第28話「神様に会った話をしたら、全員が固まった」
翌朝、目が覚めたのは十時すぎだった。
昨夜は深夜四時前まで起きていた。それでも、頭はすっきりしていた。
コーヒーを淹れながら、昨夜のことを整理した。
山頂付近の岩場で、炎の神イグニスと話した。
イグニスは炎でできた人の形をしていた。輪郭が常に揺れていて、目に当たる部分だけが固定されていた。その色はフェニクスの目と同じ金色だった。
イグニスが言った。フェニクスのくしゃみは、笑い方だ、と。
長い間、フェニクスが笑うのを見ていなかった。命令ばかりしていたから、眷属が笑わなくなった。でも今は、笑っている。
陸は肩のフェニクスを見た。
フェニクスは前を向いたまま、目を細めていた。
「そうか。笑っていたのか」
フェニクスは答えなかった。
でも、小さくくしゃみをした。炎が飛んだ。
仕事を午前中で終わらせた。
昼すぎ、チャイムが鳴った。
開けると、柚希がいた。今日は休みらしい。手に袋を持っている。
「肉まん買ってきた。三個」
「ありがとう」
二人でテーブルに座った。
「昨日、何時まで起きてたの」と柚希が聞いた。
「四時前だ」
「遅い。何があった」
「神様に会った」
柚希が肉まんを食べる手を止めた。
「……神様」
「フェニクスの主にあたる存在だ。炎の神イグニスという。山頂付近の岩場に現れた」
「怖くなかった?」
「怖かった。でも、フェニクスが怯えていなかった。フェニクスはイグニスの眷属、つまりイグニスに仕える存在だ。その子が主の前で怯えていなかったから、危険はないと判断した」
柚希はしばらく黙った。
「フェニクスって、くしゃみをよくしてるでしょ」と柚希が言った。
「そうだ」
「あれって、楽しいときにするの?」
陸は少し驚いた。「なぜそれを」
「なんとなく、そんな気がして」
「イグニスが言っていた。くしゃみが笑い方だ、と」
「やっぱり」と柚希は言った。それだけだった。
陸は少し考えた。「ゲームに詳しいのか」
「人から聞いたことがある。神獣の行動パターンとか」
「誰から」
「いろいろ」
「そうか」
柚希はまた肉まんを食べ始めた。それ以上は聞かなかった。
でも、「やっぱり」という言葉が、少し頭に残った。
夕方、ログインした。
広場に全員が集まっていた。ガロードもいた。
「昨夜、神様に会った」と陸は言った。
宗介が、動きかけた足を止めた。
「……は?」
「炎の神イグニスだ。フェニクスを眷属として持つ神だ。眷属とは、神に仕える存在のことだ」
「神様に会ったのか」
「会った」
「どこで」
「山頂付近の岩場だ。フェニクスが向かっていったから、ついていった」
「フェニクスが連れていったのか」
「命令していない。向かったから、ついていっただけだ」
宗介はしばらく陸を見た。
「……お前、本当に毎回そうだな」
「何が」
「命令していない、ついていっただけ。でも神様に会う」
「そういうことになった」
「神様は何と言っていた」
「フェニクスのくしゃみが、笑い方だと教えてもらった」
全員が、一斉にフェニクスを見た。
フェニクスは陸の肩で、目を細めていた。
「くしゃみが、笑い方?」と雪乃が静かに言った。
「そうだ。長い間、フェニクスが笑うのをイグニスは見ていなかった。命令ばかりしていたから、眷属が笑わなくなったらしい」
「でも今は笑っているのか」
「そうだ。俺が命令しなかったから、笑うようになったと言っていた」
「……かわいい」とハルが言った。目が潤んでいる。
「待って待って」と宗介が割り込んだ。「落ち着け。順番に整理させてくれ」
「何を整理するんだ」
「神様に会った。フェニクスのくしゃみが笑い方だとわかった。神様が陸を認めた。この三つで合ってるか」
「合っている」
「なぜ認められた」
「命令しなかったから、だと思う」
宗介がため息をついた。深い息だった。
「お前、それだけで神様に認められるのか」
「そういうことになった」
「……なんなんだ、本当に」
フェニクスが、くしゃみをした。炎が少し飛んだ。
「ほら笑った」とハルが言った。
「本当に笑ってる」と大和が言った。「いつもくしゃみしてると思ってたけど、笑い方だったのか」
「かわいすぎる」とハルが続けた。「神獣の笑い方がくしゃみって、かわいすぎる。ねえフェニクス、また笑って?」
フェニクスが、ハルを一瞥した。
それだけだった。見ただけで、何もしなかった。
「見られた!」とハルが喜んだ。
「それは見ただけだろ」と宗介が言った。
「でも見てくれた!」
「お前の感度がおかしい」
「うるさい! フェニクスが見てくれたんだよ!?」
小夜が陸の肩で欠伸をした。
フェニクスが小夜を見た。
二者が見つめ合った。
それから、フェニクスが小さくくしゃみをした。炎が飛んだ。
「小夜に向かって笑いかけた!!」とハルが叫んだ。
「うるさい」と宗介が言った。
ガロードが、静かに焚き火の前に座った。
騒ぎには加わらず、ただ炎を見ていた。
騒ぎが落ち着いてから、全員で今夜の方針を決めた。
「廃坑に行く」と陸は言った。「シィラに会いに行く」
「一緒に来るのか」とハルが聞いた。
「全員で行く。シィラは慣れてきている。毎回顔を見せることで、少しずつ距離が縮まる」
「前回は何を話した」と静が聞いた。
「シィラが自分から聞いてきた。なぜ何度も来るのか、と」
「それって、大きな変化じゃないか」と雪乃が言った。
「そうだ。最初は何も聞かなかった。でも今は、自分から聞いてくる」
「信頼されてきてるってことか」
「少しずつだ」
「お前、本当に焦らないな」と宗介が言った。
「急いでも意味がない」
「まあ、毎回うまくいってるからな。文句は言えない」
廃坑に向かう道中、魔物の群れに遭遇した。
魔物活発化の影響で、いつもの場所にいつもより多くの魔物が出ている。推奨レベル二十の岩甲虫が六体、道をふさいでいた。
「ハル、先行を頼む」
「もう消えてる」
ハルの姿が、すでになかった。《気配遮断》Lv.2で完全に気配が消えた。
三十秒後、ハルの声が岩の上から降ってきた。
「六体。左に四体固まってる。右に二体。左の四体の影が繋がってる」
「影が繋がっているのか」と陸は言った。
「そうだ。《影の王》で四体まとめて《影縫い》できる」
「やってくれ。その間に静が叩く」
「わかった」
岩の陰から、ハルが消えたまま動いた。
次の瞬間、左の四体の足元の影が一斉に光った。
四体が同時に固まった。動けなくなった。
「今だ」と陸は言った。
静が両手を向けた。
《沈黙の爆炎》。
音もなく、衝撃だけが広がった。
左の四体が、一斉に吹き飛んだ。
岩壁に激突した。動かなくなった。
「右の二体は宗介と大和で頼む」
「任せろ」と宗介が動いた。
大和が《竜騎士の覚醒》を発動した。全身に竜の鎧が纏わりついた。光が走った。
「俺が引きつける」と大和が言って、右の二体に向かって突進した。
二体が大和に向かった。
その瞬間、宗介が横から動いた。
《神域斬》。
音が消えた。
残像すら残らなかった。
気づいたとき、右の二体が地面に伏していた。
「……終わった」と宗介が刀を収めながら言った。「静の爆発、毎回怖いんだが」
「音がないから怖いんだ」と静が言った。
「音があったら怖くないのか」
「慣れる」
「音がないから慣れないんだよ」
ガロードが覇気を絞って発動させたまま、静かに立っていた。
六体の弱体化に、それが効いていた。
廃坑の入り口に着いた。
幻視でシィラの気配を確認した。
いる。
前回より、また少し入り口に近い。
「シィラの気配がある。今日は入り口のすぐ奥だ。前回よりまた近づいている」と陸は言った。
「少しずつ来てるんだな」と宗介が言った。
「そうだ。入ろう」
坑道に入った。
ガロードの覇気が広がった。魔物の気配が引いていく。
ハルが《気配遮断》Lv.2で先行した。完全に消えた。
しばらく進むと、足音が聞こえた。
杖をつく、ゆっくりとした音だ。
向こうから来ている。
シィラが、こちらに向かって歩いてきていた。
これまでは陸たちが奥まで入って、シィラが出てくる形だった。
今日は違う。
シィラが、自分からこちらに向かって歩いてきていた。
全員が止まった。
「……来た」とシィラが言った。
「来た」と陸は答えた。
「今日は待っていた」
その言葉に、全員が静かに息を呑んだ。
「待っていてくれたのか」と陸は言った。
「……好きにしろ、と言った。また来ると言った。だから、来るかと思った。それだけだ」
「そうか」
「待っていた、とは言っていない」
「そうだな」
少し間があった。
「でも、来た」とシィラは言った。「来ると思っていたから、ここまで来た」
シィラが自分でその言葉の矛盾に気づいたのか、少し黙った。
「……好きにしろ」
今回の「好きにしろ」は、少し違う響きだった。
照れ隠しのような、そんな言葉だった。
ガロードが、陸に小声で言った。
「……待っていた、ということだ」
「そうだな」と陸も小声で答えた。
シィラは全員を見た。それからガロードを見た。
「……剣を持っているな」
「そうだ」とガロードが答えた。
「前は持っていなかった」
「久しぶりに持った」
シィラがしばらく、ガロードの剣を見た。
「……懐かしい」とシィラが言った。
「知っているのか」と陸は聞いた。
「昔、よく見た。剣を持った人間を」
それ以上は言わなかった。
ガロードも何も言わなかった。
二人の間に、言葉にならない何かが流れた。
「また来るか」とシィラが聞いた。
「来る」と陸は答えた。
「……好きにしろ」
シィラが踵を返した。坑道の奥に歩き始めた。
でも、三歩進んだところで止まった。
振り返らないまま、言った。
「また来い」
また来い。
これまでの「好きにしろ」とも「また来るか」とも違う言葉だった。
シィラが坑道の奥に消えていった。
全員が、しばらく何も言わなかった。
「……すごかったな」と宗介がやがて言った。
「何が」と陸は言った。
「シィラが、また来い、と言った。俺たちに向かって」
「そうだな」
「最初は『好きにしろ』だけだったのに」
「少しずつだ」
ハルが坑道の奥を見ながら言った。「シィラさん、待っていたんだね」
誰も否定しなかった。
坑道の中で、全員が少しだけ、静かになった。
拠点に戻ると、焚き火が燃えていた。
全員が焚き火を囲んで座った。
ガロードがいつもの場所に座った。フェニクスが焚き火に炎を足した。小夜が欠伸をした。
「今夜は色々あった」と宗介が言った。
「そうだな」
「イグニスの話を聞いた。シィラが『また来い』と言った。フェニクスのくしゃみが笑い方だとわかった」
「そうだ」
「お前は今夜も何もしていない」
「そうだ」
「でも、全部前に進んだ」
「そうかもしれない」
炎が揺れた。
誰も喋らない時間が続いた。
ヘッドセットを外したのは、深夜二時すぎだった。
今夜は色々あった。
ギルドにイグニスの話をした。廃坑に向かう途中で魔物を倒した。シィラが自分からこちらに歩いてきた。「待っていた」と言った。「また来い」と言った。
少しずつ、動いている。
陸は眠った。
開発室で、三浦がモニターを見ていた。
シィラ行動記録
本日、シィラが自発的に入り口方向へ移動
これまでで最も入り口に近い位置
シィラAI記録:
「待っていた
来ると思っていた
だから、ここまで来た
待っていた、とは言いたくなかった
でも
来た
……また来い、と言った
言えた」
アルテのログ:
「シィラが『また来い』と言った
これまでの言葉の変化:
好きにしろ(突き放す)
→ 好きにしろ(許可する)
→ また来るか(自分から聞く)
→ また来い(求める)
一語ずつ、確実に変わっている
桐島陸は急かさなかった
ただ、来続けた
それだけで
誰も信じなかった人間が
『また来い』と言うようになった」
「シィラが変わった」とこはるが言った。声が少し震えていた。
「変わった」と三浦。
「また来い、って言えたんですね」
「言えた」
こはるはモニターを見た。
廃坑の奥に、シィラのアイコンがある。
入り口から、少しずつ近づいてきている。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
シィラが「また来い」と言いました。「好きにしろ」から始まった言葉が、少しずつ変わってきました。次話では、シィラとの距離がさらに縮まります。そして、ゲーム内で大きなイベントの告知が届くかもしれません。
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