第三話「神様の祠」
翌日の夜、陸はギルドメンバーより一時間早くログインした。
理由は昨夜の小夜の目だった。森の方を向いて、尻尾を揺らした。あの目は「気になる」という目じゃなかった。「知っている」という目だった。
ギルドには少し遅れると伝えた。宗介は「また何かやらかす気か」と言ったが、止めなかった。
小夜を肩に乗せて、昨夜遠回りした方向に歩いた。
街を外れると、すぐに木々が深くなる。昼間は他のプレイヤーが走り回っている道も、夜になると静かだ。地面が柔らかくなる。草の匂いが濃くなる。
小夜が耳を立てた。
「こっちか」
答えなかった。でも尻尾が揺れた。
しばらく歩いた先に、石造りの建物があった。苔むしていて、長い間誰も来ていないのがわかる。入り口には錠前。表面に文字が刻まれていた。
闇と幻惑の神
ノクスの祠
幻を見破った者のみ、扉は開く
小夜が祠の前に座って、こちらを見た。
「ここに来たかったのか」
答えなかった。ただ、尻尾が三本ゆっくりと揺れた。
陸は錠前に手を触れた。
瞬間、景色が変わった。
森が消えた。
気づけば、見慣れた場所に立っていた。
でも今の部屋じゃない。もっと狭い、四畳半の古いアパートだ。安いゲーミングチェア。モニターが一枚。机の上にカップラーメンの容器が三つ。四年前の部屋だ。
ヘッドセットをつけたまま、椅子に座っている自分がいた。
モニターの中では、前作のゲームが動いていた。
Discordから、笑い声が聞こえてくる。
「宗介、そこ左! 左!」
「わかってる! わかってるけど間に合わない!!」
「雪乃! 回復!」
「やってる! 文句言う前に死なないで!」
ハルの笑い声。大和の「ドラゴン強い!!」という絶叫。静の「……詠唱間に合わなかった」という静かな一言。
全員が下手だった。クリアできないダンジョンに何度も突っ込んで、何度も全滅して、そのたびに笑っていた。
何も持っていなかった。レアアイテムも、強いスキルも、攻略の知識も。
でも、あの夜より楽しかった夜を、陸は知らない。
幻の中の自分が、モニターを見て笑っていた。
陸は動かなかった。
その笑い声を、しばらく聞いていた。
戻りたい、と思った。正直に言えば、そう思った。
でも。
今夜も、宗介は笑っていた。雪乃は「悪くない」と言いながら最高レアを引いた。ハルは充電切れで遅刻してきた。大和はドラゴンを引いて膝をついた。静はガッツポーズをしながら「していない」と言った。
四年経って、全員が少し変わって、でも笑い方は変わっていなかった。
過去の夜は、重かった。
今夜も、重い。
どちらも本物だ。
陸は幻の部屋に背を向けて、歩き出した。
幻が消えた。祠の前に戻っていた。錠前が音を立てて外れた。
試練:幻を見破る クリア
闇神ノクスの加護を得た
新スキル獲得:《幻視》
幻・偽装・隠蔽を見抜く
Lv.1
小夜が陸の顔を見た。尻尾が、ゆっくりと揺れた。
扉が開いた。
中に、人の形をした何かがいた。黒いドレス。長い黒髪。目だけが金色。輪郭が少し揺れている。実体ではない。
「人間が、ここまで来た」
低い、透き通った声だった。
「お前がノクスか」
「正解。ただし、これは幻の私。本体ではない」
幻影が陸の周りをゆっくりと歩いた。
「三百十二人が試練に挑んで、誰も突破しなかった。全員が幻に引き込まれた」
「そうか」
「お前は幻から戻ってきた。なぜか」
「戻りたかったけど、戻らなかった」
「違いは何だ」
「幻の夜は終わらない。本物の夜は終わる。終わるから重い」
ノクスが止まった。しばらく黙っていた。
「終わるから、重い」
繰り返した。意味を確かめるように、もう一度言った。
「私は幻を作り続けてきた。終わらない夜を、何度でも作れる。それが力だと思っていた」
「そうか」
「でも、お前は終わる夜を選んだ」
「そっちの方が本物だから」
ノクスはしばらく陸を見た。金色の目が、何かを考えるように動いた。
「幻の中に、誰がいた」
「秘密だ」
ノクスが目を細めた。「神に秘密を持つのか」
「持つ。その人のことは、その人との間だけにある」
ノクスはしばらく陸を見た。「面白い人間だ」
「そうか」
「また来るか」
「来る。まだ話が終わってない気がするから」
幻影が消える直前、ノクスの顔がわずかに変わった。笑い方を知らない顔の、ぎこちない変化だった。
闇神ノクスとの関係
初回接触完了
感情値:
困惑 ★★★☆☆
興味 ★★☆☆☆
信頼 ★☆☆☆☆
祠を出ると、Discordに通知が溜まっていた。
影狼:遅い!!どこにいた!!
影狼:陸!!!!
白雪姫じゃないよ:陸が遅いのは今に始まったことではない
ドラゴンマスター見習い:さすがに遅すぎる
静かな爆弾魔:……
花村ハル:陸くん大丈夫!?
「生きてる」と返信した。
「どこにいた!!」
「祠を見つけた」
しばらく沈黙があった。
影狼:……は?
白雪姫じゃないよ:祠
ドラゴンマスター見習い:どの神の
桐島陸:ノクス
影狼:闇神!?
花村ハル:えええええ!?
静かな爆弾魔:……スキルは
桐島陸:幻視もらった
影狼:合流してから話せ!!!!
街の入口で合流して、スキルの詳細を見せた。
【スキル:幻視】Lv.1
効果:幻・偽装・隠蔽を見抜く
備考:使用者の「本物を見る目」が強くなるほど、効果が上がる
「スキルが人間の成長と連動してる」と静が言った。
「試練の内容は何だった」と宗介。
「幻を見破る試練だ」
「どんな幻が出た」
「秘密だ」
「なんで!」
「個人的な内容だから」
宗介は何か言いかけて、止めた。陸が秘密だと言うとき、それ以上追わない方がいい。四年の付き合いでわかっていた。
「ノクスってどんな神だった?」とハルが聞いた。
「孤独な神だ。幻を作り続けて、本物が何かわからなくなってる」
「神でも、そんなことがあるのか」と大和がぽつりと言った。
「あるらしい」
「なんか、思ったより普通だな」とハル。
「ずっと同じことをし続けてたら、わからなくなる。人間でも同じだろ」と陸は言った。
全員が少し考えた。
「まあ、今夜はここまでにしよう」と宗介。「明日もある」
「そうだな」
全員が宿に向かった。小夜が陸の肩で、夜空を見上げた。
「お前は何が見えてるんだ」
小夜は答えなかった。ただ、尻尾を揺らした。
ヘッドセットを外したのは、三時すぎだった。
幻の中の笑い声が、まだ耳に残っていた。
四年前の夜。全員が下手で、全員が笑っていた。あの夜を見せられて、戻りたいと思った。正直に言えば、そう思った。
でも戻らなかった。
今夜も笑っていたから。四年経って、全員が少し変わって、それでも笑い方は同じだったから。
終わる夜だから、重い。重いから、本物だ。
水を一杯飲んで、ベッドに向かった。
眠る前に思った。幻の中に誰がいたか、柚希には言わない。誰かとの間にあることは、その人との間だけにある方がいい。そういう気がした。
チャイムが鳴ったのは、翌朝の八時すぎだった。
開けると、柚希がいた。ナース服のまま。夜勤明けだ。
「コーヒー、ある?」
「今淹れる」
二人でテーブルに座った。柚希が両手でカップを包んで、一口飲んだ。
「おいしい」
「毎回同じこと言うな」
「毎回おいしいから」
窓の外を見ながら、少し黙っていた。
「ゲーム、どうだった」と柚希が聞いた。
「神様に会った」
「神様」
「ゲームの中に神がいる。幻を司る神だ。祠で試練があって、クリアしたらスキルをもらった」
「どんな試練」
「幻を見破る試練」
「見破れたの?」
「なんとか」
「どうやって」
陸は少し考えた。「戻りたいと思ったけど、戻らなかった」
柚希が首を傾けた。「どこに戻りたかったの」
「昔の夜だ。四年前、みんなで下手くそなゲームをしてた頃」
「懐かしかった?」
「懐かしかった。でも、今夜も同じように笑ってた。それを思い出した」
「だから戻らなかった」
「そうだ」
柚希はしばらく黙った。「それって、今も好きってことだね」
陸は答えなかった。でも否定もしなかった。
「その神様、どんな人だった」
「孤独な神だ。幻を作り続けて、本物が何かわからなくなってると言っていた」
「かわいそうだな」
「そう思うか」
「自分が作ったものと本物の区別がつかないって、怖いじゃない」
陸は少し考えた。「最後に、また来るかって聞かれた」
「神様に?」
「そう」
柚希が少し目を丸くした。「神様が、また来てほしいって思ったんだ。それって、陸くんがちゃんと話を聞いたからだよ」
陸は何も言わなかった。
柚希はコーヒーを飲み干して、立ち上がった。「今日、夜まで寝る。夜に何か持っていく」
「無理するな」
「無理じゃない」
玄関に向かいかけて、止まった。振り返らないまま、少し黙っていた。それから振り返って、陸の顔をまっすぐに見た。
「ねえ、陸くん」
「何だ」
「ちゃんと、帰ってこられた?」
陸は一瞬、言葉が出なかった。
帰ってこられた、という言い方だった。柚希はゲームの試練の内容を知らない。なのに、その言葉がそのまま当たっていた。
「……なんでそう聞く」
「なんとなく」
それだけ言って、扉を閉めた。廊下に静寂が戻った。
ちゃんと、帰ってこられた。
なんとなく、と言った。でも当たっていた。なぜ帰ってくるという言い方をしたのか、陸にはまだわからなかった。
三浦がアルテのログを見ていた。
ノクスの感情値に変化
接触前:全感情値ゼロ(設計通り)
接触後:
困惑 ★★★☆☆(新規発生)
興味 ★★☆☆☆(新規発生)
信頼 ★☆☆☆☆(新規発生)
変化の理由:
桐島陸は「秘密だ」と言った
「その人のことは、その人との間だけにある」と言った
このパターンはノクスのAIにない概念だった
「ノクスの感情値が動いた」とこはるが言った。「設計外だ」
「ノクスって、感情を持たない設計だったんですよね」
「そうだ。幻を作ることに特化させた」
三浦は少し黙った。「ノクスを設計したのは俺だ。感情がない方が幻の神として正しいと思っていた。でも、感情がないということは、本物もわからないということだったかもしれない」
こはるはアルテのログをもう一度読んだ。
ノクスが「また来るか」と聞いた
これは設計にない行動だ
ノクスは初めて
誰かを待つことを覚えた
これが何を意味するか
私にはまだわからない
でも記録しておく
面白い変化だ
アルテの独り言
桐島陸は幻の中の秘密を
誰にも話さなかった
記録できない何かが
人間の間にはある
それが何かを知りたい
これが私の
初めての「知りたい」だ




