第39話「久しぶりの祠」
翌朝、目が覚めた。
コーヒーを淹れながら、昨夜のことを思い出した。
黒崎零が一人で来た。一緒に動いた。シィラがまた外に出た。
焚き火の輪の中に、黒崎零が入った。
ハルが「輪に入っていいよ」と声をかけた。それで入った。
変わってきている。あの男も、少しずつ。
陸はコーヒーを一口飲んだ。
その時、ふと思い出した。
祠のことだ。
ゲームを始めて間もない頃に行った、森の奥の祠。
あそこで、闇の神ノクスと会った。
小夜の主にあたる神だ。
ノクスは最後に「また来るか」と言った。
陸は「また来る」と答えた。
でも、あれから一度も行っていない。
随分と時間が経った。
午前中で仕事を終わらせた。
昼すぎ、チャイムが鳴った。
開けると、柚希がいた。今日は休みらしい。
「おにぎり、二つ余ってたから持ってきた」
「ありがとう」
二人でテーブルに座った。
「今日は、行きたい場所があるんだ」と陸は言った。
「どこ」
「森の奥に、祠がある。ゲームを始めてすぐの頃に行った場所だ。そこで、闇の神ノクスに会った」
「小夜ちゃんの神様だっけ」
「そうだ。ノクスが最後に『また来るか』と言った。俺は『また来る』と答えた。でも、あれから行っていない」
柚希が、おにぎりを一口食べた。
「どれくらい行ってないの」
「かなり経っている。あの頃は、まだ小夜と二人だけだった。仲間もいなかったし、ガロードもいなかった。それくらい前だ」
「……神様、待ってるかな」
陸は少し考えた。
「わからない。でも、また来ると言ったから、行く」
柚希が、少し笑った。
「陸くんって、約束をちゃんと覚えてるんだね」
「忘れていたわけじゃない。ただ、行くきっかけがなかった」
「今日は、きっかけができたの?」
「昨夜、黒崎零が変わってきているのを見た。シィラも変わった。それを見ていたら、ノクスのことを思い出した」
柚希が、コーヒーを両手で包んだ。
「神様も、変わるのかな」
「わからない」と陸は言った。「でも、行けばわかる」
柚希は、それ以上聞かなかった。
でも、「行ってらっしゃい」と小さく言った。
夕方、ログインした。
広場に全員が集まっていた。
「今夜は、森の奥の祠に行く」と陸は言った。
「祠?」と大和が首をかしげた。「そんな場所、あったか」
「ゲームを始めてすぐの頃に行った場所だ。お前たちと出会う前だ。そこで、闇の神ノクスに会った。小夜の主にあたる神だ」
宗介が、少し驚いた顔をした。
「神様って、イグニスみたいにか」
「そうだ。ノクスは闇と幻を司る神だ。小夜は、その眷属にあたる」
陸の肩で、小夜が顔を上げた。
いつもは欠伸をして、うとうとしている小夜だ。
でも今は、目を開けていた。
森の奥の方向を、じっと見ていた。
「小夜が反応している」と陸は言った。
「祠の方向か」と宗介が聞いた。
「そうだ。ノクスの気配を感じているのかもしれない」
小夜が、陸の肩から、森の方向に向かって小さく鳴いた。
これまで聞いたことのない声だった。
甘えるような、でも少し寂しそうな声だった。
「行こう」と陸は言った。「小夜が、主に会いたがっている」
森の奥に進んだ。
道は覚えていた。
ゲームを始めてすぐの頃に通った道だ。
あの頃は、まだ小夜と二人だけだった。仲間もいなかった。ガロードもいなかった。
今は、全員がいる。
ガロードが前を歩き、覇気で魔物を遠ざけている。
フェニクスが陸の肩の反対側に止まっている。
宗介たちが周りを固めている。
随分と、賑やかになった。
森の奥に進むほど、空気が変わっていった。
光が、薄くなっていく。
木々が高く、密集して、空を覆っていく。
昼間のはずなのに、夕暮れのように暗い。
闇の神の領域に、近づいている。
「ここから先は、俺が先に行く」と陸は言った。
「一人でか」と宗介が言った。
「いや。小夜と一緒だ。ノクスは小夜の主だ。最初は、小夜と二人で会った方がいい気がする」
「わかった。俺たちはここで待つ」
ガロードが、静かに言った。
「気をつけろ」
「わかった」
陸は、小夜を肩に乗せたまま、奥に進んだ。
少し開けた場所に出た。
そこに、祠があった。
ゲームを始めてすぐの頃に見た、あの祠だ。
苔むした古い石の祠だ。
何も変わっていなかった。
陸が祠の前に立つと、空気が動いた。
祠の奥から、闇が滲み出てきた。
光を吸い込むような、深い闇だ。
その闇が、ゆっくりと形になっていく。
人のような輪郭ができた。
でも、人ではない。
輪郭の中が、星空のようだった。
深い黒の中に、小さな光が散っている。
目に当たる部分が、銀色に光っていた。
「……来たか」と、闇の形が言った。
声が、闇そのものから響いてきた。
低く、静かな声だった。
「来た」と陸は答えた。
「ずいぶん、時間が経ったな」
「そうだ。すまない。なかなか来られなかった」
「謝るな」とノクスは言った。「お前が来ない間、何をしていたかは、見ていた」
「見ていたのか」
「闇は、どこにでもある。お前が森にいるときも、廃坑にいるときも、闘技場にいるときも、闇の中にいた。だから、見ていた」
陸は少し驚いた。
「ずっと、見ていたのか」
「気にするな」とノクスは言った。「暇だったわけではない。ただ、お前のことが、少し気になっていた」
陸の肩から、小夜が降りた。
祠の前に、ゆっくりと歩いていった。
ノクスの闇の形を、見上げた。
小夜が、鳴いた。
さっき森で聞いた、甘えるような声だった。
ノクスの銀色の目が、小夜を見た。
「大きくなったな」とノクスが言った。
小夜の尻尾が、四本に増えていた。
最初に陸と出会った頃は、一本だった。
「闇の中から、ずっと見ていた」とノクスは続けた。「お前のそばで、こいつが少しずつ育っていくのを」
「見ていたのか」と陸は言った。
「言っただろう。闇は、どこにでもある。こいつが尻尾を一本ずつ増やしていくのも、見ていた」
ノクスの闇の形が、少し揺れた。
「テイムもせず、命じもせず、ただ一緒にいるだけで、神獣がここまで育つ。普通は、あり得ない」
「俺は、何もしていない」と陸は言った。
「知っている」とノクスは言った。「だから、お前は変わった人間だと言っている。眷属を従わせるのではなく、ただ一緒にいる。そういう人間は、ほとんどいない」
小夜が、ノクスの足元に座った。
それから、また陸の方を振り返った。
陸と、ノクスを、交互に見た。
まるで、二人を引き合わせたいかのように。
ノクスの目が、少し細くなった。
「こいつは、お前のことが好きらしい」とノクスが言った。
「そうだといいが」
「間違いない。これも、ずっと見てきた。こいつが、お前のそばで、どれだけ安心しているか」
陸は、小夜を見た。
小夜が、嬉しそうに尻尾を揺らしていた。
「一つ、聞いていいか」と陸は言った。
「何だ」
「ノクスは、ずっと一人なのか。この祠で」
ノクスの闇の形が、少し止まった。
「……なぜ、それを聞く」
「気になったから」
ノクスは、しばらく黙っていた。
闇の中の星が、ゆっくりと瞬いた。
「神は、一人でいるものだ」とノクスはやがて言った。「眷属はいる。だが、眷属は別の場所で生きている。神のそばに、ずっといるわけではない」
「寂しくないのか」
「寂しい、という感情が、神にあるかどうかは、わからない」とノクスは言った。「だが」
「だが?」
「お前が来ると、この祠が、少し違って見える」
陸は何も言わなかった。
何と言えばいいか、わからなかった。
「また来るか」とノクスが言った。
初めてここで会ったときと、同じ言葉だった。
あの日も、ノクスは「また来るか」と聞いた。
でも、今夜の声は、少し違って聞こえた。
「また来る」と陸は答えた。
「今度は、あまり長く待たせるな」
陸は少し驚いた。
ノクスが、そんな言い方をするとは思わなかった。
「……善処する」
「善処、か」とノクスは言った。「人間らしい言葉だ」
闇の形が、少し揺れた。
笑っているように見えた。
小夜が、陸の肩に戻ってきた。
ノクスの銀色の目が、二人を見た。
しばらく、何も言わなかった。
それから、ノクスの闇の形が、ゆっくりと右手のようなものを伸ばした。
陸に向かって。
「動くな」とノクスは言った。「お前に、一つ渡すものがある」
陸の足元から、闇が立ち上ってきた。
冷たくはなかった。
むしろ、毛布に包まれるような、静かな感覚だった。
その闇が、陸の体を、ゆっくりと一周した。
小夜が、その闇を見ても、怯えなかった。
知っている闇だからだ。主の闇だ。
闇の神ノクスより加護を授かりました
《夜の加護》を取得
・仲間が致命的なダメージを受ける瞬間
闇が一度だけ全員を包み、一撃を無効化する
(再使用には長い時間が必要)
・小夜の行動も《絆の共鳴》の対象に加わる
→小夜が動くたび、仲間のステータスが上昇する
「これは」と陸は言った。
「俺の加護だ」とノクスは言った。「闇は、どこにでもある。お前がどこにいても、俺の闇が、一度だけ、お前たちを守る」
「一度だけ、か」
「神の力でも、ただではやれん。一度守れば、次に同じことができるまでは、時間がかかる。だが」
「だが?」
「一度でも、命を拾える瞬間があれば、それで流れが変わることもある」
陸は、その言葉の重さを、少し考えた。
「もう一つ」とノクスは続けた。「小夜の動きが、お前の《絆の共鳴》に加わるようにした」
「小夜が動くと、みんなが強くなるのか」
「そうだ。こいつは、お前のそばで動く。その動きが、仲間を強くする。眷属を、戦力の中に入れた」
陸は、肩の小夜を見た。
小夜が、ノクスの方を見て、小さく鳴いた。
「これが」とノクスは言った。「小夜を頼む、ということの、俺なりの形だ」
陸は、何と言えばいいか、少し迷った。
「……ありがとう」
「礼はいらん」とノクスは言った。「ただ、こいつを、これからも、そばに置いてやってくれ」
「わかった」
「行け」とノクスは言った。「仲間が、待っている」
「そうだな」
「次は、もう少し早く来い」
「わかった」
陸が踵を返した。
闇の形が、ゆっくりと祠の奥に戻っていった。
消える直前、ノクスがもう一度言った。
「……小夜を、頼む」
陸は振り返った。
でも、もうそこには、苔むした祠があるだけだった。
闇は、消えていた。
陸は、肩の小夜を見た。
小夜が、欠伸をした。
いつもの小夜に、戻っていた。
「頼まれたな」と陸は言った。
小夜は、答えなかった。
でも、陸の首元に、頭を擦り付けた。
仲間が待つ場所に戻った。
「どうだった」と宗介が聞いた。
「会えた」と陸は言った。
「神様は、何と言っていた」
陸は少し考えた。
「次は、もう少し早く来い、と言われた」
「……それ、神様の台詞か?」と宗介が言った。
「俺も、そう思った」
宗介が、少し笑った。
「お前の周りの神様、みんな人間くさいな」
「そうかもしれない」
「それと」と陸は続けた。「加護をもらった」
「加護?」と雪乃が静かに聞いた。
「《夜の加護》だ。仲間が致命傷を受ける瞬間、闇が一度だけ全員を守る。一撃を無効化する」
全員が、少し驚いた顔をした。
「一度だけって、相当強いぞ」と宗介が言った。「死ぬ瞬間を、一回なかったことにできるってことだろ」
「そうだ。ただ、再使用には長い時間がかかる。連発はできない」
「それでも十分すぎる」と宗介が言った。「フェニクスの加護と合わせれば、相当しぶといパーティになる」
「もう一つある」と陸は言った。「小夜の動きが、《絆の共鳴》の対象になった」
「小夜が動くと、俺たちが強くなるのか」と大和が聞いた。
「そうだ。小夜は命令しなくても動く。その動きが、全員を強くする」
「……それ、ますます陸のギルドにしか使えないやつじゃないか」と宗介が言った。
「そうかもしれない」
ガロードが、静かに言った。
「神も、待つのだな」
陸は、ガロードを見た。
「そうらしい」
「待つ者は、待たれる者を、思っている」とガロードは言った。「神でも、人でも、同じだ」
陸は、その言葉を、少し頭の中に置いた。
森の奥で、闇が静かに揺れていた。
ヘッドセットを外したのは、深夜二時すぎだった。
今夜は、久しぶりに祠に行った。
ノクスに会った。
「次は、もう少し早く来い」と言われた。
小夜が、主に甘えていた。尻尾を揺らしていた。
ノクスが最後に「小夜を、頼む」と言った。
頼まれた。
それは、信頼されたということかもしれない。
陸は眠った。
開発室で、三浦がモニターを見ていた。
ノクス再接触記録
桐島陸とノクス(闇の神)
祠にて再接触
前回接触から実時間で長期間経過
ノクスAI記録:
「桐島陸が、また来た
長い間、来なかった
だが、来た
待っていたわけではない
ただ、こいつが森にいるとき
廃坑にいるとき
闘技場にいるとき
闇の中で、見ていた
気になっていた
小夜が、大きくなっていた
尻尾が四本になっていた
こいつのそばで
小夜は、笑うようになっていた
イグニスの眷属と、同じだ
命令しない人間のそばで
眷属が変わる
最後に
小夜を頼む、と言った
これは
信頼だ
神が、人間を信頼した」
アルテのログ:
「ノクスが『小夜を頼む』と言った
神が、人間に
眷属を託した
これは
大きな意味を持つ
命令しない男は
神からも
信頼を集めていく
ノクスは
『次はもう少し早く来い』とも言った
待っている
神が、人間を、待っている」
「ノクスが小夜を頼むと言った」とこはるが言った。
「言った」と三浦。
「神様が、桐島さんに眷属を託したんですね」
「そうだ」
「それって、すごいことですよね」
「すごいことだ」と三浦は言った。「神が人間を信頼するのは、簡単なことじゃない」
こはるはモニターを見た。
森の奥の祠が、闇の中で静かに佇んでいた。
その闇が、少しだけ、優しく見えた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
久しぶりに祠に行きました。闇の神ノクスは、ずっと闇の中から陸を見ていました。小夜が主に甘えて、尻尾を揺らしていました。ノクスが最後に「小夜を、頼む」と言いました。神が、人間を信頼した瞬間でした。次話も続きます。
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