02:告知事項アリ
玄関の前で、墨田は立ち止まった。
ドアの向こうから、音がしている。
かすかに。
――だが、確かに。
水が落ちる音。
何かが擦れる音。
そして、気配。
生活音だった。
――だが、この部屋は空室のはずだ。
「……墨田さん」
背後で、高橋が小さく言った。
「今の、聞こえましたよね」
「聞こえたな」
「人、いますよね」
「書類上は、いない」
墨田は鍵を差し込む。
回す。
その瞬間、音が止まった。
ぴたりと。
まるで、こちらに気づいたみたいに。
ドアを開ける。
空気が流れ出る。
腐敗臭はない。
代わりに、消毒液の匂いが強く残っていた。
一次清掃は終わっている。
だが、この部屋は「終わっていない」。
それが、依頼内容だった。
――誰もいないのに、生活音がする。
内見に来た人間が、全員同じことを言った。
墨田は靴のまま中へ入る。
床はきれいだ。
ワックスも均一。
だが、踏んだ瞬間、わずかな違和感がある。
沈む。
ほんの一瞬、遅れてから。
まるで、下にもう一層、何かがあるような感触。
「……妙ですね」
高橋が言う。
「何がだ」
「静かすぎます」
墨田は何も言わなかった。
確かにそうだった。
音がない。
さっきまで、あれだけ生活音がしていたのに。
室内を見渡す。
整っている。
整いすぎている。
生活の痕跡が完全に消されているはずなのに、
住んでいた形だけが、くっきりと残っている。
テーブルの位置。
椅子の角度。
カーテンの開き具合。
誰かが、そこにいる前提で整えられている。
コツ。
音がした。
部屋の奥。
浴室の方向から。
高橋が肩を震わせる。
「……今の、聞きました?」
「聞いたな」
「やっぱり、誰か――」
「行くぞ」
墨田は歩き出す。
一歩。
床が軋む。
その音に、もう一つ重なる。
別の足音が。
同じリズムで。
同じタイミングで。
止まる。
音も止まる。
再び歩く。
また、重なる。
墨田は視線を落とした。
床に、跡がある。
靴跡。
薄く。だが確かに。
しかも一つではない。
二人分。
どちらも、浴室へ向かっている。
「……高橋」
「はい」
「ここ、通ったか」
「通ってません」
「だよな」
浴室の前で立ち止まる。
扉が、少しだけ開いていた。
隙間から、暗い空間が見える。
ぽたり。
水音。
墨田は扉に手をかける。
冷たい。
だが、その奥に、わずかな“温度”がある。
誰かが、さっきまで触れていたみたいに。
開ける。
中は乾いていた。
排水溝も、床も、完全に処理されている。
だが。
洗面台の下。
小さなゴミ箱の中に、それはあった。
白いビニール袋。
ひとつだけ。
きつく結ばれている。
「……回収漏れ、ですかね」
高橋が言う。
墨田は答えない。
袋を見つめる。
結び目。
無駄がない。
整いすぎている。
――コツ。
背後で音がした。
振り返る。
誰もいない。
だが、床に変化があった。
さっきまでなかった場所に、跡がある。
靴跡。
新しい。
濃い。
二人分だった跡が――
三人分になっている。
「……墨田さん」
高橋の声が震える。
「これ、増えてます」
「分かってる」
そのとき。
耳元で、声がした。
すぐ近くで。
「……遅いよ」
墨田は反射的に振り払う。
何もいない。
だが、空気がわずかに歪んでいる。
袋に視線を戻す。
結び目。
同じ手順。
同じ形。
そして、この部屋の気配。
「……今日はここまでだ」
「え?」
「この現場、やり直しじゃない」
墨田は言った。
「最初から、終わってない」
玄関へ向かう。
背中に、視線を感じる。
高橋のものではない。
確実に。
ドアに手をかける。
その瞬間。
後ろで、はっきりと音がした。
足音。
一歩、また一歩。
こちらに近づいてくる。
ドアを開ける。
外の空気が流れ込む。
軽い。
現実の匂い。
振り返らずに、外へ出る。
ドアを閉める。
音は、そこで止まった。
しばらく、その場に立つ。
高橋が、小さく言う。
「……墨田さん」
「なんだ」
「さっきの声、聞きましたか」
墨田は少しだけ考えて、答えた。
「……いや」
嘘だった。
あの声は、はっきり言っていた。
――――「今度は、ちゃんと見てね」
アレは、生きている人間の声じゃなかった。
告知事項アリ、だ……。




