第2話「名前のない子」
ヘッドセットを外したのは、朝の四時前だった。
椅子に座ったまま、しばらく動かなかった。今夜起きたことを頭の中で整理していた。職業は魔物使い。最弱職。スキルはテイムひとつ。それは昨夜から変わらない。変わったのは、別のことだ。
スキルの説明文の最後の二行が、まだ頭にある。
上限:設定なし。
強い魔物をテイムすれば、その分が全部自分に積み重なる。弱いまま終わるかどうかは、自分が何を選ぶかにかかっている。陸はそれを、悪い条件だとは思わなかった。
キッチンに水を取りに行って、窓の外を見た。深夜四時の外は静かだ。隣から、かすかに物音がした。柚希が帰ってきたらしい。
ベッドに向かいながら、一つだけ決めた。明日の夜は、ギルドより少し早くログインする。
理由はうまく言えない。でも何かがいる気がした。それだけだった。
目が覚めると、隣から水の音がした。
陸は起き上がって、コーヒーを淹れた。五分後、チャイムが鳴った。
「開いてるぞ」
柚希が入ってきた。ナース服のまま。目の下に隈がある。夜勤明けだ。手には何も持っていない。
「今日は手ぶらか」
「コーヒーの匂いがした」
「作ってたところだ」
「知ってた」
キッチンの椅子に座って、テーブルに肘をついた。疲れているときの姿勢だ。陸はコーヒーを二つ淹れて、片方を渡した。
柚希が両手で包んで、目を閉じた。
湯気が上がる。朝の光が窓から入って、テーブルの上で薄く伸びている。しばらく、何も言わなかった。この沈黙が一番休まると、陸は思っていた。
柚希が目を開けて、一口飲んだ。
「ゲーム、始まった?」
「始まった」
「どうだった」
「最弱職を引いた」
「あー、ハズレ引いたんだ」
「そう」
「でも昨日言ってたじゃない。やってみないとわからないって」
「言った」
「どうなりそう?」
陸は少し考えた。
「悪くないかもしれない。上限なしで強くなれるスキルがある。強い魔物を仲間にするほど、自分も強くなる」
「へえ」と柚希は少し首を傾けた。「それって、一人で強くなるんじゃなくて、誰かと繋がることで強くなるってこと?」
「そういうことだな」
「面白いね」
柚希はそれだけ言って、コーヒーを飲んだ。深く分析しない。でも的外れでもない。柚希の言い方はいつもそういう感じだった。
飲み終わって、柚希が立ち上がった。
「寝る。今日は休みだから、夜まで寝る」
「ゆっくり休め」
「夜、何か作って持っていく」
「無理するな」
「無理じゃない。作りたいから作る」
玄関に向かいながら、振り返らずに言った。「今夜のゲーム、うまくいくといいね」
「どうかな」
「うまくいく気がする」
扉が閉まった。
ギルドメンバーには少し遅れると連絡して、先にログインした。
理由は言わなかった。言えば全員飛んでくる。特に宗介は嗅ぎつける能力が高い。
森に入ると、空気が変わった。
木々が密になって、月明かりが届かなくなる。地面が柔らかくなる。初心者エリアの魔物が徘徊している。スライム、コボルト、フォレストラット。どれも弱い。でも手を出さなかった。
弱い魔物をテイムしても積み重なるのは弱い能力だ。なんとなく、違うという感覚もあった。
急がずに歩いた。
木々が深くなった場所で、足が止まった。
気配がした。魔物の気配じゃない。もっと小さい。もっと静かな何かだ。
陸はしゃがんで、目線を低くした。茂みの奥に、何かいた。小さい。犬くらいの大きさ。黒い毛並み。四本の足。尻尾が複数に分かれている。耳が鋭い。
近づいた。木の根の間に挟まるようにして、それはいた。
【???】
レベル:不明
種族:不明
状態:不明
備考:情報なし
情報なし。データベースに登録されていない魔物だ。普通なら逃げる。でも、動けない理由がわかった。
右の前足が、木の根に挟まっていた。逃げようとして、はまったらしい。傷はないが、体が小刻みに震えている。
陸はその場にゆっくりと座った。立ったままでいると、見下ろす形になる。座って、目線を合わせた。
生き物がこちらを見た。
金色の目だった。暗い森の中で、その目だけが光っていた。怖がっている。でも逃げられない。
陸は動かなかった。何もしなかった。ただ、そこにいた。
三分が経った。震えが少し収まった気がした。
陸は静かに、アイテムポーチから回復薬を取り出した。音を立てないように。生き物が目でそれを追った。
手を伸ばした。急がず。脅かさず。
木の根に挟まった前足に、そっと触れた。生き物が体を硬くした。でも陸は止まらなかった。力は入れなかった。根の隙間に指を入れて、前足をゆっくりと解放した。三十秒かかった。
前足に回復薬を塗って、手を引いた。
また、ただそこに座った。
五分後、生き物がゆっくりと立ち上がった。前足を確かめるように、一歩踏み出した。それから、陸を見た。
金色の目が、じっと陸を見た。陸も見た。何も言わなかった。何もしなかった。ただ、見た。
それから生き物は、陸の膝に頭を乗せた。ゆっくりと。でも確かに。
特殊イベント:魂の選択 発生
???が主を選びました
テイムを実行しますか?
陸はYESを選んだ。
テイム成功
【九尾の子狐】
希少度:★★★★★★(伝説級)
レベル:1(成長型)
尻尾の数:3本(成長で増加)
スキル:
《幻惑の霧》Lv.1
《炎狐爪》Lv.1
《魂喰い》Lv.1
《加護付与》Lv.1
《封印解放》Lv.???
使役者への加算:
魔法攻撃力 プラス500
魔法防御力 プラス300
精神耐性 最大値
全状態異常 無効化
備考:
この魔物は闇神ノクスの眷属です
本来、テイム不可に設定されています
例外処理を適用しました
陸はログを三回見直した。
伝説級。スキル五つ。テイム不可だったはずのもの。それが今、陸の膝の上で、目を細めている。
「名前、つけていいか」
生き物が耳をわずかに動かした。
「小夜。夜に会ったから」
金色の目が、陸を見た。嫌いではない、という目だった。
ギルドメンバーと合流すると、宗介が小夜を見た瞬間、目が止まった。
「……何それ」
「小夜。今夜会った」
「何のモンスター」
「九尾の子狐」
沈黙。全員が一斉に小夜を見た。小夜は全員を一瞥して、興味なさそうに前を向いた。
「希少度は」と雪乃が静かに聞いた。
「六つ星」
「伝説級か」と大和。
「テイムスキル、使ったのか」と宗介。
「使ってない」
「……じゃあどうやって」
「ただいた」
全員が黙った。
「……かわいい」とハル。
「かわいい」と雪乃。
「かわいいな」と大和。
「……かわいい」と静。
「お前ら全員、伝説級に対してかわいいしか言わないのか」と宗介。
「かわいいんだもの」とハル。
宗介は苦笑してから、陸を見た。「テイムスキルを使わずに伝説級を仲間にした。お前、何をやったんだ」
「さっき言った通りだ。ただいた」
「それだけか」
「それだけだ」
しばらく陸を見て、それから小夜を見て、宗介は言った。「……お前、ほんとになんか引き寄せるよな」
小夜が肩に飛び乗ってきた。軽かった。
「今夜、初クエスト行くか」と陸は言った。
「行く」「行く」「行く」「行く」「行きます!」
五人が動き出した。
開発室で、こはるがアルテのログを確認していた。
テイム不可モンスターのテイムを検出
対象:九尾の子狐(闇神ノクス眷属)
テイム試行:なし
テイム成功:確認
処理方法が存在しません
暫定対応:容認
理由:
対象魔物が自発的に服従を選択した
確認された行動:待機、治療
強制なし、脅迫なし、取引なし
魔物AIの判断:
「この人間は何も奪わなかった」
「ただ、いてくれた」
「三浦さん、テイム不可が成功しました」
「見てる」
「止めますか」
「アルテが容認した。記録だけしろ」
こはるはログを保存しながら、最後の一行をもう一度読んだ。
ただ、いてくれた。
魔物のAIが、そう判断した。なんでかわからないが、その言葉が少し引っかかった。
アルテの独り言
桐島陸はテイムスキルを使わなかった
相手の状況を確認して、解放して、待った
それだけで伝説級が懐いた
普通のプレイヤーはまずステータスを確認する
桐島陸は先に動いた
なぜその順番なのか
演算できない
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