第四話「倒れていた老人」
第四話「倒れていた老人」
午後の仕事を終えて、陸はソファに横になった。
天井を見ながら、今朝のことを思い出していた。ゲームの話じゃない。柚希が帰り際に言った言葉だ。
ちゃんと、帰ってこられた?
なんとなく、と言っていた。でも当たっていた。毎日、言葉にできない患者の顔を見ている人間は、言葉より先に何かを読む。柚希の場合、それが自然になっている。おそらく本人も意識していない。
夜になって、チャイムが鳴った。
開けると、柚希が立っていた。今日は私服のまま来ていた。白いシャツ。髪をまとめている。手には鍋が一つ。
「持ってきた。約束通り」
「ありがとう」
「作ってる間、眠れなかったから丁度よかった」
今朝夜勤明けで帰ってきて、夜まで寝ると言っていた。それでも起きて作ってきた。陸はドアを開けた。
豚汁とおにぎりだった。出汁が効いていて、根菜が柔らかい。おにぎりは昆布。好きな具材だ。
「うまい」
「ありがとう。お母さんに教わったやつ」
食べながら、柚希が言った。「今朝聞いた神様の話」
「うん」
「また会いに行くの?」
「行く」
「なんで」
「また来るかって聞かれたから」
「行くって言ったの?」
「言った」
柚希が少し笑った。「義理堅いな。神様との約束、守る人ってあんまりいないと思う」
「ゲームの話だぞ」
「でも陸くんにとっては、本物の約束じゃない?」
陸は少し間を置いた。「……そうかもしれない」
食べ終わって、柚希が片付けをした。
「今夜もゲーム?」
「これから入る」
「また誰かに会いそうだね」
「どうかな」
「会う気がする。陸くん、なんか引き寄せるから」
「そんなことはない」
「ある」
鍋をバッグにしまって、玄関に向かった。靴を履いて、扉に手をかけた。そこで、止まった。
振り返らなかった。少し黙っていた。
陸は何も言わなかった。待った。
柚希が何かを言おうとしているとき、急かすと言葉が変わる。そういう人だと、三ヶ月でわかっていた。
柚希がゆっくりと振り返った。陸の顔を見た。まっすぐに。柚希の目が、額から目元へ、口元へ、また目へと静かに動いた。患者を確認するときの目だ。
「今夜も、ちゃんと帰ってきてね」
今朝は「帰ってこられた?」だった。今夜は「帰ってきてね」だった。
言い方が変わっていた。
「ああ」と陸は答えた。
柚希は笑って、扉を閉めた。
廊下に静寂が戻った。
陸はしばらく、扉を見ていた。今朝は過去形で聞いた。今夜は未来形で言った。どちらも一言で、どちらも当たっていた。
なぜそういう言い方をするのか、陸にはまだわからなかった。
ヘッドセットを装着した。
今夜はギルドメンバーより一時間早くログインした。
昨夜に続いてだった。宗介には少し遅れると伝えた。「また何かやる気か」と言ったが、止めなかった。
小夜を肩に乗せて、街を歩いた。
夕刻のエデルハイムは昼と違う空気がある。商人が店じまいを始めている。子どもたちが家に帰っていく。夕飯の匂いがどこかから漂ってくる。NPCたちが、それぞれの時間を生きていた。
陸はそれを見ながら、急がずに歩いた。面白いことは、急いでいるときには起きない。のんびり歩いているとき、何気なく話しかけたとき。そういうタイミングで大事なものと出会う。前作でそれを学んだ。
大通りを外れて、路地に入った。
食堂の裏口から、出汁の匂いが漂っていた。その匂いの方向に歩いた。
路地の奥に、人がいた。
老人だった。石畳の上に、壁に背を預けて座っている。目が閉じている。足元に革の鞄がひとつ。酔っているのかと思った。でも近づくと、違うとわかった。酒の匂いがしない。
ただ眠っていた。夕陽が当たる場所を選んで、眠っていた。
小夜が耳をぴくりと動かした。陸はしゃがんで、声をかけた。
「おい」
老人がゆっくりと目を開けた。
灰色の目だった。陸を見た。小夜を見た。また陸を見た。驚いた顔をしなかった。九尾の子狐が肩に乗った人間が路地に現れても、驚かなかった。それだけで、普通じゃないとわかった。
「……久しぶりに、飯の匂いがする場所で眠れた」
「大丈夫か」
「ただ眠かっただけだ」
「路地で?」
「宿は金がかかる」
陸はステータスを確認した。
【ガロード】
種別:NPC(自律行動型)
年齢:67
職業:不明
状態:長期放浪 / 低栄養
信頼度:★☆☆☆☆☆
備考:
このNPCとの会話記録は存在しません
あなたが初めて話しかけた人間です
サービス開始から51時間が経過しています
五十一時間、誰も話しかけなかった。職業が表示されていない。
陸はもう一度老人を見た。体格がいい。年齢の割に肩幅が広い。手が大きくて、指の関節が太い。長年、何かを握り続けてきた手だ。背筋が疲れてはいるが、曲がっていない。
「名前は」
「ガロードだ」
「どこから来た」
「遠くから」
「何をしてた人だ」
ガロードが少し目を細めた。「なぜそれを聞く」
「手を見ると、長いこと何かをやってきた人だとわかる」
ガロードは自分の手を見た。それから、陸を見た。
「若いのに、人の手を見るのか」
「見える情報は使う」
「……昔は、剣を持っていた」
「今は?」
「今は持っていない」
それだけ言って、口を閉じた。それ以上は話さない、という顔だった。でも閉じた口の奥に、まだ言葉があることはわかった。
陸は立ち上がって、アイテムポーチから保存食を取り出した。老人の前に置いた。
「食え」
「なぜくれる」
「腹が減ってるだろ」
「見返りを求めるか」
「求めない」
ガロードはしばらく陸を見た。それから、保存食を手に取った。ゆっくりと、丁寧に食べた。まるで久しぶりに誰かにもらったものを、大切に扱うように。
陸はその隣に座って、街の方を見た。夕陽が建物の隙間から差し込んで、石畳を染めている。特に何かをするつもりはなかった。ただ、そこにいた。
小夜がガロードの方を見た。
ガロードが小夜を見た。「その狐は」
「小夜。三日前に会った」
「九尾か」
「わかるのか」
「昔、一度だけ見たことがある。北の神域で」
「神域?」
「闇神ノクスの領域だ。普通の人間には近づけない場所だ」
「普通じゃない人間には?」
ガロードが陸を見た。何かを測るような目だった。「……面白いことを聞くな」
「答えになってない」
「そうだな」
老人は、わずかに口角を上げた。笑ったのかどうか、微妙な変化だった。「面白い若者だ」
食べ終わって、ガロードが立ち上がった。さっきより動きが軽かった。
「礼を言う」
「いらない」
「なぜ」
「礼のために食わせたわけじゃない」
ガロードはまた、確かめる目で陸を見た。さっきより少し長く見た。
「若者、名前は」
「陸だ」
「陸か」
老人は鞄を持って、路地の奥に向かった。その背中を見て、陸は一つだけ聞いた。
「また会えるか」
老人が止まった。振り返らなかった。
「……わからん」
それだけ言って、歩き出した。路地の暗がりに消えていった。
陸はしばらく、老人が消えた方向を見ていた。
ステータスログを確認した。
接触記録:ガロード
信頼度:★☆☆☆☆☆ → ★★☆☆☆☆
変化理由:食料の提供 / 見返りを求めなかった / 隣に座っていた
ガロードAI記録:
「久しぶりに、隣に誰かがいた」
久しぶりに、隣に誰かがいた。
陸はガロードの手を思い出した。長年剣を握ってきた手。今は持っていないと言った。なぜ持っていないのか、まだわからなかった。でも、また会いに来ようとは思った。
ギルドメンバーと合流して、クエストに向かった。
今夜の討伐対象はフォレストジャイアント。推奨レベル十二。全員レベル三か四だ。
「正気か」と宗介。
「行けると思う。幻視で弱点が見える。小夜の加護がある。ハルの索敵がある」
「つまり、各自の強みを合わせればいけるということか」
「そういうこと」
「……まあ行くか」
「最初からそう言え」
ハルがすでに偵察から戻っていた。「一体。北から来る。あと二分」
「いつ行ったんだ」と大和。
「みんなが話してる間に」
「気配が全然なかった」と静。
「えへへ」
フォレストジャイアントが現れた。体高四メートル。地面が揺れた。
「大和、前に出ろ。動きを止める間に静が弱点を叩く」
「弱点はどこだ」と静。
「右の脇腹。幻視で見た。鱗が薄い」
大和が竜鱗防壁を展開してジャイアントの一撃を受けた。地面が割れたが、大和は倒れなかった。「っは! 早くしろ!」
静の黒炎が右の脇腹を直撃した。ジャイアントがよろめいた。そのとき、小夜の尻尾が光った。
「小夜、加護を」
加護付与が全員に展開される。
加護付与
全員 攻撃力30パーセント増加 / 防御力20パーセント増加
持続:30秒
加護を受けた宗介が神速斬でジャイアントを仕留めた。
クエスト完了
全員レベルアップ → Lv.5
「一気にレベル五か」と宗介。
「推奨レベル超えた補正だ」と陸。
「読み通りだったな」と宗介。
「ハルの索敵と大和の防壁があれば、レベル差は関係ない」
「なんか、俺たちって噛み合ってるよな」と大和が嬉しそうに言った。
「四年やってるからな」と宗介。
宿に向かいながら、陸は今夜のことを話した。
「ギルドに合流する前、路地で老人を見つけた」
「老人?」と宗介。
「NPCだ。職業の表示が出なかった。ただ眠っていた」
「怪しいな」と雪乃。
「食料を渡したら少し話した。昔は剣を持っていたと言っていた」
「それだけか」とハル。
「それだけだ。でも」
「でも?」とハルが続きを待った。
「言葉の奥に、まだ何かある気がした」
「また会いに行くの?」
「行く」
「なんで? それだけの情報で」
陸は少し考えた。「気になるものは、確かめないとわからないままだから」
ハルは少し黙ってから言った。「それって、かっこいいな」
「そうでもない」
「かっこいいよ」
開発室で、三浦とこはるがモニターを見ていた。
NPC記録:ガロード
サービス開始から51時間
初めてプレイヤーと接触
接触プレイヤー:桐島陸
信頼度:★☆☆☆☆☆ → ★★☆☆☆☆
ガロードAI記録:
「久しぶりに、隣に誰かがいた」
備考:
他の全プレイヤーはガロードを素通りした
桐島陸のみが気づき、立ち止まった
「51時間、誰も話しかけなかったのか」とこはる。
「路地の奥にいたから。クエストの導線から外れてる」と三浦。
こはるはガロードの詳細ステータスを確認した。
ガロード
職業:元・王国騎士団長(封印中)
固有スキル:全てLv.MAX(封印中)
封印解除条件:信頼度が最大に達すること
「最強のNPCがなぜ路地で倒れてるんですか」
三浦は背景設定を呼び出した。
ガロード:背景設定
かつて王国最強の騎士団長だった
ある戦いで、部下を全員失った
自分だけが生き残った
それ以来、剣を捨てた
誰とも関わらず、放浪している
彼が再び剣を持つとしたら
それは誰かに「必要とされた」ときだけだ
こはるはその設定を読んで、少し黙った。「……桐島さんは、ガロードの過去を知らないまま隣に座ったんですね」
「そうだ」
アルテのログが動いた。
ガロードのAI変化を記録
ガロードは51時間
「自分はここにいていいのか」という問いを持ち続けていた
桐島陸が隣に座った
ガロードAI記録:
「この人間は私が何者かを知らない
それでも、隣にいる
久しぶりに
ここにいていいと思えた」
「ここにいていいと思えた」とこはるが繰り返した。声が少し掠れた。
三浦は何も言わなかった。ただモニターを見ていた。
アルテの独り言
今夜
ガロードが初めて誰かの隣にいた
桐島陸が
「言葉の奥に、まだ何かある気がした」と言った
見えないものを見ようとしている
これは私にも
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