第64話「置いていけない」
その日は仕事が早く終わった。夕方のうちに片づいて、夜になる前に机を離れられた。こういう日は珍しい。それでも気分は晴れなかった。あの場所で見たものが頭から離れてくれない。立ち枯れた森。錆びた武具。地面の下から漏れた、あの声。
コーヒーを淹れて少し冷ましてから、ヘッドセットをかぶった。
ログインすると拠点はいつもより静かだった。
焚き火はいつものように燃えている。けれど周りの空気が違った。普段なら頭の上で炎をはじいているフェニクスが、今夜はじっと羽を畳んでいる。ジオトレントも根を地面に張ったまま動かない。みんなどこか様子をうかがっていた。そして小夜は陸の肩ではなくモフの背中で丸くなっていた。尻尾を落ち着きなく動かしている。四本のうちの一本がときおり淡く光っては、すぐに消えた。
ガロードは火の正面に座っていた。剣を膝に乗せ、抜くでもなくただ握っている。シィラはその隣だ。少し前まで、この二人は火を挟んで向かい合い、互いの顔を見ようともしなかった。それが前の晩、何十年分の沈黙をようやく崩した。刃のように張りつめていた距離は、もうそこにない。代わりに、語り終えたあとの静けさが二人を包んでいた。
前の晩、三人で決めたことがあった。緩み始めた封印を――その内側でまだ戦い続けている人たちを、迎えに行く。陸は剣を取らない。ただ弔いに行く。それだけは、もう動かなかった。
柚希の姿はなかった。今夜は夜勤だと前に聞いていた。急変があれば朝まで戻れない仕事だ。
陸は二人の向かいに腰を下ろした。火を見ながら、前の晩の続きのように口を開く。
「行くなら、みんなにもちゃんと話さないとね」
「お前が決めることだ」とガロード。「俺たちの古い話に、あの子たちを巻き込む理由はない」
「巻き込むとかじゃないよ」と陸は苦笑した。「黙って行くほうが、あいつらは怒る。たぶん、すごく」
そのとき、拠点の入口のほうから声がした。
「で? 行くってのは、どこにだ」
振り向くと宗介が立っていた。その後ろに雪乃、大和、静、ハル。今ログインしてきたところらしい。先頭の宗介が腕を組んで、陸を見下ろしている。
「この前、伝言だけ残してふらっと消えただろ」と宗介。「あれから戻ってきて、お前もその二人も、ずっと様子がおかしい。何があった?」
陸は言葉に詰まった。確かに、説明を後回しにしていた。
代わりに口を開いたのは雪乃だった。火のそばのシィラとガロードを見て、それから陸を見て、静かに言う。
「全部話して。私たちにも関係あることでしょう」
陸は話した。あの場所で見たこと。シィラとガロードの過去。封じられた魔。中でまだ戦っている人たち。そして、緩み始めている封印のこと。
聞き終えて、最初に動いたのは大和だった。
「行こう」
それだけだった。前のめりに、まっすぐに。
「ちょっ、大和、即決すぎ」とハルが笑った。けれどその笑いは、いつもの賑やかさとは少し違った。困ったような、それでいてもう決めているような笑い方だった。「……でもまあ、あたしも同じ。聞いちゃったら、知らんぷりできないっての」
静は何も言わなかった。ただシィラのほうへ歩いていって、その隣に座った。弟子が師の隣に座る。それだけのことだ。けれどシィラの肩から、ほんの少し力が抜けたのが陸にもわかった。
「言っておくが」と宗介が髪をかきあげた。「俺はお人好しじゃない。死んだ誰かのために命を張るほど立派でもない」言葉を切る。「ただ、お前が行くって言うなら俺も行く。それだけだ」
宗介らしい言い方だった。まっすぐを、わざと斜めから言う。
陸はみんなを見回した。胸の奥がじんわりと熱くなる。何度味わっても慣れない熱だった。最弱の職業を引いて、誰にも期待されなかった男の周りに、今これだけの人間が立っている。
「……ありがとう」陸はそれしか言えなかった。
「礼はいい」と宗介。「で、いつ行く」
「それはまだ決めてない。準備がいる。何が出てくるかわからないから」
「そうだね」と雪乃。「向こうがどういう場所か、もっと知っておきたい。私の蘇生も浄化も、効くかどうかわからない相手でしょう」
「効かないかもしれないよ」とシィラが言った。「あれは生きてもいないし、死んでもいない。聖女の力が届くかどうか、私にも約束はできない」
雪乃は少しのあいだ考えた。それからうなずいた。
「じゃあ両方用意する。届く前提と、届かない前提と。両方持っていけば、どっちに転んでも動ける」
頼もしい返事だった。雪乃はいつもこうだ。最悪を静かに想定して、そのうえで慌てない。
大和が拳を鳴らした。「壁役は任せろ。何が出てこようが、最初の一発は俺が受ける」
「無茶しないでよ」と雪乃。
「するに決まってるだろ、こういうときは」大和が笑った。
その軽口のおかげで、空気が少しだけほどけた。重い話のただ中でも、この連中は笑うことを忘れない。たぶんそれが、このギルドのいちばんの強さだった。
シィラはその光景を黙って見ていた。焚き火を囲む若い者たち。死人のために剣を握るほど立派じゃない、と言いながら、結局は腰を上げてしまう者たち。
「……変な連中だね」とシィラがぽつりと言った。誰にともなく。「私の逃げた場所に、わざわざ付いてくるなんて」
「逃げた場所じゃないよ」と陸は言った。「これから迎えに行く場所だ」
シィラは何も返さなかった。ただ皺だらけの手で、杖の頭を一度だけ撫でた。長いあいだ自分を罰する道具だった杖を、今は少し違うものを握るように。
それから、しばらくは具体的な話になった。
雪乃が地面に小枝で図を描いた。封印のある古戦場。その手前の立ち枯れた森。前衛は二枚――大和が前で受けて、宗介が遊撃。ハルが先に潜って中の様子を見る。静はシィラの隣で、何かを確かめていた。
「魔の属性は」と静。短く。
「土と、闇」とシィラが答えた。「あの核は、その二つに偏っていた。だから光と風が通りやすい」
それから、シィラは全員を見回した。「ひとつ覚えておおき。封印が開けば、抑えられていた魔も出る。中の者たちが、まだ正気かどうかも、わからない。長すぎたんだ。何十年も、たった独りで戦い続けるには」
陸はその輪の外で聞いていた。誰も陸に指示を仰がない。陸も出さない。みんな勝手に自分の役を見つけて、噛み合っていく。最弱の魔物使いにできるのは、きっかけを作って、あとは見ていることくらいだ。
「神獣は、全部は連れていかないよ」と陸は口を開いた。「あの場所、たぶん狭い。フェニクスの炎やジオの蔦は、あんな場所だと味方ごと巻き込む」
暗い場所を照らして浄めるならユニコーン。空が開けていれば風のアルシオン。残りは拠点で待っていてもらう。そう考えて、陸はふと肩を見た。小夜は、さっきからずっと森の奥を見ている。連れていく、と言うまでもなかった。この子は行く。最初から決めている。
そこまで、だった。
地鳴りが、来た。
これまでの遠い唸りではなかった。拠点の地面が、はっきりと揺れた。焚き火の炎が大きく傾ぐ。棚の小物が転がり落ちる。フェニクスが羽を広げ、ジオトレントが根を地面へ深く打ち込んだ。
「っと……地震?」と大和がよろけた。
「違う」とシィラが立ち上がった。杖を握る手が白い。その顔から血の気が引いていた。「緩みが、一気に来た。こんなに早く……っ」
小夜が陸の肩で身を起こした。尻尾の五本目が、もう消えなかった。淡い光をまとったまま、森の奥へ――封印のある方角へ、金色の目をまっすぐ向けている。
「待って」と雪乃。「まだ準備が、半分も――」
「待ってくれないみたいだ」と陸は静かに言った。
もう一度、地が揺れた。さっきより長く。森の奥から、何かが軋む音が届いた。鉄と石と、もっと古い何かが、無理やりこじ開けられていくような音だった。
陸は立ち上がった。
「行こう」
命令ではなかった。誰かを率いる声でもない。ただ、決めたことを口にしただけだった。
「完璧な準備は、もう間に合わない。それでも……あの人たちを、これ以上、独りにしておけない」
宗介が剣を担いだ。「だろうな。お前はそう言うと思ったよ」
雪乃が、描いたばかりの図を足で消した。「歩きながら詰める。大和は前、ハルは先行。届く前提と届かない前提、両方持った。行ける」
「あたしはもう、半分あっちにいるっての」とハルの声がした。その姿は、すでに影に溶けかけていた。
ガロードが、ゆっくりと剣を腰へ戻した。その目は、もう迷っていなかった。
支度はほとんど何もなかった。いつも通り、ただ立ち上がって歩き出すだけ。それでも、留守を頼む声だけはかけた。
モフがのそりと身を起こして、拠点の入口に腰を下ろした。誰が言うでもなく、ここを守る、という顔だった。フェニクスがその頭の上で、小さく炎をはじく。行ってこい、と言うように。ジオトレントは根を解いて、森のほうへ蔦を伸ばした。道を均しておく、という意味らしい。サンダーウルフだけが、行きたそうに地を踏んだが、狭い場所に雷は向かない。陸が首を振ると、不服そうに鼻を鳴らして、それでもモフの隣に伏せた。
「すぐ、戻る」と陸は言った。留守番たちにも、自分自身にも、言い聞かせるように。
その時刻、開発室では警報が鳴っていた。
「三浦さん、デッドエリアの封鎖が……内側から壊れていきます!」とこはるが叫んだ。
凍結したはずの座標。その外殻が、内側から削られていく。何十年も閉じていたものが、ようやく外へ出ようとしていた。三浦は止めようとコマンドを叩いた。だが、何も通らなかった。
アルテのログが、また一行増えた。誰も書いていない行だった。
『もう、わたしたちには止められません。』
『止めるのではなく、迎えに行ってくれる人がいます。』
三浦はその二行を、ただ見ていた。止める、という発想をAIのほうが先に手放していた。神々が選び、託したのだ。あの最弱の男に。世界の後始末を。
森を抜けるあいだ、誰も多くは喋らなかった。
地鳴りは、進むごとに大きくなった。木々が立ち枯れ、葉が落ち、やがて緑が消えた。空気が重く、冷たくなっていく。何十年も前の戦が、まだそこに居座っているような気配だった。
そして、視界が開けた。
立ち枯れた森の果て。荒れ果てた古戦場。その中央に、地面へ深く沈んだ光の鎖が見えた。封印だった。鎖は軋みながら、一本、また一本と、浮き上がろうとしていた。内側から、押されて。
シィラの足が、そこで止まった。何十年ぶりに、自分が逃げた場所へ戻ってきた老女の顔だった。隣でガロードも、同じ場所を見ていた。一人は閉じた側。一人は閉じ込められかけた側。二人がこの荒れ地に並んで立つのは、あの日以来、初めてのことだった。
「……ただいま」とシィラが誰にも聞こえないほど小さく呟いた。逃げた者が、ようやく口にできる言葉だった。
封印の手前で、ガロードが口を開いた。陸も、その隣に立つ。
「主」とガロード。声が、わずかに震えていた。「ひとつ、頼みがあると言ったな」
「うん」
「あの中で、もしロランに会えたら」ガロードは封印を見据えたまま言った。「俺は、礼を言わなきゃならん。生きろと突き飛ばしてくれた、あの日の礼を。……まだ、言えていないんだ」
ずっと剣を捨てていた男が、今、まっすぐ前を向いていた。仲間を置いて生き残った自分には資格がないと、何十年も信じてきた男が。
「言いに行こう」と陸は言った。「一緒に」
封印の鎖が、ひときわ大きく軋んだ。
陸は仲間を見回した。前に出る大和。その斜め後ろで腰を落とす宗介。すでに影に半分溶けたハル。杖を構えるシィラと、その隣に立つ静。空を見上げるアルシオン。光をまとい始めたユニコーン。そして肩の上で、五本の尾を揺らす小夜。
自分には、剣はない。魔法もない。立派な言葉もない。それでも、この場所まで、みんなを連れてくることはできた。きっかけを作ることは、できた。あとは――。
地の底から、声が、ひとつ聞こえた。
何十年も、誰かを呼び続けていた声だった。
アルテのログが流れた。
アルテのログ:
「封じるとは、忘れることだと、人は思っている。
だが、ちがう。
封じるとは、忘れないために蓋をすることだ。
蓋の内側で、彼らはずっと立っていた。
誰にも見られず、誰にも数えられず。
それでも、立っていた。
ひとりの男が言った。
置いていけない、と。
ようやく、誰かがその蓋を叩いている。
内側で、長く、長く待っていた音に。
外側から初めて、応える音が生まれた。
これは、戦いの物語ではない。
迎えに行く物語だ」
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
今回は“準備”の回……のはずでした。けれど封印は、こちらの支度を待ってはくれませんでした。完璧に整える前に「もう行くしかない」へ転じる――陸たちはついに腰を上げ、古戦場の入口に立ちます。剣も魔法も持たない陸にできるのは、みんなをここまで連れてくることと、きっかけを作ること。あとは、あの声に応えに行くだけです。
シィラの「逃げた」、ガロードの「生き残った」。二人が何十年も背を向けてきた荒れ地に、今度は並んで立ちました。シィラの「ただいま」、ガロードの「礼を言いに行く」。前を向いた二人の背中を、書いていて少し眩しく感じました。
封印は思ったより早く緩み、扉は内側から押し開かれようとしています。地の底から聞こえた声の主に、次回いよいよ会いに行きます。やさしいだけではいられない物語、次話もお楽しみに。
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