抜かなかった。斬って解決する相手ではないことを、誰よりわかっていた。
「ロラン」とガロードが、靄の中心に呼びかけた。「もう少しだ。もう少しだけ、堪えてくれ。あの日、お前は俺を突き飛ばして、笑って言ったな。隊長、先に行け、と。俺はあの背中を、何十年も夢に見てきた。一度だって忘れたことはない。……今度は、俺たちが、お前を連れて帰る」
靄のなかのロランの影が、その声のほうを向いた気がした。
アルテのログが流れた。
アルテのログ:
「数字が、ひとつ、空を超えた。
誰も立ったことのない場所に、彼らは立った。
けれど誰も、勝ち誇らなかった。
いちばん強くなった夜に、
彼らが見上げていたのは、
まだ救えていない、たった一人の影だった。
力は、ようやく足りた。
足りなかったのは、いつも、力ではなかった。
最後に必要なのは、
封じることではなく、
連れて帰ると、決めることだ。」
白銀の九尾と、術師の杖。
二つの力が、ひとつに溶け合っていく。広間に満ちていた黒い靄が、その光に押されて、ゆっくりと一点へ集まりはじめた。何十年も解けなかった戦いが、ようやく終わりへ向かおうとしていた。
白銀の光と、七色の魔法の光が、広間を昼のように染めていた。さっきまで死と呪いに満ちていた古戦場が、いまはどこか、神聖な場所のようにすら見えた。倒れ伏した鎧たちは、もう動かない。ユニコーンの光に包まれて、ただ静かに、眠るように横たわっている。何十年ぶりの、終わりだった。
けれど――まだ、終わっていなかった。
たった一人だけ、残っていた。
その渦の中心で、ロランの影が、最後にもう一度もがいた。
陸は、気づいてしまった。このまま封じ直せば、魔の核は二度と外へ出ない。世界は救われる。けれどそれは――中にいるロランごと、もう一度、永遠に閉じ込めることでもあった。
シィラの手が止まりかけた。ガロードの顔が歪む。
封じ直すのか。それとも、連れ出すのか。封印を完成させれば、世界は守られる。けれどそれでは、また一人を置き去りにすることになる。あの日と、同じように。
その答えを出せるのは、力でも、魔法でもなかった。
陸が、一歩、前へ出た。
力なら、もうじゅうぶんだった。前人未到まで届いてなお、最後に問われているのは、ずっと同じひとつのことだった。誰を置いていくのか。それとも、誰も置いていかないのか。
陸の答えは、はじめから決まっていた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
ついに小夜が、九つの尾を解き放ちました。封印を司る神の眷属、その本来の姿です。あくびひとつで魔物を退けていたあの子が、山のように大きな白銀の狐になって、魔の核と向かい合う。普段との落差こそ、この子の真骨頂だと思っています。
そして、拠点に置いてきた神獣たちが温存していた力も、ここで一気に解禁されました。狭い場所では味方を巻き込むからと撃てずにいた炎・蔦・雷が、天井を突くただ一体の大物相手に、ようやく本領を発揮します。みんなが、それぞれの理由で“待っていた”ぶんを、この回で返してくれました。
レベルも、ついに大きく動きました。何十年も終わらせられなかった戦いを断ち切ったことで、未処理だった報酬が一気に確定。ギルドは人類最強だった黒崎零の35を超え、前人未到のLv.40へ。それでも陸は「あれ、上がってる」のひと言。強くなった夜に、誰も勝ち誇らず、まだ救えていない一人の影を見上げている――そこにこの物語の芯を込めました。
次回、最後の封じ直し。倒すのではなく、連れて帰る。ロランと、シィラと、ガロードの、長すぎた夜に決着をつけます。やさしいだけではいられない物語、次話もお楽しみに。
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