第65話「終われない者たち」
地の底から届いたその声に、しばらく誰も動けなかった。
封印の前で、八人と三体の神獣が、ただ立ち尽くしていた。何十年も誰かを呼び続けていた声。それが、すぐそこの地面の下から聞こえている。
「……行こう」と、最初に口を開いたのは陸だった。
誰も異を唱えなかった。ここまで来て、引き返す者は一人もいない。大和が盾を握り直し、宗介が首を鳴らす。雪乃が小さく息を整えた。それぞれのやり方で、覚悟を決める音だった。
封印は、さっきよりも開いていた。地面に沈んでいた光の鎖が、半分ほど宙に浮き上がっている。その隙間から冷たい風が吹き上げていた。いや風ではない、と陸は思った。中の空気だ。何十年も閉じ込められていた、時間そのものの匂いがした。
「隙間は通れる」とハルが言った。その姿はもう半分影に沈んでいる。先に縁まで近づいて戻ってきたのだ。「でも中、変だよ。音がしないのに……なんか、いっぱいいる」
「いっぱい?」と大和が顔をしかめた。
「数えきれない」とハル。めずらしく声の調子が硬かった。
陸はシィラとガロードを見た。二人とも何も言わない。けれどその顔が答えだった。何がいるのか二人は知っている。何十年も見ないようにしてきただけだ。
「行こう」と陸は言った。「ハルが先。みんなは固まって」
鎖の隙間をくぐった瞬間、音が変わった。
外の地鳴りがふつりと消えた。代わりに別の音が満ちている。剣のぶつかる音。鎧の軋み。くぐもったいくつもの呻き。戦いの音だ。けれどそのどれもが水の中のように奇妙に引き伸ばされていた。
そして見えた。
崩れた石柱の立ち並ぶ広い空間。その間で影が戦っていた。
鎧をまとった人の形。十。いやもっと。彼らは何もない空間に向かって剣を振るっていた。敵はいない。とっくにいない。それでも止まらなかった。振って構えてまた振る。傷だらけの体で。片腕を失った者もいる。兜の奥がただ暗いだけの者さえいた。
何十年もずっとそうしてきたのだ。
足元には、無数の刃こぼれが散らばっていた。何度も振るって、欠けて、それでも手放されなかった剣の、なれの果てだ。床には浅い溝がいくつも刻まれている。同じ場所を同じ歩幅で、何千回、何万回と踏みしめた跡だった。ここでは時間だけが、置き去りにされていた。
「これが」とシィラの声が震えた。「私が閉じ込めたものだ」
その場に、シィラがくずおれそうになった。静がとっさにその腕を支える。弟子は何も言わなかった。ただ師の腕を、しっかりと掴んでいた。シィラはその手に縋るようにして、かろうじて立ち直った。
陸は言葉が出なかった。弔いに行くと言った。終われない人たちを迎えに行くと。頭ではわかっていたつもりだった。けれど実際にそれを見るのは、想像の何倍も重かった。
ふと、肩の小夜が低く鳴いた。
いつもならこの子があくびをひとつするだけで、上位の魔物さえ怯えて退く。恐怖を撒く神獣だ。けれどその小夜がいま、鎧たちに向けて気配を放っても何も起きなかった。一体も振り向きすらしない。
「……効かないのか」と陸は呟いた。
効かないのではなかった。もう彼らには、恐怖そのものが残っていないのだ。怖いという心ごと、何十年かけてすり減らしてしまった。それを察したのか、小夜は鳴くのをやめ、ただじっと奥のほうを見据えた。
一体がこちらに気づいた。
ぐるりと首が回る。兜の奥に光のない目。それが陸たちを敵と認識した。地を蹴って突進してくる。ありえない速さだった。
「下がってろ!」
大和が前に出た。盾を構えてその突進を正面から受け止める。鎧と盾が激しくぶつかった。大和の足がずずと後ろへ滑る。
「っ……重ッ! なんだこいつ、Lv.いくつだよ!」
一体ではなかった。広間中の影が一斉にこちらを向いた。新しい敵を見つけた、というように。何十体もの鎧がゆっくりと向き直る。
「雪乃!」と宗介。
「もう張ってる!」
雪乃の聖域結界が陸たちを丸く囲った。押し寄せる鎧が光の壁にぶつかって止まる。けれどその壁がみしりと軋んだ。一体や二体ではない。何十もの剣が同時に叩いている。
「保たない」と雪乃。額に汗がにじんでいた。「数が多すぎる」
宗介が結界の外へ躍り出た。剣の腹で鎧をいなし、ぶつからずに受け流していく。倒すためではない。雪乃の壁にかかる圧を、少しでも散らすためだ。静が無詠唱で時空遅延を放ち、突っ込んでくる数体の動きを鈍らせる。その隙に、ハルの影が別の数体を地へ縫いとめた。
けれど、縫った先から、鎧はすぐに立ち上がる。鎖を引きちぎって。傷を負わせても倒れない。倒れてもまた起きる。
「上、見るよ!」とハルが叫ぶより早く、アルシオンが羽ばたいた。
天馬は結界の上を一息に駆け上がり、広間を旋回した。風がうなり、舞い上がった塵が晴れる。テイムの絆を通して、アルシオンの見た景色が、陸の頭にぼんやりと流れ込んできた。鎧の群れ。その何十体もが、広間のいちばん奥の一点を、ぐるりと囲むように布陣していた。まるで何かを、外へ出すまいとするように。
陸はその光景を見ていた。
剣を振る、終われない人たち。大和が受け、宗介がいなし、静が時を鈍らせ、ハルが影で縫う。けれど誰一人、とどめを刺そうとはしなかった。できなかった。相手が何者なのかを、知ってしまったからだ。
「倒しちゃだめだ」と陸は言った。確信があった。「この人たち、倒してもまた立つ。ずっとそうしてきたんだ。何十年も。倒されて、立って、また戦って。……敵じゃないんだ。閉じ込められて、終われないだけなんだ」
「じゃあどうすんだよ!」と大和が盾越しに叫んだ。「このままじゃこっちが押し潰される!」
陸はガロードを見た。
ガロードは剣を抜いていなかった。抜けなかったのだ。突進してくる鎧の一つひとつに、見覚えがあった。あの兜の傷。あの肩の紋章。みんな自分の部下だった。
脳裏に、あの日がよぎる。崩れる王城。迫る瘴気。自分が「殿を頼む」と告げたとき、こいつらは笑った。任せろ、隊長、と。先に行ってくれ、と。そう言って、笑って、この地獄に残ったのだ。自分を、逃がすために。
「やめろ」とガロードがかすれた声を絞り出した。「もういい。もう戦わなくていいんだ。お前たち……っ」
声は届かなかった。彼らは止まらない。命令も、もう聞こえていない。何十年は、人が人でいられる時間を、とうに超えていた。
それでもガロードは、剣を鞘に納めたまま、一歩前へ出た。
「ガロード!」と陸が止める間もなかった。
ガロードは結界の際まで進むと、押し寄せる鎧の一体にまっすぐ向き合った。武器を構えもしない。ただ両腕を、わずかに広げた。斬るなら斬れ、というように。
「俺だ」とガロードが言った。「お前の隊長だ。……もう、終わっていい。よくやった。じゅうぶん、よくやった」
鎧が剣を振り上げた。ためらいはなかった。その刃がガロードの脳天めがけて振り下ろされる。
間に、白い光が割り込んだ。
ユニコーンだった。いつのまにか結界を出て、角の光を、刃とガロードのあいだに薄く張っている。剣がその膜に弾かれ、軌道がそれた。鎧がよろめく。
そのときだった。
光に触れた兜の奥に、何かがよぎった。剣を握った手が、わずかに震える。まるで自分がいま何をしているのか、ふと思い出したかのように。それはすぐに消え、鎧はまた剣を構え直した。けれど陸は、その一瞬を見逃さなかった。
「いまの……」と陸は息を呑んだ。「ユニコーンの光だ。あれに触れたとき、この人、止まった」
やさしい白い神獣は、ガロードを庇うように立ち、静かにこちらを見返してくる。
「もっと広く、できる?」と陸は問いかけた。「この広間ぜんぶを、あの光で包めるか」
ユニコーンが小さくいなないた。額の角の光がふくらんでいく。普段は状態異常を祓うだけの、やさしい光だ。けれど呪いもまた、状態異常の一つなのだから。
光が広間に満ちていった。
触れた鎧たちの動きが、次々と、ほんの一瞬ずつ鈍っていく。たった一瞬。それでも確かに、彼らはそのあいだだけ、剣を振るのをやめた。
「効いてる」と陸は言った。「届いてる。この光なら、この人たちを正気に戻せるかもしれない」
「でも一瞬だよ」とハルが影のなかから言った。「すぐまた戻る」
「わかってる」と陸。「だから根っこを止めなきゃいけない。この人たちを、こうしているものを」
ユニコーンの光が満ちているあいだ、鎧たちの動きは目に見えて鈍っていた。雪乃の結界にかかる圧が、ふっと軽くなる。
「いまのうちだ」と宗介。「奥へ行くなら、この隙だぞ」
陸はうなずいた。それから、すぐそばで剣を止めている鎧の一体に、そっと声をかけた。聞こえないことは、わかっていた。それでも言わずにはいられなかった。
「もう少しだけ、待ってて」と陸は言った。「必ず終わらせるから。あんたたちを、ちゃんと外に出すから」
鎧は答えない。ただ光のなかで、剣を握ったまま立ち尽くしていた。まるでその言葉を、どこかで聞いていたかのように。
陸は広間の奥を見た。
そこだけ、空気が違った。
広間のいちばん奥。崩れた祭壇のような場所に、黒い靄がわだかまっていた。脈打つように、ゆっくりと膨らんでは縮む。鎧たちが剣を振るっていたのは、本当は何もない空間ではなかった。あの靄を囲むように、戦っていたのだ。
「あれが魔の核」とシィラが言った。声が、ようやく戻っていた。「あれを抑えるために、この人たちはずっと……」
シィラは杖を強く握り直した。皺だらけの手に、力がこもる。「私が封じた。あの日、この人たちを内側に置いて。……なら、解くのも私の番だ。今度は、逃げない」
その横顔を、静がじっと見ていた。いつのまにか、シィラの曲がっていた背筋が、まっすぐ伸びていた。
そして、その靄のすぐ手前。
たった一体だけ、こちらに背を向けて立つ鎧があった。
他と違っていた。むやみに剣を振り回してなどいない。靄に向かって静かに、けれど一歩も退かずに剣を構えている。まるでたった独りで、その黒いものを押し留めているように。
その背中を見た瞬間、ガロードの足が止まった。呼吸が止まった。
何十年も口にできなかった名前が、震える唇からこぼれ落ちた。
「……ロラン」
その鎧が、ぴたりと動きを止めた。
そして、ゆっくりと振り返った。
その時刻、開発室のモニターの前で、三浦は声を失っていた。
凍結したはずのデッドエリア。その内側のデータが、いま奔流のように流れ込んでいた。封鎖が壊れたことで、何十年ぶりに観測できるようになったのだ。
そして、その中身が三浦の理解を越えていた。
「戦闘インスタンスが、終了していません」とこはるが画面を指でなぞった。「開始から一度も。経過時間の桁が、おかしいです。このNPCたちの戦闘回数……億を、超えてます」
ありえない数字だった。一度始まった戦闘が、何十年ものあいだ一秒も止まらずに回り続けていた。その中で戦い続けた鎧たちのレベルは、もはや表示の上限を振り切っている。人類最強と呼ばれるプレイヤーの、さらにずっと上だ。
「こんなものに」と三浦が呟いた。「あの子たちは、たった八人で挑んでるのか」
「いえ」とこはるが首を振った。画面の一点を見つめている。「戦って、いません。さっきから誰も、とどめを刺していない。守ってばかりです」
三浦は、その意味をしばらく考えた。
倒せない相手に、倒しに行くのではなく。ただ守りながら、奥へ進んでいる。
アルテのログが流れた。
アルテのログ:
「ここでは時間が止まっていた。
いや、止まってなどいなかった。
たった一つの戦いだけが、終わらずに回り続けていた。
剣を振る。
理由はもう覚えていない。
それでも振る。
止まれば、後ろのものがこぼれるから。
誰も見ていなかった。
誰も数えていなかった。
終われない者たちの、終われない夜を。
いま八つの影が、その夜に足を踏み入れた。
倒すためではなく。
終わらせるために。
いちばん奥で、振り返った鎧があった。
何十年ぶりに、自分の名を呼ばれて。」
ロランだった鎧が、こちらを見ている。
兜の奥は暗い。けれど他の鎧とは違った。そこにはまだ、何かが残っていた。光のような、意志のような、何かが。
その鎧が、ゆっくりと剣を持ち上げた。
ガロードに向けてではない。後ろの黒い靄に向けてだった。まるでこう言うように。来るな。これ以上、来るな。ここは俺が抑えている。
ガロードの目から、何かがこぼれた。
「ばかが」とガロードが震える声で笑った。泣きながら、笑っていた。「相変わらず独りで抱え込みやがって。……今度は、俺たちが来た」
封印の奥で、黒い靄がひときわ大きく脈打った。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回はついに封印の内側へ踏み込む回でした。中にいたのは、何十年も終われずに戦い続ける、ガロードのかつての部下たち。倒しても倒れない、倒してはいけない人たちです。だから陸たちは「戦って勝つ」のではなく、「守りながら、終わらせに行く」という、いつもとは逆の戦い方を選びます。ユニコーンの浄化の光が、ほんの一瞬だけ一人の兜の奥に意志を取り戻させた場面。あそこに、この回の希望を込めました。
ガロードは剣を抜けませんでした。当然です。みんな、自分が「殿を頼む」と置いていった部下たちなのですから。その彼が最後に見つけたのは、たった独りで魔の核を抑え続ける、親友ロランの背中でした。「相変わらず独りで抱え込みやがって」。この一言を書きたくて、ここまで積んできた気がします。
開発室が見た“桁の壊れた数字”も、次回から効いてきます。次回、ロランと、そして魔の核と、本当の意味で向き合います。やさしいだけではいられない物語、次話もお楽しみに。
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