07:手
通話は、切らなかった。
墨田が何も言わないまま、数秒が過ぎる。
その間も、向こう側の呼吸は一定だった。
「……どこまで進みました」
戸田が言う。
問いではない。
確認だ。
「事務所です」
墨田は短く答える。
「袋が増えています」
「いくつ」
「……分かりません」
数えられない。
増え続けている。
わずかな沈黙。
「そうですか」
戸田の声は変わらない。
焦りも、驚きもない。
「では、予定より早いですね」
意味が分からない。
「何の話だ」
「移動です」
静かに言う。
「現場から、次の場所へ」
墨田は言葉を失う。
理解したくない形で、意味が繋がる。
「……持ち帰ったのか」
「いいえ」
戸田は即答した。
「最初から、ついてきています」
背筋が冷える。
墨田は、ゆっくりと事務所のドアを見る。
わずかに開いた隙間。
そこから、白いものが覗いている。
増えている。
止まらない。
「どうすればいい」
その問いは、ほとんど無意識だった。
――――沈黙。
そして。
「処理します」
戸田は言った。
迷いなく。
「今から行きます」
通話が切れる。
それだけだった。
説明もない。
理由もない。
ただ、来るとだけ。
墨田は、しばらく動かなかった。
「……墨田さん」
高橋が言う。
「来るって……あの人、本気で」
「来る」
短く言った。
「戸田さんは、これを止めるつもりだ」
「止まるんですか、これ」
返事はなかった。
事務所の中で、音がする。
カサ。
擦れる音。
床。
机。
壁。
どこからでも。
袋が増えている。
形を保ったまま。
同じ結び目で。
それが。
動いている。
少しずつ。
こちらに寄ってくる。
距離を詰めるように。
「……逃げますか?」
高橋が言う。
だが、墨田は首を振った。
「無駄だ」
「え?」
「もう場所の問題じゃない」
その言葉の直後。
階段で、足音がした。
ゆっくりと。
一段。
また一段。
階段を上ってくる音。
だが。
この音は、遅れない。
正確だ。
現実の音だ。
止まる。
墨田と高橋の背後で。
振り向くと、戸田が立っていた。
「お疲れさまです」
いつもの声。
いつもの表情。
その背後。
何もいない。
ついてきていない。
戸田だけが、そこにいる。
それが逆に、不自然だった。
戸田はおもむろにドアを開け、室内を見渡す。
袋。
床一面。
机の上。
壁際。
数えきれない。
増殖している。
それを見て。
「……想定より早い」
戸田は小さく呟いた。
驚きではない。
誤差の確認だ。
「下がってください」
戸田は言う。
墨田も高橋も、動かない。
「処理します」
その言葉に。
何かが反応した。
袋が、一斉に動く。
膨らむ。
歪む。
中から、形が浮き出る。
――――人間の手ようなもの。
押し込められた形が。
無理やり、出ようとする。
カサカサカサ。
音が重なる。
増える。
近づく。
戸田は、一歩前に出た。
そして。
袋を一つ、踏みつけた。
音が止まる。
一瞬だけ。
そのまま、言う。
「順番を守ってください」
静かに。
その言葉は。
人に向けたものではなかった。
袋が、震える。
動きが鈍る。
だが、止まらない。
戸田はポケットから、何かを取り出す。
細いスプレー。
無色透明の液体。
それを、床に散布する。
霧状に広がる。
匂いはない。
――――だが。
袋が、反応する。
後退する。
わずかに。
「……効いてる」
高橋が呟く。
戸田は答えない。
ただ、淡々と撒く。
範囲を広げる。
空間を区切るように。
「ここから先は」
低く言う。
「処理範囲外です」
袋が止まる。
境界で。
それ以上、進まない。
――――だが。
その代わり。
別の方向へ動く。
壁。
天井。
上へ。
逃げるように。
「……完全には止まらない」
墨田が言う。
戸田は、頷いた。
「ええ」
あっさりと。
「止まりません」
その言葉に、温度はなかった。
「ですが」
視線を上げる。
「偏らせることはできます」
袋が、天井に集まる。
重なる。
膨らむ。
一つの塊になる。
巨大な。
歪な形。
動く。
蠢く。
圧縮された何か。
戸田は、それを見上げる。
「価値が集中する」
小さく言う。
「良い傾向です」
その瞬間。
塊が、膨張する。
耐えきれないほどに。
形が崩れる。
内側から、何かが押し出される。
声。
無数の。
重なった声。
「……まだ」
「……足りない」
「……出せ」
「……全部」
空気が震える。
圧がかかる。
戸田の表情が、わずかに止まる。
初めて。
ほんの一瞬。
計算が崩れる。
「……想定外ですね」
小さく呟く。
――――そのとき。
塊が、割れた。
内側から。
白いものが、溢れ出す。
袋。
さらに増えている。
数が、跳ね上がる。
空間が埋まる。
境界を越える。
スプレーの範囲を。
侵食する。
「……下がってください」
戸田が言う。
今度は、はっきりと。
「これは、処理できません」
初めての言葉だった。
――――“できない”。
その瞬間。
袋が、一斉にこちらを向いた。
方向を持つ。
意思を持つ。
そして。
一歩、前に出る。
境界を越えて。
こちらへ。
戸田は動かない。
ただ、見ている。
その目に。
初めて。
明確なズレがあった。
計算が合っていない。
理解が追いついていない。
それでも。
口を開く。
「……なるほど」
低く。
「そういう“構造”ですか」
理解しようとしている。
まだ。
やめていない。
袋が、近づく。
距離が消える。
あと一歩。
そのとき。
墨田が動いた。
床の袋を、踏みつける。
音が止まる。
一瞬だけ。
戸田が、視線を向ける。
墨田は言う。
「これ、全部人の手だろ」
根拠はなかったが、袋の中身がそう示してくる。
戸田が静かに言う。
「……ええ」
認めた。
初めて。
「ですが、もう違います」
袋が、再び動く。
止まらない。
増える。
満ちる。
空間を埋める。
完全に。
逃げ場がなくなる。
その中で。
戸田は、立っていた。
崩れない。
まだ。
思考を止めていない。
ただ一言。
「……次の手順が必要ですね」




