05:計算済み
戸田正隆は、音に敏感な人間ではない。
むしろ、鈍い方だと自覚している。
だからこそ、仕事が続いている。
扉が閉まる音を、背中で聞いた。
墨田と、あの若い社員が出ていく。
足音が遠ざかる。
階段を降りる音。
やがて、完全に消える。
静かになる。
戸田は、そのまましばらく動かなかった。
何かが残っている。
空気の中に。
かすかに。
だが、それは問題ではない。
「……気にしすぎだ」
小さく呟く。
デスクに戻る。
椅子を引く。
座る。
机の上に、資料が並んでいる。
物件一覧。
価格推移。
契約履歴。
すべて、正常だ。
予定通り。
順調に、下がっている。
「いい流れだ」
数字は嘘をつかない。
価値は下がる。
下がれば、買える。
それだけの話だ。
戸田は、ペンを手に取る。
チェックを入れる。
一つ、また一つ。
処理済み。
その文字を見て、わずかに考える。
処理とは何か。
臭いを消すことか。
痕跡を消すことか。
記憶を薄めることか。
違う。
価値を動かすことだ。
それができれば、十分だ。
それ以外は、副産物に過ぎない。
カチ、と音がした。
ペン先が止まる。
顔を上げる。
流しの方。
誰もいない。
蛇口が、わずかに動いている。
ぽたり。
水が落ちる。
戸田は、しばらくそれを見ていた。
「……残っているのか」
小さく言う。
だが、立ち上がることはしない。
対処する必要はない。
この程度なら、問題にはならない。
むしろ。
少しあった方がいい。
完全に何もないよりも。
わずかに違和感が残る方が。
値は落ちる。
それでいい。
戸田は再びペンを動かす。
――――そのとき。
視界の端に、白いものが映った。
机の上。
袋だった。
白いビニール袋。
さっきまで、なかったはずのもの。
戸田は、手を止める。
数秒。
見つめる。
結び目。
無駄がない。
綺麗だ。
「……良い仕事だ」
そう言って、指で軽く触れる。
冷たい。
――――だが。
ほんのわずかに。
中から、引かれる感触がある。
戸田は、手を離した。
これも、問題ではない。
中身が何であれ。
関係ない。
それが、誰のものであれ。
関係ない。
重要なのは。
それが、どれだけの価値を動かすかだ。
戸田は立ち上がる。
窓の方へ歩く。
外を見る。
通りを歩く人間。
車。
光。
どれも同じだ。
場所が違うだけで。
やっていることは変わらない。
「事故は、起きるものじゃない」
ガラスに映る自分に向かって言う。
「起こすものだ」
静かに。
そのとき。
背後で、音がした。
足音。
一歩。
また一歩。
近づいてくる。
戸田は振り返らない。
必要がない。
知っているからだ。
それが、何であるかを。
ゆっくりと、口を開く。
「まだ、残っていましたか」
返事はない。
だが、気配は止まる。
すぐ後ろで。
「構いません」
戸田は言う。
「あなたがいても、いなくても」
一瞬、間が空く。
「価値は動きます」
沈黙。
空気が、わずかに重くなる。
それでも。
戸田は動かない。
恐れていない。
興味もない。
ただ。
計算している。
その存在が、どれだけ影響するかを。
やがて。
気配が、消える。
何もいなくなる。
――――静寂。
戸田は、ゆっくりと振り返った。
机の上。
袋がある。
二つに増えている。
同じ形。
同じ結び目。
戸田は、それを見て。
ほんのわずかに、笑った。
「……それでも、足りませんね」
小さく呟く。
そして、ペンを手に取る。
新しい物件の欄に、チェックを入れる。
――――候補。
次の場所。
次の事故。
次の価値。
すべて、予定通りに進む。
そう思っていた。
その瞬間。
机の上の袋が、わずかに動いた。
結び目が、ゆっくりとほどける。
内側から。
戸田は、それを見ていた。
初めて。
ほんのわずかに。
表情が止まる。
中から、音がする。
何かが。
擦れる音。
――――そして。
声。
「……足りないのは」
低く。
湿った声。
「お前の方だ」
戸田は、何も言わなかった。
ただ、袋を見つめる。
その目に。
初めて。
わずかな誤差が生まれていた。




