04:忘れていた袋の怪異
その現場のことは、忘れていなかった。
ただ、思い出さないようにしていただけだ。
古い二階建ての住宅だった。
住宅街の奥。
似たような家が並ぶ中で、そこだけが妙に静かだった。
音が、なかった。
風の音も。
外の生活音も。
まるで、そこだけ切り離されているみたいに。
当時の墨田は、それを気にしなかった。
現場はいくらでもある。
一つ一つに引っかかっていたら、仕事にならない。
玄関を開ける。
匂いは、軽かった。
腐敗臭はほとんどない。
その代わり、強い消毒の匂いが残っていた。
――処理が早すぎる。
そう思った記憶はある。
だが、そのときはそれ以上考えなかった。
事故内容は、階段からの転落。
一人暮らしの女性。六十代。
事件性なし。
ありふれた案件だった。
墨田は作業に入る。
床の状態を確認する。
血痕は少ない。
だが、位置がおかしい。
階段の途中ではなく、少し下。
落ちたというより――
そこで思考を止めた。
「……まあ、いいか」
当時の墨田は、そう言った。
現場は現場だ。
理由を考えるのは、自分の仕事じゃない。
作業は進む。
削り、拭き、処理する。
何もなかった状態に戻す。
問題は、最後だった。
浴室。
乾いている。
処理も済んでいる。
――――だが。
洗面台の下。
小さなゴミ箱の中に、それはあった。
白いビニール袋。
きつく結ばれている。
当時の墨田は、それを見て、少しだけ違和感を覚えた。
整いすぎている。
ただのゴミにしては、無駄がない。
均一で、癖のある形。
――――誰が結んだ。
一瞬だけ、そう思った。
だが……。
「回収漏れか」
そう処理した。
袋を持ち上げる。
軽い。
中身は確認しなかった。
そのとき。
コツ、と音がした。
階段の方から。
振り返る。
誰もいない。
だが、音は続いている。
一段。
また一段。
降りてくる。
墨田は、動かなかった。
見ないことにした。
聞こえていないことにした。
それが、一番早く終わる方法だった。
作業を続ける。
音は、途中で止まった。
最後まで、誰も現れなかった。
現場は、終わった。
報告書にも、何も書かなかった。
それで終わるはずだった。
だが。
あの袋だけは、少し違った。
処分するために持ち上げたとき。
ほんの一瞬。
重さが、変わった。
軽かったはずの袋が。
わずかに、重くなった。
まるで。
中に、何かが入ったみたいに。
墨田は、そのまま処理した。
見なかったことにした。
気のせいだと、決めた。
それで、終わった。
――――終わったはずだった。
現在。
事務所のデスクで、墨田は画面を見ていた。
今日の現場。
白い袋。
同じ結び目。
そして。
机の上に置かれている、もう一つの袋。
同じ形。
同じ手順。
指先が、わずかに震える。
「……あのときからか」
声に出た。
高橋が顔を上げる。
「え?」
墨田は答えない。
ただ、分かっていた。
あの現場。
あの袋。
あの音。
全部、そこにあった。
最初から。
ただ、自分が。
見なかっただけだ。
そのとき。
机の上で、音がした。
カサ、と。
袋が、わずかに動く。
誰も触れていないのに。
結び目が、ゆっくりと歪む。
締まる。
さらに、強く。
まるで。
同じ手順で、もう一度結ばれているみたいに。
「……墨田さん」
高橋の声が、かすれる。
「これ……増えてませんか」
墨田は、視線を落とした。
机の上。
――――袋が、二つになっていた。
同じ形。
同じ結び目。
いつの間にか。
増えている。
そのとき――――。
耳元で、声がした。
今度は、はっきりと。
「……見てたでしょ」
墨田は目を閉じた。
否定は、しなかった。
できなかった。
あのとき。
確かに、見ていた。
――――そして。
見ないことにした。
その結果が、これだ。
ゆっくりと目を開ける。
「……高橋」
「はい……」
「明日、不動産に行く」
声は静かだった。
「これ、人の手だ」
一瞬、間が空く。
「でも、それだけじゃない」
机の上の袋を見つめる。
結び目が、わずかに動いた。
誰も触れていないのに。
――――まるで。
まだ続いているみたいに。




