06:増える
戸田の会社から帰り、事務所の鍵を開けた瞬間。
匂いがした。
あの部屋の匂いだった。
消毒液の奥にある、甘さ。
金属のような、湿った空気。
墨田は、その場で止まった。
昨日の残りではない。
ドアを開けた外からは、なかった。
中にある。
「……墨田さん?」
後ろから高橋の声。
「入るな」
短く言う。
だが、高橋はもう一歩踏み込んでしまっていた。
その瞬間。
コツ。
事務所の奥で、音がした。
水音ではない。
足音でもない。
何かが、置かれた音。
二人は同時に中を見る。
誰もいない。
だが、確実に何かが増えている。
墨田はゆっくりと中に入る。
空気が重い。
昨日よりも、濃い。
デスクに近づく。
視線を落とす。
袋がある。
白いビニール袋。
一つではない。
三つ。
同じ形。
同じ結び目。
整いすぎている。
「……増えてる」
高橋の声がかすれる。
墨田は答えない。
分かっている。
昨日は、二つだった。
今日は、三つ。
誰も触っていないのに。
誰も入っていないのに。
増えている。
カサ。
音がした。
一つの袋が、わずかに動く。
結び目が、ゆっくりと締まる。
ぎ、と。
内側から。
「……開けますか」
高橋が言う。
声が震えている。
だが、その場から動かない。
逃げていない。
墨田は、袋を見つめる。
開けるべきか。
――――それとも。
処理するべきか。
仕事として。
「……そのままにしろ」
そう言った瞬間。
音がした。
背後で。
振り返る。
流し。
蛇口が開いている。
水が流れている。
止まっていたはずなのに。
今し方まで、確かに。
閉めた。
完全に。
なのに。
今、開いている。
水が流れ続けている。
ぽたり、ではない。
止まらない。
連続している。
「……墨田さん」
高橋が言う。
「音、増えてませんか」
聞く。
水音。
足音。
――――そして。
もう一つ。
呼吸音。
近い。
すぐ後ろで。
誰かが、息をしている。
ゆっくりと。
墨田は、振り返らない。
分かっているからだ。
見ても、いない。
だが。
確実に、いる。
「……高橋」
「はい……」
「聞こえるか」
「はい」
「何人だ」
少し、間が空く。
「……分かりません」
その答えが、正しかった。
一人ではない。
二人でもない。
数が、分からない。
重なっている。
増えている。
減っていない。
カサ。
また音。
デスクの上。
袋が、四つに増えている。
誰も触っていないのに。
誰も動いていないのに。
そこにある。
「……もういい」
墨田は言った。
低く。
「処理する」
袋に手を伸ばす。
掴む。
冷たい。
――――だが。
今度ははっきり分かる。
中に、何かがある。
動いている。
わずかに。
押し返してくる。
内側から。
墨田は、力を込める。
持ち上げる。
――――その瞬間。
耳元で、声。
「……やっと触った」
手が止まる。
袋の中で、何かが動く。
形を変える。
指に、触れる。
柔らかい。
人の形に近い。
だが、歪んでいる。
押し込まれている。
詰め込まれている。
無理やり。
小さく。
収まる形に。
ぐに、と。
袋の内側から、何かが広がる。
結び目が、歪む。
ほどける。
ゆっくりと。
内側から。
「……やめろ」
墨田は言った。
誰に言っているのか分からない。
――――だが。
止まらない。
袋が、膨らむ。
音がする。
骨のような。
何かが、擦れる音。
高橋が後ろで崩れる。
「……墨田さん……それ……」
言葉にならない。
袋の中から、何かが押し上がる。
形になる。
指のようなもの。
細く。
長く。
ありえない角度で。
結び目の隙間から、出てくる。
墨田は、袋を叩きつけた。
床に落ちる。
音が止まる。
一瞬だけ。
――――静寂。
そして。
カサ。
もう一つの袋が動く。
また一つ。
また一つ。
すべてが。
同時に。
歪む。
膨らむ。
動き出す。
「……外出るぞ」
墨田は言った。
高橋の腕を掴む。
引く。
ドアへ向かう。
背後で、音がする。
這う音。
擦れる音。
複数。
重なっている。
追ってくる。
距離が縮まる。
ドアに手をかける。
開ける。
外へ出る。
ドアを閉める。
音が止まる。
――――完全に。
何も聞こえなくなる。
空気が軽い。
現実の重さ。
二人はその場に立ち尽くす。
息を整える。
何も言わない。
言えない。
しばらくして。
高橋が、かすれた声で言う。
「……あれ、何ですか」
墨田は答えなかった。
ただ。
分かっていた。
あれは。
「残っているもの」じゃない。
「戻ってきたもの」でもない。
最初から。
ずっと。
そこにあった。
――――ただ。
見える形になっただけだ。
ゆっくりと、顔を上げる。
事務所のドア。
内側。
わずかに、隙間がある。
閉めたはずなのに。
その奥から。
白いものが見える。
――――袋。
増えている。
まだ。
増え続けている。
「……終わってない」
墨田は、低く言った。
それは現場の話ではなかった。
――――もう。
場所の問題じゃない。
どこにでもある。
ついてきている。
増えている。
止まっていない。
そのとき。
ポケットの中で、スマホが震えた。
画面を見る。
着信。
戸田正隆。
表示を見た瞬間。
背筋が冷える。
タイミングが、正確すぎる。
まるで。
見ていたみたいに。
墨田は、しばらく画面を見つめた。
そして。
ゆっくりと、通話ボタンを押した。
まだ、何も言っていないのに。
向こうから、声がした。
「増えてますよね」
低く。
静かな声で。
完全に、理解している声だった。




